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投稿者:p君
wikiより 易姓革命 易姓革命(えきせいかくめい)は、古代中国において起こった孟子らの儒教に基づく、五行思想などから王朝の交代を正当化する理論[1]。 周の武王が殷の紂王を滅ぼした頃から唱えられ、天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、 徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革める)が起きるとされた。 それを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。 無論、堯舜などの神話の時代を除けば禅譲の事例は実力を背景とした形式的なものに過ぎない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー かつて北方民族「扶余」が南下、日本列島に渡り王朝を築いたという騎馬民族征服王朝説があった。 しかしこれは桂甲などの騎馬文化がゆっくりと段階的に日本に取り入れられていることからもあり得ない。 そういう異民族による王朝交代ではないけれど、臣下が主君を倒す易姓革命が日本であった。 革命を行った臣下とはハツクニシラススメラミコトコトこと崇神である。 4世紀初頭を生きた崇神は、後の7世紀に創作される称号で「天皇」である。 その崇神の時代までモモソ媛と結婚した大物主が生きていた。 ではその崇神と生きていた大物主のどちらの地位が上か、これは主と付くからには明らかに大物主であろう。 弥生時代の加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の銅鐸拡散に見られるように、出雲と畿内は早くから一体化、 その大きな国の主が大国主=大物主であった。 崇神を生み出した瀬戸内海洋集団・物部はその臣下に過ぎなかった。 崇神はその物部の母を持つ。 崇神の時代に出雲の神宝が奪われ、出雲に国造が置かれ、出雲大社が建てられる。 そして数百年間も四隅突出墳墓が続いていた出雲に前方後円墳が造られる。 実際にはこのような武力によって行われた革命にもかかわらず、 記紀では主が自ら位を譲った禅譲とされた。 それがいわゆる「出雲の国譲り」であろう。
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