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伊那下神社献詠歌まき 山人 投稿日: 2011年08月28日 19:19:05 No.51 【Home】 【返信】

大正13年   
      無線電話

ラジオてふ器そなへて外国のものかたりきくくしきわざかも

外国もちかくなりけり大空の電の波に言葉かはしつ

坐ながらに人の言葉も糸竹の音もきゝうるラジオなるかな

ハリガネの糸はなけれど外國と今日のよしあし語り合うかな

宙もみつエレキの波をたよりにて千々の言葉きくぞ奇すしき

とふとくも世の事みなを針金の糸よりやすくきくぞうれしき

雷の力をつかい線もなく語らふ御代にあふぞうれしき

大洋をへだつる外国の友人と言とひかわすあやし世の中

進み行世を健やかにながらへて今日も恐しくラジオきくなり

よしあしの此世の人の言葉を天にしらする無線電話ぞ

冬こもるやどにまちつつ人みむと大洋はしる無線電話を

ラジオてふ器のもとに送りける電の波の業ぞおそろし

眼なくとも耳と心と二つにて言葉かわしつ稲妻の道

海山を遠くへだてて外人と語り会ふ世ぞうれしかりける

雷をたくみになして線なくも遠き彼方とかたりえられて

いなずまのちからをかりて大洋をへだつる友と語るうれしさ


伊那下神社献詠 山人 投稿日: 2011年08月25日 20:56:33 No.49 【Home】 【返信】

大正十二年
       社頭祈世

 なゐぬるを鎮めたまへと世の人の祈る心は神やうくらむ

 人みなの心あわせてつとめつつ国の栄を神に祈らむ

 國民を一心に神路山内外の宮に御代祈るかな

 地震(なゐ)ぬりて いためたる國を 大君の
    神にいのれば 御代はあけなむ

  天つ神 國つ社(やしろ)に 身そきして
    君が代いのる 千々の宮人 

  地震ふれは皇国のなげきくみたまへその里々の御社の神

  千もる秋ゆたけき秋の君が代をさらにぞ祈る神の廣前


  


伊那下の和歌 (へ) 山人 投稿日: 2011年08月25日 12:00:16 No.48 【Home】 【返信】

 
        有義
 津幾立之
   安免乃美者之良
    與路徒世耳
  宇古加怒國楚
    於不也之末久仁 

   つきたてし
    あめのみはしら
   よろつ世に
     うこかぬ國そ
    おふやしまくに

佐伯 有義(さえき ありよし、慶応3年10月(1867年) - 昭和20年(1945年)9月25日)は、富山県出身の神職、神道学者である。

慶応3年(1867年)10月、代々立山雄山神社の祠職を勤める佐伯有久の子として、富山県中新川郡立山村に生まれる。明治15年(1882年)上京して皇典講究所へ入学、同20年(1887年) に同所を卒業して、『古事類苑』の編纂等に携わり、同25年(1892年)宮内省掌典職を拝命、同28年(1895年)には気多神社(現気多大社)の宮司に任官、同38年(1905年)帝室制度調査局から「皇室諸令附式」の起草を嘱託され、同45年(1912年)六国史校訂材料取調掛、大正元年(1912年)大喪使事務官、翌2年(1913年)大礼使事務官を歴任し、同14年(1925年)に勅任待遇を受け、翌15年(1926年)従四位に叙される。昭和2年(1927年)に國學院大學の講師、同11年(1936年)に同教授となり、その間に無窮會東洋文化研究所講師も兼ねながら、特殊祭儀委員、礼典課長事務取扱を経て、同18年(1943年)学位論文「古代における朝儀の祭祀につきて」で國學院大學の文学博士号を受けた。昭和20年(1945年)9月25日、郷里富山での疎開中に没す。享年79。

    


伊那下の和歌 (ほ) 山人 投稿日: 2011年08月24日 08:22:24 No.47 【Home】 【返信】


      四方拝

  越可美末須 今左能火可美遠 波之免爾亭

    御代乃光や 與母仁加ゝ也久

           諸歌和集所文学博士榲邸

  をかみます けさの火かみを はしめにて

     御代の光や よもにかゝやく
            小杉榲邸(こすぎすぎむら)

  四方拝(しほうはい)

四方拝は、正月元旦の早朝、神嘉殿前庭(しんかでんぜんてい)で、白砂の上に小さな畳を敷き屏風で周りを囲った御拝座に、黄櫨染御砲(こうろぜんのほう)を召された陛下が出御(しゅつぎょ)される。そこで伊勢の神宮をはじめ天地四方の神々、御先祖を遙拝(ようはい)され、敬神崇祖のまことを申し述べ、世の平安を祈られる儀式です。
 宮中では、このような祭事が千二百年近く続けられておりいます。
 われわれが元旦早々に初詣をして新年の挨拶をかわすような正月儀礼は、宮中行事の影響により拡大普及したものである。

 小杉 榲邨(こすぎ すぎむら、天保5年12月30日(1835年1月28日) - 明治43年(1910年)3月29日)は、国学者。
徳島の人。藩校で漢学経史を学び、古典の研究に専念し、本居内遠の門人である池辺真榛に師事。安政元年(1854年)、江戸に出て、村田春野、小中村清矩と交わった。文久ころ、勤王論を唱えて幽閉された。明治2年(1869年)、藩から地誌の編集、典籍の講義を命じられた。廃藩ののち、名東県に出任した。明治7年(1874年)、教部省に出仕し、明治10年(1877年)に文部省で修史館掌記として『古事類苑』の編集に従った。明治15年(1882年)、東京大学古典講習科で国文を講じ、さらに文科大学講師、その間、帝室博物館監査掛評議員として古社寺の建築、国宝の調査に従事し、明治32年(1899年)、美術学校教授、御歌所参候を兼ねた。明治34年(1901年)、文学博士。「徴古雑抄」の著がある。
明治40年(1907年)、『源氏物語』の写本のひとつである大沢本を鑑定した(「鑑定筆記」)。



無題 山人 投稿日: 2011年08月22日 17:36:25 No.44 【Home】 【返信】


      伊豆紀行乃中爾
                義象

     鳩乃那久
      止悲乃杉山
        日盤久連天
      之久禮爾闘ゝ久
        伊豆乃海原爾


    伊豆紀行の中に

  鳩のなく とひの杉山 日はくれて

  しぐれにつゝく  伊豆の海原に

   いけべ‐よしかた【池辺義象】

国文学者・歌人。藤園と号。熊本生れ。
国文・和歌・古代法制に精通。一高教授・御歌所寄人。著「日本法制史書目解題」「日本文学史」など。(1861~1923) 万延二年~大正十二年



伊那下の和歌 (は) 山人 投稿日: 2011年08月21日 19:44:24 No.42 【Home】 【返信】

       落花浮水

   奈賀禮久留 水耳毛花乃 浮久巳禮波

   小金井安多利 桜知留奈武
                   正彦

   ながれくる 水にも花の 浮くみれは

   小金井あたり 桜ちるなむ
                   まさひこ

  丸山正彦 まるやま-まひこ

1859-1914明治-大正時代の国学者。
安政6年6月17日生まれ。浅山純一らに漢学を,坂本秋郷に国学をまなぶ。明治14年上京。丸山作楽(さくら)の指導をうけ,その養子となる。皇典講究所講師などをへて,29年陸軍中央幼年学校の教官。大正3年11月6日死去。56歳。肥前松浦郡(長崎県)出身。帝国大学卒。本姓は江上。初名は栄三郎。号は松廬。
        


伊那下の和歌 (ろ) 山人 投稿日: 2011年08月20日 21:02:30 No.41 【Home】 【返信】

  古能多ゝ志幾跡 由満闘和斗天

  新波里道毛  太登禮世乃人
                    与理玖爾

  古のただしき跡 ゆまつわとて

  新はり道も たどれ世の人
                    よりくに

いのうえ‐よりくに【井上頼圀】
国学者。江戸神田生れ。平田銕胤カネタネの門下。修史館出仕。皇典講究所・国学院の設立に当る。「古事類苑」の編纂に参与。(1839~1914)
天保十年~大正三年



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