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物質宇宙にあって「粒子」的物象は存在しない Sophia7 投稿日: 2023年09月01日 22:53:32 No.10 【返信】

色々と考えることがあって、どう書けば良いのかがよく分からない。ここでは、
比較的に分かりやすい、「粒子的物象・存在」が物理的世界には存在しないと
いう認識について記す。

これは素朴な考えであったと今は思う。しかし分かりやすい考えだとも思う。
このような考えは、光の「粒子性」と「波動性」という二つの特性はどう調和
するのかという問題に関係している。また、量子力学におけるコペンハーゲン
解釈で出てくる、「波束の瞬間収縮」という、ある意味のパラドックスを、ど
う考えるかという問題に関係する。

「波束の瞬間収縮」というのは、量子力学では、例えば「電子」は、存在確率
の波として空間全体に広がっている。無論、一様に広がっている訳ではなく、
固有波動関数の三次元的な形状に応じて分布している。

「波束の瞬間収縮」というのは、この波動の波のパターン分布として存在して
いる電子が、何かの方法で「観測」すると、その瞬間に、「粒子」として観測
される。その瞬間には確かに粒子として現れているのである。しかし、観測の
前には、電子は粒子ではなく、波であった。波動として存在していたので、特
定の位置に存在する粒子ではなかった。

「観測」の瞬間に何が起こっているのか。現象の結果から言うと、波として、
波動関数として広がっていた電子が、観測の瞬間に、1点に収束して粒子とな
るのだと考えるしかない。これが、「波束の瞬間収縮」ということである。
波束というのは、電子は完全な自由状態では、空間全体に広がっているのに対
し、物理学的な観測対象となる電子は、通常何かの束縛で、ある領域のなかで、
固有なパターンの波動の束のようになっているからである。「束」ではあるが、
粒子ではない。あくまで「波の束」であり、それ故「波束」と呼ぶ。

ここで波として広がっていた電子が、観測の瞬間に一点に粒子として現前する
というのは、広がりのある波が、瞬間に一点に収束あるいは収縮するというこ
とになる。有限の時間の経過の後に一点に収束するのではなく、瞬間に収束す
る。これは特殊相対性理論の「光速度不変の法則」に反しており、光速度より
も遙かに高速な速度で、波束状態の電子が一点に集まること、移動することを
意味する。しかし、これは物理学的に、受け入れがたい現象である。瞬間移動
というのは、「情報」であっても、特殊相対性理論の宇宙では存在しない。

この問題はどう考えれば良いのか。これについて、現在の物理学で標準的に考
えられているのは、二つの解釈である。

1]量子エンタングルメント(量子もつれ)
2]観測による世界分岐

「量子エンタングルメント」というのは実は何も説明していない。粒子力学的
な物理世界では、そういうことが起こると言っているだけで、何故起こるかと
いうと、量子もつれ状態にあるからであるというのが答えである。

他方「観測による世界分岐」は、研究者によっては、これが量子力学的世界の
実相だという考えである。瞬間収縮が起こったというより、観測によって宇宙
が分岐して、ある一点に電子が存在するという宇宙が、電子が波束として広が
っていた宇宙から分岐して生成されたという考えである。分岐して新しく生成
されたので、元の条件は、分岐宇宙には関係していない。

しかし、このどちらもおかしいのではないのか、というのが私見である。ある
いは、何かごく初歩的な処で勘違いしているのかも知れないが、1]も2]も
おかしいというのが、わたしの個人的な考えである。

では、どういうことなのか。

特殊相対性理論は物理学のモデル理論として高度な確実性を持っている。従っ
て、何か矛盾があるとすると、それは量子力学の方である。

上の話では、「波束の瞬間収縮」の持つ問題について述べているが、量子力学
の持つ問題は、もっと別の形で表現される。アインシュタインは量子力学の持
つこの問題性に納得しなかった為、他の物理学者と共同で、EPR思考実験と
いうものを提唱した。これは電子の持つスピン、あるいは一般に素粒子が持つ
スピンについての保存法則に関わる思考実験であるが、「情報の超光速・瞬間
的」伝達というのは存在するのか、という疑問を実験で確認する手順である。

思考実験というのは、アインシュタインたちが提唱したときには、このような
実験は実際に実行して答えを得ることができなかったからである。しかし、こ
の思考実験は、1980年代から1990年代にかけて、「ベルの不等式」が
成立するかどうかと言う具体的な実験問題となった。実験の結果はアインシュ
タインたちが期待したものの反対となった。つまり、「超光速・瞬間的な情報
の伝達」は存在するという結果になった。

この結果まで来ると、「量子もつれ」か「世界分岐」かという話になっている
というのがよく分かる。超光速の情報伝達、あるいは粒子の状態伝達は、量子
テレポーテーションとも呼ばれているが、それは何なのか、そういう事態が存
在するという以上の説明はない。他方、世界分岐は、多数の可能性のある世界
があり、超光速で状態や粒子の移動が起こっているのではなく、そのように見
える宇宙が分岐生成されているのだという。(何か間違った理解かも知れない
が、わたしはそう考えている)。

「量子もつれ」か「世界分岐」か、わたしはどちらでもないと思う。

元々の話であった電子の「瞬間収縮」に戻ると、そもそも電子は波束として存
在しているが、これが、観測によって瞬間的に粒子となるというのは事実なの
か? 違うのだろうと思う。「粒子になる」のではなく、「粒子として観測さ
れる」のであって、観測によって電子波束が「粒子」になるのではないとわた
しは考えた。では、この観測結果は何なのか。観測によって電子波束が、「粒
子」の特徴とされる現象を提示しているのであって、実際には粒子にはなって
いない。観測的に粒子のように見えるので、粒子ではない。

「粒子的実在」というのは、日常世界では馴染みの深いものである。一般に、
物質、物体は、粒子的存在だと我々は考えている。物体は、ある強度において
は「剛体」である。剛体とは変形に対し、形状を変えないものを言う。しかし、
この宇宙に存在するあらゆる物質、物体は、近似的に剛体の性質を持つが、剛
体ではない。また、物質や物体というものを、我々は「中身が詰まっている」
何かだと考えている。しかし、物質のありようを化学から物理学へと、近代科
学が研究して行く過程で、中身がぎっしりと詰まった「物体・物質」というも
のは、実は存在しないという事が判明してきた。

物体や物質は、より微細なレベルでは、分子の集合となる。では分子は中身が
詰まっているのかというと、分子は原子の結合したもので、原子と原子のあい
だには空間があいている。更に原子は、20世紀初めに原子のモデルとして幾
つかのものが考えられたが、最終的には、中心に陽電気を持つ原子核があり、
その回りを、陰電子を持つ電子がめぐっている、いわば、極微小な惑星システ
ムのようなものだとなった。古典物理学の力学は、原子核の回りを電子が回転
運動しており、その回転加速度は、核の陽電気と電子の陰電気のあいだに働く
クーロン力によって均衡しているため、原子は安定しているというモデルとな
った。しかし、このようなモデルができあがるのと、量子力学ができあがるの
はほぼ同時期である。

分子は原子で構成されていたが、原子と原子のあいだは何もない空間である。
原子は、中心の原子核とそのまわりにある電子(波束)から成り立つが、電子
を粒子として考えると、原子核も電子も、ほとんど大きさがない「粒子」とな
り、原子の内部は、殆ど何もないすかすかの空間になっている。

そして電子については、粒子なのか、波束として波動なのか、二面性があり、
これが「観測」において矛盾をもたらす。

--------------------------------------

物体・物質は「粒子」が集まって出来ているというのが、我々の日常的な現象
観測から導かれる推論であり、世界把握であるが、目に見えないが、電子や原
子核は、果たして、「粒子」なのかという疑問が起こる。原子あるいは分子的
な物体レベルでは、物体・物質は、中身の詰まった、粒子のぎっしりした集ま
りのように思える。しかし、物体をどこまでも分割して行くと、ぎっしりした
中身のある実体は存在しない。電子や原子核こそが、最終的な中身のある粒子
なのか。実際はそうではない。

モデル的には、電子は、大きさが無限小の、荷電マイナス1の粒子として考え
られる。電子には質量がありスピンもある。しかし、電子は「粒子」なのか。
「粒子ではない」というのが目下の私見である。

粒子でない以上、波束の瞬間収縮というものは起こらない。広がりある波束が、
瞬間に電子という粒子に変化して観測されるように思えるのは、観測機構と電
子のあいだの相互作用によるものだと考えるのがむしろ自然である。
電子は粒子ではなく、それ故、瞬間収縮は起こっていない。

「ベルの不等式」が明らかにした、瞬間的な情報伝達という現象は、二つの粒
子系(と考えられている系)が、一定の距離を離れた位置で観測が行われた結
果、一方の系の状態情報が、瞬間に他方の系の状態を決定する。つまり、超光
速の状態情報の伝達が起こっているのではなく、二つの離れた系に見えるもの
が実は、同じ位置に存在して、その波束の広がりにおいて、離れた位置の二つ
の系として見えていると考える方が自然である。

量子テレポーテーションというのは、テレポーテーションが起こる離れた距離
のあいだに、実は、「同一点」に存在すると言える波束的存在が所在している
ので、超光速のテレポーテーションが起こっているのではない。

物理的宇宙の距離空間的な秩序が、二重あるいは多重になっている可能性が示
唆されるのではないかと思う。

距離空間は数学の概念であるが、点と点のあいだの位相関係で決まってくる。
しかし、実在の宇宙には、粒子的実在、つまり、「点的実在」が存在しないと
すると、距離空間を物理空間にシンプルに適用することには何かの条件がある
ことになる。

--------------------------------------

ここで、いささか余計なことまで書いてしまったが、わたしの認識したことは、
宇宙には、世界には、「粒子的実在」は存在しないということである。日常的
なスケールや、分子レベルぐらいの世界だと、粒子が存在すると考えた方が世
界認識や理解には都合がよいが、素粒子レベルの世界では、粒子的存在は実は
ないと考える方が、整合性があると思う。

粒子性は日常的レベルの世界から措定される仮想であって、素粒子物理の世界
では、粒子は存在しないと考えると、「波束の瞬間的収縮」も「世界分岐」も
必ずしも必要ではない。どちらも、おかしい結果となるのである。(しかし、
ではどう考えればよいのかというのは、複雑な話になってくる。色々なモデル
がありえるが、「空間の構成・構築」というレベルから問題を考察しなければ
ならないと、個人的には考えている)。

_ sph


アナベル・リー(エドガー・アラン・ポー) Sophia7 投稿日: 2023年09月01日 00:46:21 No.9 【返信】

岩波文庫に『対訳ポー詩集』という本がある。先日に書店の棚を見ていて気
づいたが、これは、英語の元詩を左ページに、日本語訳を右ページに配して、
原文と訳を対比して読めるようになっている本である。

ポーの詩の訳だと、いま手元に古い新潮文庫の『ポー詩集』(安部保訳)が
あるが、この訳はどうも、おかしいというか、わたし個人の感受する詩世界
のタッシュと異なっている感じがしていた。

  『アナベル・リー』という詩の安部氏の訳は、次のようである:

 幾年か昔のことであつた。
   海沿いの王領に
 アナベル・リイと言う名前で
   人の知る乙女の住んでいたのは、
 そしてこの乙女私と愛し合つていることの外は
   餘念もなかつた。

 海沿いの王領に
   私も童、女も童、
 しかし二人は戀にも優る戀で愛し合つていた。
   私とアナベル・リイは、
 空に舞う至上天使さえ
   女と私を羨んでいた程に。

これが、Annabel Lee の安部氏による最初の二連であるが、この訳の解釈に
は、違和感があった。

英語での原文は、上記岩波の対訳詩集に載っているものだと、

It was many and many a year ago,
  In a kingdom by the sea,
That a maiden there lived whom you may know
  By the name of Annabel Lee;--
And this maiden she lived with no other thoughts
  Than to love and be loved by me.

She was a child and I was a child,
  In this kingdom by the sea,
But we loved with a love that was more than love --
  I and my Annabel Lee --
With a love that the winged seraphs of Heaven
  Coveted her and me.

安部氏の訳だと、最初の行は、「幾年か昔のことであつた。」となっている
が、英語の原文では、ここには、many and many という many の繰り返しが
入っている。「幾年か昔」というあっさりしたものではなく、「幾年も、幾
年も……昔のことであった」というように、過去を振り返りつつ進む詩句は、
アナベルがいた時代と世界と、現在の世界のあいだの大いなる距離を強く明
示している。

「夢の襞の彼方の、夢の襞の彼方……に」というような雰囲気で、到達でき
ない彼方の彼方、という認識距離が、この最初の一行に出ていると思えるが、
安部氏の訳では、そういう距離感がないように思える。

そして、次の In the kingdom by the sea であるが、これを安部氏は、「海
沿いの王領に」と訳しているが、この「王領」という訳語をどういう理由で
使ったのか理解できない。原文は素直に kingdom となっていて、これは「王
国」である。

どう訳すのか、もっとも関心があるのは、二連目最初の、
> She was a child and I was a child
という非常にシンプルな一行であるが、これをどう読むのか、難しい。内容
が(言葉の上で)シンプルであるが、含意するものが、非常に高度な暗喩か
象徴だと思える。ここまでで、難しい言葉や表現はない訳で、非常に易しい
言葉で素朴に言葉が流れているが、「彼女は子供で、私も子供だった」とい
う何気ない一行は、圧倒的に意味深い。

安部氏はこの行を、「私も童、女も童」と訳しているが、この訳はないだろ
うと思う。まず、「女」とは言っていない。「she, 彼女」であって、文章
の言葉は素朴であるが透明性がある。「女」というような生々しい表現はお
かしいというのが、わたしの感想である。

「私」と「アナベル・リー」の関係は、「恋愛関係」ではないのである。
「恋愛関係」ではないと、ポーの詩のラインは繰り返し歌っているのに、
「女も童」というような、通俗的で肉感的な訳はないだろうと思う。

(「女」というのは肉体的な存在で、男女関係をあまりにもあからさまに明
示している。アナベル・リーのモデルは、ポーの幼妻のヴァージニアである
というのは昔からそう言われているが、後述の加島氏は、ポーは、妻のヴァ
ージニアを生涯「妹」と呼んでいたと述べている。ポーが兄で、アナベルが
妹であればこそ、「彼女は子供で、私も子供だった」というラインの意味が
ある程度に理解できる)。

「しかし二人は戀にも優る戀で愛し合つていた。」と安部氏の訳は進むが、
原文では、love しかなく、「戀」と「愛」を区別していない。というか、こ
こは「愛」とのみ訳すべきで、「戀」を入れると、元の詩の意味世界からず
れてくる。

>地上の肉の戀や愛を超えた精神の愛
>いや、天上の天使の靈の愛さえも超えた愛
>地上の愛を超えた、天上の愛を超えた、至高の世界の愛

「私とアナベル・リーの関係」は、この詩全体を通じて、「戀」とか「性
慾、肉慾」などの類いと完全に無縁である。

この詩の最後の4行は次のようになっている:

And so, all the night-tide, I lie down by the side
Of my darling, my darling, my life and bride
   In her sepulchre there by the sea --
   In her tomb by the side of the sea.

安部氏はこの4行を次のように訳している:

 ああ、夜、私の愛する人よ、戀人よ、
 私の命、私の花嫁のそばにねぶる。
   海沿いの墓のなか
   海ぎわの墓のなか

ここでも、darling という単語の繰り返しを、「愛する人、戀人」という風
に、「戀人」という言葉に無造作に訳している。

Annabel Lee は英語の原文からは、my darling, my life, my bride となっ
ている。これらの言葉はかなり通俗的で、安部氏のような訳は可能であるが、
詩のラインの流れからすると、そうはならないと思う。安部氏の訳だと「私
は墓のなかに入って、アナベルの傍らに眠る」というような意味になる。

しかし、そんな意味ではないはずである。アナベルはすでに死んで、墓にい
るので、アナベルの傍らに眠る、というのは、観想か夢想である。アナベル
の靈の傍らに恒に夜毎、私は身を横たえるのである。

安部氏の訳は、言葉が足りなさすぎるのだと思う。最初の二連あたりだと、
この翻訳に使っている程度の一行の文字数で表現できるように思えるが、実
際は、表現できない。

最初の連に戻ると、ポーの詩の原文では、次のようになっていた:

> And this maiden she lived with no other thoughts
>  Than to love and be loved by me.

ポーはここで、than to love and be loved by me と書いている。安部氏の
訳だと、ここは、「私と愛し合つていることの外は」になるが、「愛し合っ
ている」とはポーは書いていない。ポーの書いているのは、「アナベルは、
(私を)愛することと、私に愛されることしか、考えていなかった」という
ことで、これは、「彼女と私は愛し合っていた」というのとは、まったく異
なる。(後で、「私たちは愛し合っていた」という言表が出てくるが、この
段階ではそれはまだ出てきていない。また「愛し合っていた」の含意内容が
問題になる)。

「私」と「アナベル」の関係はどういうものであったのか。「肉体的恋愛関
係」「精神的恋愛関係」、そのどちらでもない。それらを超えた、それらと
は、ある意味で無縁な「愛」の関わりであった。ということを、ポーの詩は
うたっているである。

> She was a child and I was a child

というラインの she と I はイタリック体になっている。
「まさに彼女は子供で、まさにわたしは子供であった」という表示で、子供
であったとはどういうことなのか、この詩の本質的な内含が、この簡潔なラ
インであますところなく表現されている。
このラインを、その深みで訳そうとすると、もっと言葉が必要になる。つま
り安部氏の訳の文字数では、この詩は訳せない。

ここで、安部氏の訳が下手だとか誤訳だとか、そういうことを言いたいので
はない。安部氏の訳詞は、これで安部氏の作品である。しかし、それはポー
の詩の元の意味とはかけ離れているという事実の認識である。誰の訳であっ
ても、元の外国語の文章が意味している内容を、完全に別の言語システムに
移し替えることは不可能である。数学的な論理命題なら、その論理命題の内
実に限ってなら、完全な翻訳は可能であるが、数学の命題であっても、人間
が言語で書く限りは、そこに翻訳できない要素が含まれている。

翻訳は、意味を訳し移そうとしても、完全には無理である。近似的な内容し
か訳せない。という事実を前提にすると、詩は翻訳不能だという主張の根本
にある、「音律」の移行は不可能という主張も崩れてくることになる。意味
の移行自体が完全には不可能であると言うことは、音律も、その近似的な姿
を翻訳で移せば、それでよいのではないかという考えになる。

とまれ、ポーの『アナベル・リー』の詩の意味は、長年考えてきているが、
安部氏の訳は、どうにも違和感があった。おかしいと思っていた。

そのことが、岩波文庫の対訳詩シリーズのなかの『ポー詩集』で、加島祥造
氏の訳を読んでみて、原文と比較し、更に、作品解説などに記されているこ
とを読むと、『アナベル・リー』が、どういう内容なのか、ようやく理解で
きたように思える。加島氏の訳はかなり長く、冗長にも思えるが、これぐら
いの長さでないと、ポーの英才が紡いだ詩の絶妙な暗喩を解読できないのだ
とも思った。

-----------------------------

最後になるが、実はこちらを書きたかったのであるが。加島氏の解説で、私
にとっては非常に意味深いことが書かれていた。

本の178頁から179頁にかけて、加島氏は次のように記している:

>1996年の9月、ニューヨーク発AP通信の新聞報道は、エドガー・アラン
・ポーが酔いどれて路上に倒れ死んだのではなく、実は狂犬に噛まれて恐水
病で死んだのだと伝えている。
(中略)
>ポーの死は150年前のことだ。それなのにいまもなお、死因が判明したとな
ると世界じゅうに報じられる。これはどうしたことか。
>なぜかというと、ポーは酔いどれて野たれ死にをしたという説が世に流布
され、広く信じられてきたからだ。いまでもそう思っている人が多い。そし
てそこから推し量って、ポーは酒とアヘンの常習者だった、という悪評が通
り相場になっていた。

これを読んで、驚いたというか、「いまでもそう思っている人が多い」、そ
の通りで、わたしもそう思っていた(ただ、どうも、おかしいという思いも
あった)。わたしがそう思っていたのは、ポーの略伝とか遠い昔に読んだ記
憶では、ポーについては、そういうことが書かれていた。英米文学に詳しい
人が、大手出版社の書籍でそう書いているので、これを疑うことは、別意見
がない限り、素直にそのまま受け入れる。ポーについては、こういうイメー
ジが本当に流布していた。別の意見は見たことがなかった。この岩波文庫の
加島氏の文章で初めて違う意見を見た。

加島氏の書いているのが本当なのだろう。加島氏は上に続けて、次のように
書いている:

>エドガー・アラン・ポーがいかに深い哀憐の心を持った人だったかは、た
ぶんこれから少しずつ世間に知られて行くことであろう。

ポーのイメージがまったく別の姿に見えると共に、これで納得の行くことが
多々ある。酒とアヘンに溺れ、飲んだくれて野垂れ死にした、というイメー
ジはどうもおかしいという思いがあった。ポーの短編には極めて論理的なも
のがあり、また詩作品は、明晰な幻想的想像力の極致にも思え、こんなこと
ができる人が酒におぼれた飲んだくれというのは、どうも合わないと感じて
いた。

彫琢された結晶のような作品世界は、明晰な頭脳が、明晰な思考を行うこと
ではじめて実現できることで、飲んだくれ状態ではそういう作品は書けない。
ポーぐらいに、壮麗な内的世界を築き上げ、磨き上げている人になると、そ
れは生涯のもので、ポーの人生そのものが結晶のような明晰さを持っていな
いとそういうことは実現しない。

ポーという人は感情と知性の絡み合う、心の奥襞がきわめて深く、繊細で、
哀憐に満ちた人であったというのは、作品世界の本質的な深さや精神性と
一致している。エドガー・アラン・ポーという人の奥深さ、霊妙さを教えて
もらえたということで、この加島氏の本、加島氏の丁寧な注釈には、大きな
感謝を表明する。より深く豊かにポーの作品世界を見ることができるように
なったとも思える。

_ sph


Pixiv のあるユーザー Sophia7 投稿日: 2023年08月11日 14:07:34 No.8 【返信】

最近、Pixiv で絵を集めているが、興味深いユーザーがいる。

「ムロマキ」というハンドルのユーザーであるが、ハンドルは、
自由に変更できるので、変化する場合がある。(Pixiv では、ハ
ンドルは変えられるが、ユーザー番号は変化しない)。

https://www.pixiv.net/users/54395645
https://www.pixiv.net/users/54395645/illustrations

この人は「百合」関連の絵やまんがを投稿している。そのまんが
は複数の話があるが、最初に投稿していた長い話は、女子高生と
その同級生の男子生徒の母親のあいだの百合関係を扱ったもので
ある(女子高生と年長の母親世代のあいだの百合の話は、焼肉定
食の『人妻とJK』という話がある)。

どうもありえない話のように思えた(焼肉定食の話は、これもあ
りそうもないとも思うが、そこはうまくカバーしていて、あるか
も知れないという構成にしている)。

Pixiv でサンプルとして投稿しているまんがを見ていると、結構
面白い。四こま漫画を積み上げた形で長いストーリにしている。
ところで、あるときの投稿で、「単行本として出版されることに
なりました」という投稿があり、本の表紙が出てくる。

単行本化『JKとともだちのオカン』発売予定【サンプル付き】
https://www.pixiv.net/artworks/87321307

わたしは、Pixiv では絵をダウンロードして、その後ローカルで
じっくりと見るという方法で、オンラインでは、それほど丁寧に
は見ない。特に、個々の投稿ごとに説明を書いていても、ほとん
ど読んでいない。絵を見てダウンロード・保存するだけである。

そこで、上のURLに「単行本」の表紙の絵が出ているが、それ
には帯がついていて、

>ドイツ人女子大生漫画家が描く
>年の差ゆる百合漫画が誕生!!

とか書いてある。絵をよく見ると、あるいは投稿の説明を読むと
KADOKAWAの出版なので、これは商業本である。しかし、
絵を一見しただけでは、商業本なのか同人誌なのか、または本の
表紙だけをデザインしたオンライン本なのか分からない。

「ドイツ人女子大生漫画家が描く」というのは、そんなことはな
いだろうと思った。この人の書いている日本語はかなり自然で、
ここまで書けるのはネイティヴしかいないはずだと思った。つま
り、ドイツ人女子大生がムロマキの名で百合の漫画どを投稿して
いたとは信じられなかった。

しかし、色々と漫画を見て考えて見ると、何かおかしい。
例えば、二こま漫画に、キャシーという外国人の留学生か何かが
友人の田中さんという一人称主人公と一緒に、東京スカイツリー
の展望室から、地上を見下ろして会話する場面があるが、ここで
キャシーが、地上の人が「ごみのようだ」と言う。田中さんは、
「ごみのよう? 人ごみのことかな」と考える。しかし、これは
おかしい。非常に高いところから見下ろして、人がごみのように
見えるというのは、文字通り「ごみのよう」で、「人ごみ」とは
関係がない。ここで、日本語ネイティヴだと出てこない発想があ
ると言える。
また、このキャシーというのは、どこの国の女なのか。二枚目の
絵では、「大正浪漫メイド祭・風俗店」とかいう店の前に来て、
キャシーが、ここは「風俗の店ですね。わたし漢字読めます」と
か言って、店に入りましょうと云う。田中さんは、そこは、大正
浪漫の日本風俗の店ではない。「風俗」は、日本語では別の意味
があると考える。キャシーの認識する漢字では、その意味はない
が、日本語の漢字では、エロな意味がある。

ここで、キャシーというのは、漢字を見ると意味が分かる人であ
る。ただし、日本語での漢字の意味ではなく、キャシーの言語で
の漢字の意味である。すると、キャシーの言語は、大陸か台湾の
中国語だということになる。しかし、「キャシー」という名は、
中国人の名ではない。香港人は、ファースト・ネームとして、中
国系の名に加えて、英語系の名前を同時に持っている人が普通だ
が、キャシーは香港の人なのだろうか。
文脈からすると、キャシーというのは、大陸中国か台湾、香港の
人である。しかし、どこにもそれを述べたところがない(ただ、
中国語では、エロサービス店の風俗店の意味はないとは書かれて
いるが)。また、キャシーの話し相手は「田中さん」だが、作者
がドイツ人だと、何故一人称人物として、日本人の名を使うのか
(ここから、作者は日本人だという想定になる)。

このキャシーの出てくる短い話とは別の四こま漫画で、同級生の
女の子に激烈な片思いをしている少女がいて、しかし、相手はま
ったくそれに気づいておらず、この恋は不可能、完全失恋とか、
自分で思って、この恋を忘れるために、十年間たいせつにしてき
たロングヘアーをばっさりと切って、ショートにした。
ところが、髪型を変えてショートにすると、雰囲気が変わったの
か、その女の子に注目されて、ついには、相手から告白のラブレ
ターをもらうことになる。
ここで、髪を切った少女が思うのが、「忘れたくて髪を切ったの
に、逆効果だ」ということで、これが話のオチになっているが、
しかしこれでは、おかしいのである。

「逆効果」ではなく、「思いもかけなかった成功」というのが、
正しい。片思い百合があまりに熱烈であったので、それが報われ
ない現実に直面して、「忘れるために髪を切った」のである。髪
を切って忘れようとしたのに、結果として、片思いではなく両思
いになったのは、確かに「忘れようとする努力への逆効果」では
あるが、しかし、忘れようとしたのは、恋が実現しないからで、
それが実現して両思い状態という結果になった場合、「逆効果」
というのは、おかしい。

この「逆効果」と云うのは、どう考えてもおかしい。作者は何か
別のことを意図したのだろうかと考えたが分からなかった。

また、もう一つこの話で、「十年間たいせつんしてきたロングの
髪を切った」というのも実はおかしい。女子高生ぐらいの年齢だ
と髪の成長はかなり早く、背中の半ばあたりまでのロングヘアー
だと、2年か3年で、これぐらいの長さになる。もっと長くても、
5年あれば、腰の下を超えて髪は伸びる。十年もかからないので
ある。従って、十年と言っているのは、誇張か、または髪の成長
の実際を知らない男性が書いているのかも知れないということに
なる。

全体的に考えると、作者の思考か言語か、知識か,何か奇妙であ
る。そこで、「単行本化」というのは、本当のことで、帯の「ド
イツ人女子大生漫画家」というのは、本当のことかも知れない。
と思って、説明を読み返すと、アマゾンへのリンクがあり、リン
ク先に、本当にこういうタイトルの本がある。

https://www.amazon.co.jp/dp/4046801476

本の作者紹介というのは、必ずしも事実とは限らないが、この場
合は本当ではないのかと思った。

本当だとすると、日本語をよくここまで達意に使いこなせるもの
だと驚く。(上に、何かおかしい、という違和感を書いたが、こ
れがないと、日本語ネイティヴだと思えてしまう。……ただし、
「ドイツ人女子大生」というのが、事実ではない可能性も消えて
いないのであるが)。

------------------------------

離散数学の問題について考えていたが、今回は、別の話を書いた。
離散数学や、物質の根源、宇宙論の話などに、なお考えているこ
とがあるが、もう少し具体的に、その種類の話を書くのがよいの
かもと思った。また、今回のような漫画やPixiv の絵の話なども、
書いておこうとも最近思った。

_ sph


ハミルトン閉路の存在条件 Sophia7 投稿日: 2023年05月12日 13:23:11 No.7 【返信】

先にトゥットの定理について記したが、英語の論文の冒頭部分と最
後のあたりを読んだだけである。途中に色々と論考しているが、ど
うもよ分からない。

それはとまれ、先に:

>「残念なことに多く
>の地図(地図平面グラフ)は、3枝であるのであり、3枝の場合、
>頂点数が5以上であると4連結グラフにはならない」という記述が
>ある。

とこのようにトゥットは述べていると書いたが、この後で、トゥッ
トの論文の最後の章をもう一度読み返してみると、かなり間違って
いると思った(とはいえ、概ねは妥当である)。

元の論文の原文は次のようになっていた:

> Unfortunately the maps of most interest are defined by planar graphs
> in which the degree of each vertex is 3. If such a planar graph has
> 5 or more vertices it is not 4-connected, by (3.4).

直訳すると、
:: 残念なことに、もっとも興味深い地図は、各頂点の次数が3の
:: 平面グラフによって定義されるもの(地図)である。このよう
:: な平面グラフが5個以上の頂点を持っていると、それは(3.4)
:: によって、4連結ではない(ことになる)。

グラフ理論で扱う平面グラフの頂点彩色の場合の用語と、地図の
国(領域)彩色で使う用語が違っているのと、平面グラフは、た
だちに地図ではない。平面グラフと平面上(または球面上)の地
図が一対一に対応するように決めることができるので、上で述べ
ているように、「平面グラフによって定義される地図である」と
いう表現になっている。「定義」というような硬い言葉は使う必
要がないのであるが、上では直訳を示した。

「各頂点の次数が3の平面グラフに対応する地図」というのは、
これは「3枝地図」のことである。3枝地図は、英語では、普通
cubic map と呼ぶが、これを訳すと、「3次地図」「立体地図」
などになる。しかし「立体地図」とは何なのか、奇怪な感じがす
る。地図だけで考えていると、こういう用語法や発想は不可解で
あるが、平面グラフとの対応で地図を考えている場合、グラフ理
論の頂点次数などが問題になり、「次数」であるので、3次の場
合は、英語では cubicを使うことがあるのである。

それはとまれ、トゥットの論文のこの文章、読み返してみると、
文章のもっとも重要なポイントを読み取れていなかったと思った。
あるいは、前に読んだ時は、読み取っていたのかも知れない。

先の文章を書くとき、失念していたのは、原文で、
> the maps of most interest
とある部分を、「多くの地図(地図平面グラフ)」と書いている
ことである。トゥットの元の文章が言っているのは、3枝地図が
もっとも興味深い、ということで、「多くの地図は3枝交点を含
んでいる」というような意味ではない。3枝地図が何故もっとも
興味深いかというと、3枝地図で、四色定理が証明できれば、一
般の地図、あらゆる地図で、四色定理が成立しているということ
になるので、3枝地図は、こういう意味でもっとも関心を引く地
図なのである。少なくとも、トゥットはそういう意味で書いてい
ると思う。

しかし、英語の文章を読んで、そこに何が書かれていたかを後に
なって思い出すと、英語の原文は記憶では出てこない。代わりに、
日本語での自分の理解が出てくる。英文を読んで、意味をある程
度理解するが、どう理解したかというのは、日本語の形で理解し
ている。英語では思考していない。英文を読んでも、意味が理解
できるというとき、すでに日本語での理解になっている。その結
果、後から、あの英文は何を言っていたかを思い出すと、日本語
での理解が、日本語の形で出てくる。

英語で文章を読んでも、時間が経過して、あの文章では何が書か
れていたかと思い出すと、奇妙なことに、日本語になって出てく
る。日本語に訳した覚えはないのだが、その文章が日本語書かれ
ていたように、日本語の文章が出てくる。英語のはずで、英語で
は何と言っていたのだろうかと考えねばならない。

-------------------

何か表題で書いたのと違う話になっている。ここでは、どういう
地図はハミルトン閉路を持つのか持たないのか、その条件は何か
という話である。特に、3枝地図の場合、多くの地図でハミルト
ン閉路があるのであるが、ない場合もある(トゥットは、ハミル
トン閉路がない、実際の具体例を、1956年頃に提示した)。

これについては、ものすごく明確な判断条件があるのであるが、
理論的には明確であるが、この判断条件を使って、ハミルトン閉
路が、特定の地図にあるかないかの判定を行おうとすると、かな
りな時間が必要となる。普通に考え及ぶ3枝地図は、大体、ハミ
ルトン閉路を持っているように思える(これは経験的な話で、本
当にハミルトン閉路を3枝地図の多数が持っているのかどうか、
厳密に証明しようとすると、証明法が分からない)。

ハミルトン閉路があるかないかのこの判定法は、3枝地図だけで
なく、一般の地図の場合にも適用できる。トゥットの論文は、そ
れに先行する1930年代半ばか、40年代だったか、ハスラー
・ウイットニー(Hassler Whitney)が行った、4連結平面グラ
フで、三角形分割されたものでは、ハミルトン閉路が存在すると
いう証明を拡張したものである。

わたし個人で、自分の方法で、この「ハスラー・ウイットニーの
定理」を考えて見ると、割に簡単に証明できると思えた(間違っ
ているかも知れないが)。しかし、トゥットの定理の方は、どう
証明すればよいのか分からない(多分、この方法で証明できるの
ではないかという見当は付けているが、細部まで論理を確認して
いない。三角形分割されている場合の証明論理が一般的な4連結
グラフでも利用できる)。トゥットの論文の複雑さからすると、
そう簡単に証明できるものではないと言えるが、実際に、かなり
難しい。

-------------------

平面グラフではなく、一般的なグラフ空間で、ハミルトン閉路が
あるかどうかは、「ディラックの定理」と「オーレの定理」が、
あるが、この二つは、グラフ理論の初級教科書にも出てくるが、
あまり意味がない定理である。
これらの定理の述べていることは、グラフにおいて、頂点数と比
較して、頂点と頂点を結ぶ、連結リンク(グラフ)が非常に多数
あるとハミルトン閉路が存在するということで、それは常識的に
考えて、あたりまえのことだとも思える。どのぐらいたくさんリ
ンクがあると、ハミルトン閉路が存在するかということを示す定
理で、そんなにリンク(グラフ)があると、閉路があって当然と
いうような定理なので、ほとんど何も言っていないに等しい。
(ごく簡単なグラフの場合、具体的に結果が分かるので、有効に
見えるかも知れない。わたしの関心は、簡単なグラフではなく、
非常に多数の頂点があるグラフが、等質、等方的構造を持つ場合、
どういう構造で、どういう定理的関係があるかという点にあるの
で、現在のグラフ理論の確立した理論は、あまり有効とは思えな
い)。

一般的なグラフにおけるハミルトン閉路の存在の問題は、統計的
な処理に対応するか、構造が等質的なグラフの場合に、有意味な
定理や関係式があると思えるが、構造が等質的でない場合は、一
種のカオスで、カオスだと分かるだけで、細部は分からない、ま
たは、どうでもよいことになると思う。

_ mrd


トゥットの定理とハミルトン閉路 Sophia7 投稿日: 2023年05月11日 02:39:37 No.6 【返信】

「トゥットの定理」(theorem of Tutte)という定理がある。これ
はグラフ論の定理で、トゥットはグラフ理論関係で研究した20世
紀の数学者である。

トゥットはグラフ論関係で色々な業績があるので、証明した定理も
一つではないと思えるが、このハミルトン閉路についての定理を、
個人的に、いまは「トゥットの定理」と呼んでいる。

定理の内容は、「4連結(4-connected)な平面グラフには、ハミ
ルトン閉路が存在する」という命題で、トゥットの証明は、かなり
長く込み入っている。論文の原文は英語ではなかったようで、英語
の翻訳版がオンラインで見ることができる。ただし、グラフ理論の
かなり専門的な概念や用語などが使われていて、何を述べ論証して
いるのかよく分からない。

グラフ理論における「4連結なグラフ(4-connected graph)」と
いう概念自体が、専門的である。この定義は、あるグラフで、任意
の3個の頂点を除去しても、グラフが連結である場合、(グラフの
分離が起こらない場合)、このようなグラフを、「4連結」と呼ぶ
のであるが、この説明自体何のことか分からない。

トゥットのこの証明は、1956年に発表されていたと思う。論文
の終わりのところで、平面グラフにハミルトン閉路が存在すると、
グラフが4色で塗り分けることができるという記述があり、最後
の章では「4色定理」との関連について述べ、「残念なことに多く
の地図(地図平面グラフ)は、3枝であるのであり、3枝の場合、
頂点数が5以上であると4連結グラフにはならない」という記述が
ある。明確にそうは述べていないが、この論文は、ハミルトン閉路
の存在を証明した論文だが、最後のあたりから出てくるのは、これ
は、3枝よりも頂点次数が大きい(4連結とは、そういう意味にな
る)平面グラフでは、四色定理は成立するという証明になっている
(そうは書いていないが、そういう意味になる)。

4色定理の証明をめぐっては、1880年代にテイト(Tait)が、
3枝地図にハミルトン閉路が存在するなら、地図では4色定理が成
り立つということから、3枝地図でのハミルトン閉路の存在を証明
しようと試みたがうまく行かなかった。テイトは1890年代にも
証明の試みを続けたが成功しなかった。テイトは20世紀まで生き
ていなかったので、彼の残した問題は、20世紀においてグラフ理
論の課題として残った。トゥットの上の論文は、テイトの予想に対
する一つのアプローチだと言えるが、トゥットは3枝地図でのハミ
ルトン閉路の存在問題は、よく分からないことが多いと論文で書い
ている。実際、トゥットのこの論文は1956年で、テイトが予想
を発表してから70年も経過している。70年経過しても、テイト
の予想は、定理なのか違うのか分からなかったことになる。

しかし、別の本では、1956年頃に、トゥットは「反証地図」を
具体的に提示して、テイトの予想が間違っていることを示したとい
う説明がある。「テイトの予想」は、ハミルトン閉路を含まない3
枝地図を具体的に一個提示すれば、それで定理ではないと判明する
が、70年間のあいだ、誰も反証の地図を提示できなかったようで
ある。トゥットが反例を提示してから、ハミルトン閉路が存在しな
い3枝地図の例が色々と提示されたとどこかで読んだが、反例を見
つけることは、それほど難しいこととは思えないが、70年間誰も
発見できなかったというのも、不思議なこととも言える。

(何の話かよく分からないと思うが、最近はこういことを考えてい
る)。

_ sph


ミニョンヌ・アロンス・ヴワ・シ・ラ・ローズ Miranda 投稿日: 2023年02月07日 05:47:34 No.5 【返信】

宇宙の真理や秘密は、人間の思考力や認識を超えている。分からない。
ただ個人の意識は空しく消えて行くものなのか。アーサー・クラーク
であっても、何も残らない定めを生きて死んだのか。広漠な宇宙の時
空間にあって、恒常なものは何もないのか。すべては消えて、物質の
終わりない変転しかないのか。神や精神の永遠性などは、まぼろしな
のか。そのようにしか思えない。現世で何があろうとも、すべて空し
いではないか。死は永遠の闇であるが、闇を知る意識はない。死が恐
ろしいと感じる、考えるわたしがいなくなる。それは諦めの言葉、思
念でしかないのか。ハイデッガーでも、分からないことは分からなか
った。人間は宙に浮いている存在だとはニーチェの言葉だったのか。
ユーバーメンシュと動物の中間にある存在だと。オーヴァーマインド
は夢に過ぎなかったのか。いっさいが仮想の夢やミラージュであった
ようにも思う。

この世界の確かなる感覚の存在は、このいのちのひとときの認識であ
る。世界の変転があれば、いっさいは何もかも消える。ハイヤームの
「無常」はこのような厳しくいかんともし難いものであった。ハイヤ
ームの言葉が、いまになって更に実感をもって響く。宇宙が変転すれ
ば、われわれの姿はどこにもないと。わたしの奥津城には二種類の花
が咲く。ハイヤームが述べたように、彼の奥津城には花びらが舞って
いた。しかしこの大地も、地球も、太陽系も銀河もすべてひとときの
夢であるのか。千億年の未来に何が残っているのか。時間が無限に終
わらない恐怖は確かにあるのである。終末の日が来るというのは、幻
想の救済であるのか。始まりも終わりもないこの世界に、何があるの
か。知ることもない。

It was many and many a year ago,
  In a kingdom by the sea,
That a maiden there lived whom you may know
  By the name of Annabel Lee;
And this maiden she lived with no other thought
  Than to love and be loved by me.

I was a child and she was a child,
  In this kingdom by the sea,
But we loved with a love that was more than love —
  I and my Annabel Lee —
With a love that the wingèd seraphs of Heaven
  Coveted her and me.

これらのラインが何かの慰めと希望をもたらす。この世は思いの他に
哀しいことでいっぱいだ。イエイツがそう歌ったのは、別の次元の生
のありようであったのか。エリンの島の碧の夢に、消え去った神々。
さまよえるアイングス、聖ウルスラの夢。なにものかうつしよの苦患
にわれをつなぎとめるや、君の愛は永遠のものにあらずや。そう、う
たったのはフリードリッヒ・フォン・ハルデンベルクであったが、彼
は若くして世を去った。神々の愛でし者は若くして世をさる。これは
紀元数世紀頃のギリシア語の詩、エピグラムだった。ドゥイノにあっ
てライナー・リルケが感受したのは何であったのか。天使は恐るべき
ものである。だがその感動に彼は十編のオルフォイスに献げるうたを
詠んだ。

ダウの泉のかたわらに、乙女がひとり住んでいた。
空に輝く星のごとく。されど、ルーシー死すをたれが知るか。

ミニョンヌ・アロンス・ヴワ・シ・ラ・ローズ
恋人よ見に行かん、花そうび、この朝に花開きしを
キ・ス・マタン・アヴア・デクローズ
げに心なきナチュール、この宵に花は散りぬ

わが心、風の翼に、永遠を横切って消え去りぬ
ああ、マリー・ローズアンヌ・ドルレアン
静寂の音楽のなか、貴女はいずこに消え去ったのか
ハードリアーヌスの悟りではなく
静謐の花の夢に、われを知ることもなく
永遠の闇の花の静寂に夢へと帰って行く

夢の光の水辺にあって、死はただ花香る夢の故郷への回帰
知ることもなき、われを忘れれば、宇宙の終わりない定めも夢であ
るのか

_ mrd


数学に関する論考の発表の場,その他 Miranda 投稿日: 2022年12月07日 18:45:08 No.4 【返信】

数学に関して、ある問題をずっと考えてきているのですが、今回は
うまく行くのではないかと思えるのですが、数年前から感じている
こと、あるいは実情としてそうあることは、発表の場所がないとい
うことです。

アマチュアで無知な人間には、アイデア的な数学の証明問題につい
ての考察は、本当に発表の場所がない。
発表の場所がないだけでなく、そもそもわたしがどういう方法を考
えているのか、説明する相手もいない。理解するのに、かなり色々
な予備知識が必要になる。また、純粋数学的な話なので、技術的に
は理解しにくいというのもある。

同人誌の形で印刷物にして、ごく少数の知り合いに謹呈しようと思
っていますが。インターネットで公表すると、簡単に「盗用」され
る。インターネット上にあるものは、著作権も、オリジナリティ権
もプライオリティ性も、いっさいないと考えている人が実際に多数
いるようである。
従って、インターネット上での公開というのは考えていない。

-------------

最近思うことは、人間の歴史(人類の歴史)はいっさい、消えてな
くなるということである。この宇宙(超銀河系時空宇宙)自体が、
生成や消滅を繰り返しているという話は、半世紀前から知っていた
が、最近、実感として、その通りだと思った。

歴史のなかに「名を残す」とは、狭い意味では、民族の歴史のなか
で名を残す。もう少し広くは現生人類の歴史のなかで、名が残る、
という意味。更に広くは、宇宙に精神存在の連合体組織のようなも
のがあり、そこに、地球人類の記録も残されていて、この宇宙精神
機構の歴史に名が残るという可能性もありえる。

しかし、時空宇宙全体が消滅し、再び無から生まれるという宇宙論
だと、いったん、ある時空宇宙内部のできごとや状態の記録は、す
べて、「無」となる。新しい宇宙では、新しいできごとの記録が、
ゼロから始まるということになるようである。

ジェイムズ・ブリッシュの「宇宙飛行都市・四部作」では、アクレ
フ・モナレス(という名であったと思う)という歴史家の言葉が解
説的に出てくる。ところで、このアクレフ・モナレスは、どうも、
この時空宇宙が消滅した後で、新しく生まれた時空宇宙の精神存在
で歴史家らしい。すると、宇宙の消滅と再誕生のあいだで、何か情
報が保存、継承されているようだが、このあたりはブリッシュは何
も書いていない(と思う)。

光瀬龍の宇宙SFシリーズにも、歴史家の言葉が引用されているが
人類滅亡後か、人類の黄昏の時代の歴史家だと思える。
アイザック・アシモフの「ファンデーション・シリーズ」では、最
後まで、「銀河百科事典(エンサイクロペディア・ガラクティカ)」
の引用が出てくる。

半世紀から、七十年前のSFの話になってしまっている。
最近のSFとかは読んでいない。
ライトノベルは幾つか読んでいるが、最近読んだのは、「あし」とい
うウエブ作家の『よくわからないけれど、異世界に転生していたよう
です』という話で、4巻まで出ているが、続きはないようである。話
の上では、まだまだ続きそうであるが、しかし、書けば書くほど、矛
盾や辻褄の合わないことが増えて行くようにも思える。

(「転生」と付くライトノベルは非常に多数ある。なかなか面白いも
のもあるが、作品が完結していないものが多い)。

漫画だと、十年前にすでになるのか、20巻ぐらいの長編で、あまり
にも色々と風呂敷を広げるので、こんな話はどうやって、収拾をつけ
るのか、非常に疑問があったが、かなり手慣れた漫画作家なので、そ
こは見事、あっというような収拾があるのだろうと期待していたが、
やはり、あまりにも大きい風呂敷を収拾させるのは無理なようで、ほ
ぼ完全な「投げだし」である。しかも、設定が根本的な処で違ってき
ている。よくもこんないい加減な話を20冊も出版したものだと思う
が、そういう傾向は、近年は珍しくないようである。

話が脱線しているが、そういう話はまた書くとしよう。

_ sph


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