金関 恕氏が発見した国宝・中平銘鉄刀(東大寺山古墳出土)。 その鉄刀の主、和邇氏とヒミコは繋がるのか。 繋がります。 和邇氏はトヨから始まります。 事代主 ┣━━━━━━━━━━━━┓ 天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武 ┣━━━━━━━━┓ 建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧 ┃ ┃ 建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没) ┃ ┃ 豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳 ┃ ┃ 大御気主 孝昭 ┃ ┃ 阿田賀田須 天足彦国押人命 ┃ 和邇日子押人命 ┣━━━━━━━┓ 彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃) ┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓ 伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命 ┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】 彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】 (武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓ 八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命 (吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) 邪馬台国の都はヒメ踏鞴やトヨ津が住んだ葛城、奈良県御所市。 魏志倭人伝の女王国とは葛城王朝でした。 神武東征紀とは、実際には女王国であった史実を隠ぺいするための大袈裟な記述であった事が分かります。 |
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先代旧事本紀 巻第四 地祇本紀 (略) 五世孫、建甕尻命(たけみかじりのみこと)。またの名は建甕槌命(たけみかつちのみこと)、または建甕之尾命(たけみかのおのみこと)。 この命は、伊勢の幡主の娘・賀貝呂姫(がかいろひめ)を妻として、一男をお生みになった。 六世孫、豊御気主命(とよみけぬしのみこと)。またの名を建甕依命(たけみかよりのみこと)。 この命は、紀伊の名草姫(なくさひめ)を妻として、一男をお生みになった。 七世孫、大御気主命(おおみけぬしのみこと)。 この命は、大倭国の民磯姫(たみいそひめ)を妻として、二男をお生みになった。 八世孫、阿田賀田須命(あたがたすのみこと)。 和迩君(わにのきみ)たちの祖である。 次に、弟の建飯賀田須命(たけいいがたすのみこと)。 この命は、鴨部(かもべ)の美良姫(みらひめ)を妻として、一男をお生みになった。 九世孫、大田々祢古命(おおたたねこのみこと)。またの名は大直祢古命(おおただねこのみこと)。 この命は、出雲の神門臣の娘・美気姫(みけひめ)を妻として、一男をお生みになった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー スサノオの子孫、鴨氏の系図ですが、妻の名と子供の数まで書かれてるのに、ただ一人、八世孫の阿田賀田須命だけ妻の名前がない。 弟の建飯賀田須命の妻の名が書かれてるのに実に不自然。 これは朝廷に気兼ねしてさすがに書けなかったと見る。 その理由は、阿田賀田須の妻があの箸墓伝承のモモソ媛だからだ。 崇神紀に出てくる大物主とは阿田賀田須、そして崇神により頃された。 それが証拠に、次代が、崇神が須恵邑から呼んできた大田々祢古に替わっている。 鴨氏の男系が、大物主を祀る大神神社の神官になっている。 つまりこれはクーデターなのだ。 その阿田賀田須を祀ってきたのが天理の和爾集落。 祀ってきた社は和爾坐赤阪比古神社{わににますあかさかひこじんじゃ}。 「国宝」中平銘鉄刀の保持者・和邇氏の源郷だ。 卑弥呼もトヨも大物主の系譜にいる。 |
明治天皇になるまで1500年間、天皇は伊勢神宮を参拝しなかった。 壬申の乱の際、伊勢になだれ込んだ大海人皇子(のちの天武天皇)でさえ、遠くから望拝したに過ぎない。 何故だろうか。 「天皇」は伊勢神宮が怖かったからである。 4世紀前半、ミマキイリヒコ(後の崇神)が易姓革命をおこし、大物主を殺した。 殺された大物主とはモモソ媛の夫であり、太古から続くイズモ最後の王・阿田賀田須である。 崇神は阿田賀田須の怨霊を怖れ、大神神社を建て慰霊する。 それでもまだ怨霊が恐い崇神は、神殺しの自分の姿が映ったのであろうか、祭器の鏡を手元から放逐した。 その鏡が今は伊勢神宮にある。 その鏡は今も居場所がなく、20年に一度「式年遷宮」という形で伊勢神宮境内を彷徨う。 だから「天皇」は1500年間、伊勢神宮を怖れ、参拝しなかったのだ。 |
近年の歴史学では神武や初期8代など古代天皇をはじめ、ニギハヤヒ、大物主、スサノオ、ことごとくその実在が否定されている。 しかし本当にそれでいいのだろうか。 新井白石や本居宣長の時代には「考古学」という学問すらない。 それに比べ今は膨大な考古学資料がある。 例えていうなら今の学者の筒には3千本の矢が入っている。 3千本もあるのだから、いずれ的に当たるだろうと彼らは己惚れている。 しかし何本矢を放とうが的に当たらない。 とうとう矢を放つことさえやめたような学者もいる。 それは卑弥呼が誰なのか言えない学者である。 考古学資料から崇神天皇がおおよそ4世紀前半に決まりつつある。 ならばその数十年前のトヨを探せばいいのに誰も探そうともしない。 卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという固定観念があるからだろう。 、 一方、新井白石や本居宣長の時代には筒に矢が1本しかない。 しかし彼らはその1本の矢で見事に的を撃ちぬいた。 その矢とは「倭国王帥升(Shuai sheng )はスサノオではないのか」というたった一本の矢=仮説である。 そして彼らはスサノオの5世代100年後にいる卑弥呼を簡単に見抜いた。 しかしそれは自分の生まれ育ったこの日本の歴史が中国への土下座から始まるという耐えられない屈辱でもあった。。 だからこそ彼らは心にもない九州説を唱えることで「邪馬台国論争を創った」のである。 |
https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/entry-12313142822.html 銘文にはこう刻まれている。 中平□(年) 五月丙午 造作文刀 百練清剣 上応星宿 (下僻不祥) (カッコ内は字画が失われて、はっきりとしていない推定) 銘文の意味は、中平□年の吉日(五月丙午)に、文字を刻んだこの刀を作った。鉄の素材を徹底的に叩き締めて作った美しく清らかな剣である。 上は世間の運気を司る天上の星宿に呼応し、下は地上の禍(魔が事)を遠ざける力がある。そんな刀である、だろう。 まずこの鉄刀は、後漢の霊帝が国家の意志として日本列島のだれかに与えたものであろうということは間違いなかろうとされてきた。 この時代、中国でもこうした象嵌を施した刀は極めて少なく、記録が残っているものを含めても数本しか発見されていない。きわめて貴重なものなのだ。 何の目的で、そして誰が誰に贈るために造られたかは銘文には出てこない。今はやりの?〝忖度(そんたく)〟をするしかない。 しかし、柄の先端に環頭の飾りつけ、黄金色に輝く太刀は国家的な意志を表していると考えざるをえない。同盟国への友好の印(しるし)とか。 贈り主は霊帝であろうというこれまでの一般的な理解に対して、金関氏は同雑誌の中で 「そうではなかろう。この時代、帯方郡を設けて朝鮮半島や倭を支配していたという公孫氏が造り、卑弥呼に贈った太刀ではないか」という見解も明らかにしている。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー つまり卑弥呼が貰った五尺刀との「仮説」は成り立つわけです。 そして発見場所の和邇氏の系譜に卑弥呼(Bei mi hu )がいるのではという仮説も成り立つわけです。 和邇氏の系譜に 比売后〈Bi mai hou〉 比咩后(Bi mie hou) ヒメ后が居ます。 私は死ぬまで言い続けますのでこれからもよろしくお願いします。 |
日時: 2019/08/06(火) 17:22:25 メンテ 名前: 米田 喜彦 【投稿:その1】 ┌ │中平銘鉄刀とヒミコの系図 投稿者:万事一滴 投稿日:2019年 8月 6日(火)14時20分32秒 │ │ 米田さま │ │系図と銘打たれた題名から久しく気になっていましたp君兄の「中平銘鉄刀とヒミコの系図」を覗いてみましたら、 │見慣れない系図に立ち眩みしそうなり、先ずは先達の貴兄に水先案内を請わせていただいてからと、 │門前で諦めるかも判りませんが、門を叩かせていただこうとした次第です。 │ │p君兄の援用されています基礎資料は貴兄が依拠されています資料と同系でしょうか。 │貴兄の考証ではどうなるかもご開陳いただけませんでしょうか。 └ 『東大寺山古墳(とうだいじやまこふん)』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 : :東大寺山古墳は、奈良県天理市櫟本町にある古墳。形状は前方後円墳。出土品は国宝に指定されている。 :古墳時代前期中葉にあたる4世紀後半頃の築造とされ、副葬品の中には24文字を金象嵌で表して「中平」の紀年銘を持つ鉄刀がある。 :「中平」銘刀 :刀身の棟の部分に24文字を金象嵌で表した長さ110センチメートルの鉄刀1口が出土した。鉄刀の刀身の銘文は「吉祥句」を用い、 :「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」 :と記されていた。内容は「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、 :天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」という意味である。 :中平とは後漢の霊帝の年号で、184~189年を指し、「倭国乱」(『魏志』倭人伝)「倭国大乱」(宋書)が終結した時期、 :2世紀の末である。中平銘紀年刀は「倭国乱」終結後、後漢王朝から下賜されたものであると考えられている。 (系図:その1):日本書紀の記述をもとにした系図です。 ┣━━━━━━┓ アマテラス スサノオ ┃ オシホミミ ┃ ニニギ ┃ ホオリ 事代主 ┃ ┃ フキアエズ ┃ ┃ ┏━━━┻━━━┓ 神武 媛踏鞴五十鈴媛 天日方奇日方(鴨王) ┣━━━━┛ ┃ 綏靖 ┃ ┃ ┣━━━━━━┓ 安寧 渟名底仲媛 建飯勝 ┣━━━━━━━━━━━━┛ ┣━━━━┓ 懿徳 息石耳 ┃ ┃ ┃ トヨ津媛 ┣━━━━┛ 孝昭 ┃ 天足彦国押人命 (系図:その2):『先代旧事本紀 巻第四(地祇本紀)』の記述をもとにした系図です。 事代主 ┣━━━━━━━━━━━━┓ 天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛 ┣━━━━━━━━┓ 建飯勝 渟名底仲媛 ┃ 建甕尻 ┃ 豊御気主 ┃ 大御気主 ┃ 阿田賀田須 (系図:その3):『和珥氏』の系図(確定されたとして通用している系図)です。 孝昭 ┃ 天足彦国押人命 ┃ 和邇日子押人命 ┣━━━━━━━┓ 彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃) ┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓ 伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命 ┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】 彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】 (武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓ 八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命 (吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) (p君氏の個人的な主張) ・・・ヒメ(踏鞴五十鈴)媛 = 卑弥呼、ヒメ踏鞴(248年没)。 ・・・ スサノオ(107年) = 倭国王帥升(Shuai sheng )。 ┌ │p君兄の援用されています基礎資料は貴兄が依拠されています資料と同系でしょうか。 └ ※:以上のように、p君氏の提示している系図は、三種類の系図、つまり、 _:「日本書紀」・『先代旧事本紀 巻第四(地祇本紀)』・『和珥氏』の系図を _:合成したものです。ですので、特に作為的な系図ではなく、ごく普通の系図です。 _:ただ、系図を投稿する時には、系図の出典を示された方が良かったかと、思います。 ※:私は、次の投稿(系図)に出てくる「梨迹臣命(なしとおみ-の-みこと)」と _:魏志倭人伝に出てくる、大夫「難升米・難斗米」を同一人物と考えています。 |
日時: 2019/08/06(火) 21:06:06 メンテ 名前: 万事一滴 中平銘鉄刀の考証 p君さま 小生も、同刀は反りがあり、日本刀の源流に関わりありやなしやで気になっていて、貴表題「【国宝】中平銘鉄刀とヒミコの系図」は気になりながらも、笑われそうですが、p君と名乗られていることもあり、見慣れないヒミコの系図に怯み、先ずは系図にもお詳しい米田兄にイロハからご教示を乞わせていただき、早速、懇切に解説を賜り、中平年が後漢代の中平年であることに愕き、貴兄のご喚起の意義に遅蒔きながら、気付かせていただきました。解釈を巡っては、貴兄も慨嘆されておられますように、仮措が整理されることなく充満していて、検証されている真砂のなかの本物を拾うような作業になりますが、本邦の古代学の現実であり、仮措の排除から遣り直すしかないのではないでしょうか。 米田さま 早速、懇切にご教示賜り有り難うございました。 |
日時: 2019/08/08(木) 19:34:52 メンテ 名前: p君 万事一滴さま 米田さんの言われるように、私が示してる系図は、和邇氏系図と日本書紀と先代旧事本紀をリンクさせたものです。 私個人が創作した部分は入っておりません。 というか系図は創作するものではないと思ってます。 卑弥呼:Bei mi hu =比咩后(Bi mie hou)比売后〈Bi mai hou〉=ヒメ(踏鞴五十鈴)后 というのはもちろん仮説ですが、 この仮説が正しいとすると邪馬台国の王都は葛城となります。 どういうわけか世間では日本最古の神社を桜井の大神神社とする説が多いようですが、 葛城には大神神社より古い式内・名神大社が複数存在してますから、大神神社を崇神の御代4世紀前半とすれば、 これら葛城の名神大社はそれ以前となり、3世紀の卑弥呼がいた邪馬台国の王都にふさわしいことになります。 また考古学界では纏向古墳群の中心というべき箸墓古墳の年代が卑弥呼の死亡時期になるかどうか、 ほぼその一点に注目が集まってるようであります。 考古学者では白石さんや福永さんが箸墓説、石野さんは勝山説、寺澤さんはどうやらホケノ山説、 どちらにしても纏向古墳群のどれかであろうという風潮があるやに思われます。 しかしこの纏向古墳群は魏志の「其国の男王」のいた2世紀前半までには遡りません。 また卑弥呼墓の「徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」、 これについては全く説明ができないであろうと思われます。 崇神の御代4世紀前半とすれば、日本で唯一、奴婢、または奴婢になったであろう集団が埋葬されている場所、 それはヒメ(踏鞴五十鈴)后の住んだ葛城にしかありません。 その場所が高天原最有力地である奈良県御所市高天、日本最古(級)の高天彦神社境内であります。 また卑弥呼:Bei mi hu=ヒメ(踏鞴五十鈴)后なら、なぜ古代天皇が100歳超える年齢なのか、 それが、倭国王帥升(Shuai sheng )=スサノオのAD107年、後漢・安帝に対する謁見要請、 つまり土下座隠しのために時代を大きくずらし、 その結果、古代天皇が100歳超える年齢になったということが分かります。 私の説の支持者などまったく居ませんが、私は全然間違ってないと思ってます。 |
東大寺山古墳から中平銘鉄刀が出た。 その場所が天理市和爾、和邇氏の本拠でおそらく間違いないであろう。 そしてこの刀は卑弥呼の五尺刀ではないかという仮説が成り立ち、和邇氏の系譜に卑弥呼がいるという仮説も成り立つ。 そして上記の系図で示したように和邇氏の系譜に卑弥呼もトヨもいる。 このヒメ(踏鞴五十鈴)后が卑弥呼(Bei mi hu )かどうか、 【年已長大、無夫壻】は夫の神武に先立たれている事から合致、 【事鬼道、能惑衆 】 は鴨族=銅鐸族なので説明がつく、 【唯有男子一人、給飲食、傳辭出入】はタギシミミとすれば合致、 【有男弟佐治國】は男弟を徒弟・臣下とすれば、彼女に代わり政治を行ってた実兄の天日方奇日方命(申食国政大夫)が合致、 何よりも彼女は事代主神の娘で鴨王(かものおおきみ)のこと天日方奇日方の妹ですから、これほど魏志の女王の記述に近い女性はいないと思われます。 わたしは問題なく、ヒメ(踏鞴五十鈴)后が卑弥呼だと言えると思ってます。 |
継体・欽明以前の日本書記を基本的に史実と見なさないという論をよく目にします。 考古学者にもそういう方が多いと思われます。 それはそれとして、ならば考古学だけで径百余歩の塚を提示し、その塚が卑弥呼の時代になることを証明すればいいだけです。 しかしながら白石さんや福永さんの箸墓説、石野さんの勝山説、寺沢さんのホケノ山説、それぞれみんな魏志の卑弥呼墓の記述に当てはまりません。 これは継体・欽明以前の日本書記を基本的に史実と見なさないという前提が間違えてるからでしょう。 私は継体・欽明以前の日本書記を基本的に史実と見なすどころか、神武実在、スサノオ実在、高天原実在という論者です。 大和朝廷発祥地にある高天原最有力地に径百余歩の塚がある、そして伝承として奴婢=土蜘蛛が埋葬されている。 これらが「ある」という事実は消せません。 |
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/87_116.pdf 神武から崇神までの物部、中臣、三上、鴨の相関関係です。 中田憲信「諸系譜」より |
神武東征のような大きな出来事があった、とすればその時期はおおよそ分かる。 神武東征のような大きな出来事があれば考古学的に大きな変化が起きているだろうからである。 大和盆地において、それまで続いていた環濠集落が終わり、土師器の生産が始まり全国に派生し、そして古墳時代が始まるという大変革の時代は2世紀末の庄内0期である。 そしてそれは卑弥呼擁立の時代でもある。 神武を倭国王帥升の時代である2世紀初頭とか、 卑弥呼をアマテラスに見立てその5世代後の3世紀末を神武の時代にはできないのである。 2世紀初頭や3世紀末に大和盆地で大変革は見られないからである。 すなわち神武と卑弥呼は同じ時代、2世紀末から3世紀初頭なのである。 卑弥呼(Bei mei hu)とは、 比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、 つまりヒメ后=ヒメ(踏鞴五十鈴)媛である。 |
崇神の時代に出雲の神宝が奪われる。 出雲振根の事件である。 その出雲の神宝とは何であろうか。 私は、今現在も三種の神器の一つである八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)ではないかと思っている。 面白いことに、大和で剣、玉、鏡の三種の神器が揃うのは 4世紀初頭あたり、桜井茶臼山古墳からである。 その前、3世紀前半のホケノ山古墳には勾玉がない。 ホケノ山の被葬者は「王」ではなかったからではないだろうか。 3世紀後半の箸墓古墳、もちろん発掘はされてないが、おそらくこの古墳にも「勾玉」はないと私は推測している。 崇神が出雲から力づくで神宝「勾玉」を奪った。 そして正真正銘の大王になった。 だからこの時代(4世紀初頭)以降、三種が揃うのであろう。 |
少し前、京都テレビで崇道神社(すどうじんじゃ)の特集をしていた。 wiki 社伝によれば、785年(延暦4年)9月長岡京造宮使であった藤原種継が暗殺された事件に連座したとされる早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるため貞観年間(859年~877年)に創建されたという その番組の解説で、「祟」と「崇」という似て非なる字の話をしていた。 祟は「たたり」で、崇は「あがめうやまう」の意味。 霊が祟(たたる)からこそ崇(あがめうやまう)ということらしい。 これはもう崇神天皇そのものであろう。 祟るのは大物主の霊。 即位5年 国民が疫病で半分以上死亡。 即位6年 天照大神を豐鍬入姬命(=崇神天皇の娘)に祭らせる。 日本大國魂神を渟名城入姬(=崇神天皇の娘)に祭らせるが、髪が抜け落ちて祀れなかった。 即位7年2月 大物主神の神託を受ける。 即位7年8月 大田々根子に大物主を祀らせる。疫病が止む。 7世紀の朝廷でもミマキイリヒコによる易姓革命のことは誰でも知っている公然の秘密だったと私は推測している。 これをどのように革命を起こした側の視点で国史として伝え残すか。 崇神の時代という生々しい時代設定ではなく、中国に倣い、前王の禅譲、つまり「国譲り神話」にした。 ミマキイリヒコによる易姓革命、つまり神殺しの現場は三輪山であろう。 高天原もそうだが、鴨族は水源に住む。 三輪山に水源がある事はグーグルマップでも確認できる。 通い婚の時代、モモソヒメと結婚した大物主=アタガタス命はモモソヒメと会うために三輪山に来ていた。 そこを狙われた。 三輪山祭祀とは怨霊封じであり、そして殺害現場隠しでもあろう。 |