九州説の皆さんのための古代史掲示板


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奴國の丘から
オヤジッチ 投稿日:2019年07月27日 10:54 No.2198
ご無沙汰していますm(__)m
奴國の話題ではありません、伊都国です。
今年初めて伊都國歴史博物館に行きましたら、常設展示(2F)及び自前の資料を使った企画展(伊都国発掘‐令和元年‐)での写真撮影がOKになっていました。でゃんサイン表示されています。


蔚山人 投稿日:2019年08月03日 15:07 No.2199
ご無沙汰しています。

オヤジッチさんには、昔の掲示板で私の不用意な言葉で気分を害されたのではないかと思っています。丁度よい機会と思いますので謝らせて下さい。申し訳ありませんでした。

今はネパールにいます。滞在はかなり長くなるでしょう。日本のことはいつも思い出していますが、戻ったら伊都国歴史博物館にはぜひとも寄りたいと考えています。

ネパールは人種のるつぼの国で、コーカサス系、中東系、インド系、黒人系、モンゴル系、チベット系、ネワール系(ネパール系)など、多種多様な人種の方が、身近なところ、狭い中で混じりあって生活しています。日本のように、単一民族の雰囲気というのとは違っているため、興味が尽きません。

掲示板が寂しくて残念にいつも思っています。オヤジッチさんの蓄積された知識を、以前のように時候の挨拶のようなものでも結構ですから、時々は皆さんにご披露して頂けると、有難いと思います。楽しみにしています。


オヤジッチ 投稿日:2019年08月05日 13:28 No.2200
> オヤジッチさんには、昔の掲示板で私の不用意な言葉で気分を害されたのではないかと思っています。
↑何のことでしょうか。何にも気にしていませんが。
> 申し訳ありませんでした。
↑どういたしまして、と言うか、何も謝ってもらうようなことは無いです。 (・・?)
 なんにしろ、私が忘れていると言うか、気になってもいないので、蔚山人さんもお忘れください。

挨拶代わりに
1.先月(まだまとまった雨が降る前)の平塚川添遺跡の復元環濠
2.吉野ヶ里北内郭(定点観測的に行く度にとって増す)
3.おまけ、朝倉三連水車


蔚山人 投稿日:2019年08月10日 15:03 No.2201
オヤジッチ様

いつも風景写真を頂いていますので、こちらのネパールの風景を送ります。

観光地の町はカラフルですし、そこに歩く女性もカラフルです。近くにヒマラヤの山も見えます。(アンナブルナ山)カトマンズ以外は空気が綺麗ですので、歩くのが楽しみです。

歴史はどこにいても常に頭に入れています。古代では日本から朝鮮半島にものが移動していたことが分かってきつつあり、朝鮮半島からのものは殆どないでしょうね。その視点で見直すと、古代の状況がよく分かるようになって来ました。


オヤジッチ 投稿日:2019年08月16日 14:58 No.2202
蔚山人さん、こん○○は。
> オヤジッチ様
↑“様”はやめてください。(*^.^*)

> 古代では日本から朝鮮半島にものが移動していたことが分かってきつつあり、朝鮮半島からのものは殆どないでしょうね。
↑私は浅学にて、唐辛子と前方後円墳くらいしか知らないです。(・_・?)
 教えてください。

写真は、どちらも平塚川添です。


蔚山人 投稿日:2019年08月18日 11:34 No.2203
オヤジッチさんのご指摘には、鋭いものが冷や汗がでています。まあ暑い時期だから良いかというところです。

私が最初に疑問に思ったのは、新羅や高句麗の王の冠には、必ず勾玉がついていることです。これがついているということは、朝鮮の王は倭国の支配下にあったのではないかということです。中国の歴史書には、倭国が朝鮮の支配者であったことを示しています。そうなると勾玉だけではなく、文化的なものも倭国から渡っていったのではないかと思っているところです。新羅の王朝の基本的な王は、倭国から来た人々です。

王仁博士が日本に千字文を伝えたとされていますが、朝鮮には王姓を名乗る人は一人もいません。朝鮮には元々文化がなかったのではないでしょうか。朝鮮は紀元前5千年ことはほぼ無人の地でした。何故なのか、韓国に長く住んでいると、よく分かりますが、作物を育てる環境や居住環境が非常に悪いですね。表土がありませんし(南はややマシ)、中小河川は石ころだらけ、寒さは厳しく、生活するのが精一杯といったところです。渡来人と称されている方々の、何割が正真正銘の朝鮮人でしょうか。秦さんは朝鮮人でしょうか。

ここでは、文化というものが育ちません。そこから日本に渡ってくるのは、飢えに苦しんだ人々位でしょう。この状況は基本的に今まで変わらず、終戦前後まで続いています。稲の文化が朝鮮から渡ってきたのであれば、稲に関する朝鮮語が日本に伝わっているはずです。ありません。日本の稲作遺跡は、朝鮮よりはるか昔です。渡ったと考えるのが自然です。石包丁もその流れでしょう。百済では、1世紀になり人々が始めて稲作を許可されました。稲作は朝鮮では、扱いが違っていたのではないでしょうか。

青銅器の材料が、日本から渡ったのではないかと、成分の分析から言われてきています。終戦後唱えられた(今もそうですが)朝鮮から日本へという流れは一部を除いてありえません。しかし鉄の材料は朝鮮で取れますので、周りの人々が群れて収奪していたようです。そうゆう流れはあったでしょう。

住宅の形である花弁式住居跡が南朝鮮にあり、日本のものは朝鮮から渡ってきたのではないかと言われていますが、果たしてそうでしょうか。朝鮮ではその形式はその後途絶えますが、日本では長く使われています。本来の起源の場所が倭国にあったためでしょう。

北朝鮮の国宝展が韓国で開かれた時、あるいは慶州の国立博物館を見学した際に、民衆レベルのものは展示物がないか、非常に貧しいものでした。王朝としての若干の文化はあっても、民衆の文化はありません。そのような所から文化の伝播はないと思います。逆に「珍しいものがたくさんある」日本にこそいろいろなも文化として伝わるに相応しいものがあったのではないでしょうか。

支石墓というものがあります。これは南朝鮮(地下式)と北朝鮮(地上式)で形式が違うことは有名ですが、南朝鮮のものは日本の長崎県辺りを中心とする形式と同じです。この支石墓は、対馬と壱岐では見つかっていません。それは何故か、江南に発したこの支石墓が黒潮にのり、長崎と済州島等の方面に分かれて伝わったためと言われています。朝鮮から日本へという流れがなかったためです。そうゆう形での、文化の伝わり方もあったでしょう。


オヤジッチ 投稿日:2019年08月22日 10:37 No.2204
> 新羅や高句麗の王の冠には、必ず勾玉がついていることです。
↑初めて聞きました、半島の王冠自体何も知りません。m(__)m
 写真などお持ちですか、西谷先生の「古代日本と朝鮮半島との交流史」と武田幸男の「古代を考える・日本と朝鮮」程度しか読んでませんが、半島の王冠に勾玉が付いているというのは初耳(初読)です。

> 朝鮮には王姓を名乗る人は一人もいません。
↑百済に渡来した中国人であるとされ、この場合姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解があるそうです。

> 朝鮮には元々文化がなかったのではないでしょうか。
↑これは言いすぎでしょう。(・_・?)

> 朝鮮は紀元前5千年ことはほぼ無人の地でした。
↑日本も紀元前5千年は縄文時代前期末ですけどね。

> 日本から渡ったのではないかと、成分の分析から言われてきています。
↑これまで私が学んできたことの真逆ですね。 (¨!

> 朝鮮ではその形式はその後途絶えますが、日本では長く使われています。本来の起源の場所が倭国にあったためでしょう。
↑花弁状住居跡は宮崎県中南部から鹿児島県大隅半島にかけて多く分布し、熊本、大分両県でも数カ所で見つかっているが、北部九州(福岡、佐賀、長崎県)では2008年に三養基郡みやき町原古賀の西寒水(にししょうず)四本柳(よんほんやなぎ)遺跡で、弥生時代中期とみられる「花弁状住居」跡の発掘が初めてで。同町教委は「内部構造を含めた特徴が一致している。弥生中期の九州北部と南部の文化的交流を示す」発表しています。
 また、文化形式は発祥地では次々に変化し、古い形式は周辺部に長く残存すると言われています。

 いずれにしても、考古学的検証、資料検討が必要ですね。
 頑張ってください。楽しみにしています。
 写真は8月21日の平塚川添。干上がっていた環濠にいくらか水が溜まってました。


蔚山人 投稿日:2019年08月22日 23:53 No.2205 【Home】
オヤジッチさん

私が不思議に思うことは、朝鮮半島では青銅器の鋳型が見つかっていないことです。日本では、福岡市だ琵琶湖だと騒がれますが、これは何を意味するのか。

鉛を通した青銅の成分は、弥生初期は朝鮮からもたらされたかもしれませんが、それ以降は全て中国です。今学者の間では、ある種の小武器などは、朝鮮に輸出されたのではないかという話が出てきているそうです。

新羅の王冠の写真をつけますが、URLで出したのでうまく添付されているか不明です。なかったら御免なさい。




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