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「理論物理学の限界」と「意識の存在様態・現象実存」 Miranda Sophie 投稿日: 2024年01月02日 04:28:36 No.25 【返信】

2024年になりました。謹賀新春。本年が各位にとって、よいお年であります
ように。

「理論物理学の限界」
わたし自身は何の専門家でもないが、理論物理学での「究極の物質の構造」の探
求には、限界があると個人的には思う。衝突加速器の衝突エネルギーが、現在の
標準モデルを実験的に確証するには、あまりにたりないというか、地球の赤道軌
道いっぱいにコライダー軌道を作っても、それでもエネルギーがたりない。地球
と月のあいだに、宇宙空間上で、コライダー軌道を作って衝突実験をすれば、こ
れは非常に巨大な衝突エネルギーが得られ、色々なことが分かるかも知れない。
コライダーのなかを粒子が加速度運動してゆくなかで、一周に10秒とかの時間
にまでなるのかも知れないが、こういうコライダーは技術的に作れないようで、
想像のなかでは、あってもよいように思える。

現在は分かっていない、あるいはまったく知られていない色々なことが分かるか
も知れない。しかし、理論物理学のモデルはどこまで発展して変容するのだろう
か。現在考えられているのは、多数次元での超弦の振動が、量子的な離散構造を
作り出すという考えと、量子力学の多世界分岐解釈である。多世界分岐解釈は、
将来的には、二重か、三重かの量子化がされて、更に、分岐が「この宇宙内部」
の構造に折りたたまれることになるであろう。もし、多世界分岐が妥当だとした
ら、そう考えるしかない。これは言い換えると、多世界分岐ではない。「場の量
子論」で発散の問題に対し、無限の折りたたみ(あるいは繰り込み)を行ったが
これは不自然であると共に、元々折りたたまれていたのだとすると、別の見方に
なる。

「無限」が現実に存在するという考えはわたしは受け入れがたい。というか、時
間が限りなく続くというなら、この時間の永遠的な延長性・展開性に「無限」が
存在するとも言え、無限がないというのなら、時間は永遠の延長性は持たないは
ずであるということになる。これは、意識や自我認識の問題になってくる。

空間に関する理論(広がりに関する数学理論)は、離散的数学の構造の問題にな
り、理論物理学の最終的な理論は、離散数学での表現になるはずだと思うが、ど
こから整数的な次元空間の構造が成立しているのか、相互循環あるいは相互規定
している可能性がある。ここまで分かったとして、人間の知性が想定できる「空
間の形式」には限界があることになる。理性が、元々離散的な構造の可換構造だ
と思えるからである。例えば、現象的な経験として実際に、日常的に、視覚の背
後に見える、この捉えようがない模様というか、知覚のパターンは、一体、どう
やって理性的な空間構造に表現できるのであろうか。理性の限界の向こうには、
例えば、いま言ったような現象知覚の混沌とした模様の現前性がある。しかし、
それを空間理性は処理できないとも思える。

人間の経験はベルグソンの純粋持続の生のエラーンにあるとも言え、エラーンは
空間表現できないであろう。ベツグソンは一世紀前に、人間の思考の空間的な特
質を指摘していたが、理論物理学の究極理論という観点で、空間的構造把握の理
性では、モデルに限界があるのだと思える。モデルは循環構造になるか、そこか
ら飛躍するのかも知れないが、飛躍は「理性・空間知性からの飛躍」である。こ
れは言葉では分からない。

こういう状況をどう言葉に表現すればよいのか、言葉自身がたりない。わたしの
言葉がたりないとも言えるし、言語が構成する空間構造理性の限界ではないかと
も思える。

理論物理学の究極の理論は、離散的な普遍秩序構造、例えば、群論や環論の形で
整理されるのかも知れない。連続空間の概念は、どこかで棄てるしかなくなると
思う。しかし、その先に何がありえるのか。実数の概念構成として、デーデキン
トの切断の概念などがあり、コンパクトいう数学概念や、数列の収束に関する、
エプシロン・デルタ論法などがあったが、連続的な構造が離散的な構造に収束す
るという話だと理解する。数学基礎論で「選択公理」は理性の構造秩序に反する
のである。ゲーデルやコーヘンの成果は、ヒルベルトの構造構想の上に載ってい
るとも言えるし、ヒルベルトの構想を根柢から覆すのだとも言える。

思考する限りで、思考の見える範囲で構造の真理性は保証されるというのは、二
十世紀初頭の直観主義論理の主張と似ているが、連続空間や、連続時間そのもの
が疑問となっている時代において、ヒルベルトの先に来たるものとして必要にな
るのだし、理論物理学は、この方向に進んでいると思える。

応用物理学や物質技術は、今後も大いに展開し、考えられなかったような文化基
盤をもたらすかも知れない。しかし、AIだと称されている、SI(擬似知能)
理論や技術は、人間を超えることができない。宇宙で知られている限り、「人間
の現象存在、現象実存」ほどに複雑で謎なものはないのであり、これをシミュレ
ートできるはずがないのである。

理論物理学や数学には、今後も発展や発見があるだろうが、それは限界がある。
構造の循環になる。もっとも重要なのは、人間の意識や直観実存、現象実存は一
体何なのかという問題になる。

量子コンピュータにせよ、何にせよ、「アノイマン形式」のコンピュータが生成
され、これが高度に自己組織化されると、人間の思考や知性の理解を超えたもの
となる(現在は、ディープラーニングがどうとか言っても、結局「ノイマン・シ
ステム」であり、部分的に「アノイマン」だとしても、人間には匹敵できない。
『人間は、存在そのものがアノイマンで、アノイマンの存在様式のなかから、ク
リスタリン[結晶化]としてノイマン論理が出てきている』のである。その反対
ではない)。しかし、そういうものは恐るべき事態かも知れないが、実は、人間
の存在の様相、現象直観実存の方が遙かに深く、限りなく深遠な現象事態なので
ある。

どのような形になるのか、いまのわたしでは、分かりやすく言葉にできないが、
理論物理学は限界がある。応用物理学や一般技術は、この先、華々しく複雑精妙
に展開するかも知れないが、理論物理学に限界があるということは、人間の存在
の根源的な現象実存の解明にも限界があるということである。この両者は、共構
造にあるとも思える。

一年のはじめに何を書いているのかということかも知れないが、これはわたしの
直観する、個人的には「真理展望」である。どういうことか説明できないが、上
に書いたようなイメージで、想像して貰うしかない。より頭がよいと自負する人
は、更に先に進めてほしい。わたしには、ここまでが限界である。いや、上に記
したイメージをより、構造化した言語で述べるという作業はあるだろうが、その
先に、限界があり、限界の向こうには、別の何かが必要である。「直観実存」の
根拠構造の探求ということかも知れない。この実存の構造の理解に、実際に、場
の量子論は大きな意味を持っている。しかし、その先まで考えると、構造が、共
循環しているのではないかとも思えるのである。

物質宇宙の根源理論、理論物理学の究極理論が、意識や実存のレアルの根拠構造
と、共循環しているというのなら、ここに答えの可能性があるのかも知れない。
どちらも分からないが、相互に循環している構造において、分かってくるものが
あるのかも知れない。

これを「希望の光」とすべきか。光は、ラテン語で、lux で、希望はラテン語で
spes のような言葉だったと思ったが、「希望の光」は何というのか。面倒なの
でグーグル翻訳にかけると、Lux Spei と出てきた。「ルークス・スペイー」か。
最初に希望の光があった。光は「空間あれ」と言った。そこでこの世界と「わた
し」が生まれた。空間は、locus が一番相応しいようだが、これは「場所」の意
味である。ベルグソンが言った「空間」の元の言葉は何であったのだろうか。

espace のようだが、この語の起源は、wiktionary だとラテン語の spatium
で、この語自体は英語の span と同じ語根である。つまり、「広がり」である。
「引き延ばす」という意味もあるが、引き延ばされたものが広がりなのだろう。
extent がその意味でもある。

それにしても、眼が悪くなっている。spes を見ると、fifth declension と
あるが、これが、fifth dimension に見えた。ラテン語では「希望」は「第
五次元」というのかと思って感心したが、よく見ると、これは「第五屈折変化」
である。

::Dum anima est, spēs est.

こういう格言・金言があるようである。anima を何と解釈するかで色々であるが
「いのちある限り、希望はある」「魂がある限り、希望はある」ということであ
る。いのちと魂が同じであるのは不思議ではない。

::いのちある限り、希望はある(デュム・アニマ・エスト、スペース・エスト)

_ Miranda Sophie, 2 janvier, 2024


「トゥットの定理」と「四値定理」 Miranda Sophie 投稿日: 2023年12月30日 11:21:59 No.24 【返信】

以前に、4連結な平面グラフには、ハミルトン閉路が存在するという「トゥット
の定理」を紹介したが、トゥットが、4連結ではなく、3次数の平面グラフが重
要なのだと述べたのは、3次数の平面グラフに、必ずハミルトン閉路が存在する
なら、これは「四値定理」の証明になるのである。このことを示唆したのは、テ
イト(Tait)で、1880年代に、3枝地図空間にハミルトン回路が存在するな
ら、四色定理は証明できるという「予想」を立てた。しかし、トゥットは、ハミ
ルトン閉路が存在しない、3枝地図を反証として提示した。テイトの予想は定理
ではなかった。

「四色定理」は、1870年頃に欧州の数学界に知られ、1880年に入って、
ケンプ(Kempe)がオイラーの定理を利用した、非常に簡潔で明晰な証明を行っ
た。しかしその十年後に、ヒーウッドが、反証地図を提示して、ケンプの証明手
順に従って証明を進めると、「矛盾」が生じるということを示した。ケンプはこ
の反証地図が簡潔に意味するところを理解し、自分の証明は不完全だったと認め
た。誰もが正しいと疑わなかった証明に対し、十年後に反例が提示されて、証明
が間違っていたということが確認されるというのは、かなり珍しいことである。
個人や小数の人が問題を考えていて、その証明が間違っていたというのは、それ
ほど珍しくない。しかし、ケンプの場合は、数学の論文誌に掲載され、多数の数
学者が吟味したが、間違いを見つけることができなかった。それが十年後に、劇
的に覆るというのは珍しい。

もっと珍しいのは、この問題は、1870年代に提起され、1880年に一端証
明が出て、その後十年して、証明の間違いが判明したが、1870年から半世紀
後、1920年になっても、証明の手がかりがまったくなかったことである。手
がかりはあったが、探求して行けば行くほどに、問題の難しさが明らかになって
行った。更に半世紀が経過して、1970年になっても、この問題は証明できな
かった。

証明は、1970年代半ば(1976年だったと思う)、アッペルとハーケンの
二人の共同研究で完成したことになるが、二人は、当時の最新のテクノロジーの
所産であった、高速計算コンピュータを、およそ1000時間使って証明を行っ
た。その論文には、コンピュータの計算結果のプリントアウトが千枚付属してい
たのだったか、膨大な計算を行った(この計算は、現在では、パーソナル・コン
ピュータでも可能である)。証明が発表されて、その論理構成は妥当であるとさ
れたが、問題は、証明の中心部分がすべてコンピュータの計算によるものだった
ことである。人間が、論理的に論文を読んで証明の正確さを確認できた訳ではな
い。コンピュータはアルゴリズムに従って計算を行っており、同じアルゴリズム
に従うなら、どのコンピュータでに同じ結果が出るという議論があったが、他方
で、人間に証明の妥当性が確認できないものは「証明」でないという議論もあっ
た。

アッペルとハーケンの証明の後、証明を改良し、コンピュータを使わないでも証
明できないかと考えられたが、改良は、可約配置の不可避集合の数を半分ほどに
減らしただけで、原理は変えることができなかった。(アッペルとハーケンは、
1000か2000だったかの不可避集合が可約であることを確認した。改良は、
この不可避集合の数を800ぐらいに減らすことだった)。更に半世紀が経過し
て、2023年の現在になっても、この定理の証明は、コンピュータを使った証
明しかない。Non-computer-used proof というものは実際に認められたもの
は存在しない。二つほど、コンピュータを使わない証明というものを見てみたが
一つは、この問題に関連する様々な知見を集成しただけのように見え、結局、何
を証明しているのか分からない(第三者のコメントで、「どこが君のオリジナル
だ?」という指摘があった。実際、どこかで聞いた話ばかりで、著者のオリジナ
ルな証明がどこにあるのか不明である)。もう一つはキタイ人(シナ人)の研究
者によるものだが、こちらは、意味不明である。何やら書かれているが、証明と
はとても思えない。(キタイ人は、学術論文にも平気で嘘を書く。キタイ人が運
営する論文誌にキタイ人が論文を投稿して、キタイ人が絶賛するが、どこが証明
か分からないという例が他にも多々ある。また論文のレベルを計る指標として、
その論文が、幾つの別論文に引用されているかというという数字があるが、キタ
イ人の学術論文は、この引用数が非常に大きい。しかし、キタイ人の研究者同士
で、示し合わせて相互引用するので、引用数が大きくなっているという指摘があ
る。キタイの文明は、学術的真理も、皇帝や官吏や帝国が決めるというもので、
サイエンスとは言えない)。

問題が提起された1870年から1世紀半、この定理の証明は、50年前にコン
ピュータを使って証明されたものしか原理的にはない。では、コンピュータを使
わない証明はないのか。わたしはあると思っている。

基本的なところで、「四値定理」の証明は、1920年頃にはできていておかし
くなかったと思っている。ケンプの最初の証明を集成すれば証明ができるだろう
と思って、色々と試みたが成功しなかった。そこで、可約配置の不可避集合とい
う考えに入って行った。1920年頃から、グラフ理論の発展と共に、方向が限
定されてしまった。(ケンプの証明というのが、元々、考えれば、「最小の不可
避集合の可約性」の証明だったが、これはうまく行かなかった。しかし、どこが
問題なのか、徹底的に考える前にグラフ理論が登場して発展し、その勢いで、ケ
ンプの証明について、根本的な考え方の吟味を行わなかった)。この理由はヒー
ウッドの反証地図があまりによくできたものだったので、これがトリックだとい
うことに気づかなかったことがあるとわたしは考える。(トリックと言っても、
ヒーウッドの反証がごまかしという意味ではなく、より深く考えることを妨げる
ような構造が、この反証地図には含まれていた)。

「ヒーウッドの反証地図」を3年かそれ以上、何故これが反証になるのか考え続
けて、あることに気づいた。完全に勘違いしていたことである。(しかし、これ
を指摘しても、それは当然のことだと、おそらく研究者は答えるだろう。しかし
この勘違いを修正して問題を眺めてみると、まったく違う景色が見えてくる。こ
のあたりを、おそらく1920年頃かその前後に、考えても無駄だとして飛ばし
たのだと思う。また、その頃は、「不可避集合」が人気を博して、何人か知らな
いが、小規模地図における不可避集合を元に、論文を書いて博士号を得ている人
が一人や二人ではない。この程度のことで博士号であるから、随分と安易だとも
思うが、ではそういう証明は私に出来るかと言えば、残念だができない)。19
30年から1940年頃まで、不可避集合の構築ということが、ほとんど解決の
道筋のように思えていた。トゥットのハミルトン閉路についての考察は、この頃
のものであるが、テイトの予想は間違っているという結果になった。

しかし、1900年から1920年頃に、もっと基本的な構造を考え抜いていれ
ば、おそらくこの頃に証明は完成していたとも思える。その後、アッペルとハー
ケンが行ったような方向の研究があったのかどうかは分からない。しかし、やは
りあっただろうと思う。ただ、見え方が違っていたのではないかと思う。アッペ
ルとハーケンによる証明から半世紀後、いまになって、「四値定理」の新しい証
明というのは意味があるのかないのか。わたしは。確信を持って正しいと断言で
きる証明は持っていない。ただし、それに近いものは持っている。「近い」のは
本当に正しいのかどうか、自分では確認できないからである(また、空しき間違
いの多さに、まったくうんざりしてくる。あのテイトでさえ、間違った予想に生
涯を費やしてしまった。自分がテイトほどに頭がよいとはとても思えない)。ま
た、証明よりも、そのような証明法を導く考え方が意味あるように思える。これ
を使って何かできないかと思う。

_ Miranda Sophie, 30 December, 2023


上皇陛下は卒寿を迎えられた Miranda Sophie 投稿日: 2023年12月23日 07:13:37 No.23 【返信】

ニュースを見ていると、上皇陛下が、卒寿(九十歳節)を迎えられたという
のがある。今上陛下に譲位されたのが五年前で、上皇となられて五年目とな
るが、譲位のとき、八十五歳だったことになる。

歴史的に年代等が確実な天皇のなかでは、最高齢だとのことである。世界の
王族・皇族元首のなかでは、やはり、このあいだ崩御された英国のエリザベ
スII世陛下が、もっとも最高齢で、在位期間も最長だと思うが、日本の天皇
位にあった方として、上皇陛下も卒寿で九十歳だというのは、珍しいし慶賀
すべきことと思う。

上皇后陛下といまも元気に日々を過ごされているという事であるが、そうい
えば、いまの季節になると、五年以上前は、国民祝日があって、日本でもク
リスマス(キリスト降誕節)を祝日とするようになったのかと思ったりした
が、いや、これは陛下の誕生日、天皇誕生日で、国民祝日なのだと考え直し
たことがある。キリスト降誕祭は、わたしは「冬至聖日」と考えているので
キリスト教とは少し位置付けが異なる。

元々、イエスス・クリストス、あるいはナザレのイエススが何時生まれたの
か、歴史的には明らかでない。現在のキリスト降誕祭は、ミトラス教の救世
主ミトラスの誕生聖日で、この聖日も、ミトラス自身の本当の誕生日ではな
い。ミトラスは太陽の復活神でもあったので、つまり、元々「冬至聖日」で
あった。日本では、正月・元旦が冬至聖日にあたる。

上皇陛下の卒寿を記念して、ニュースとなっていたが、上皇后陛下の写真も
あったが、年齢相応の御姿と思う。上皇后は若い頃は、非常に魅力的な女性
だった。さすがに東宮(現在の上皇陛下の当時の身分)が妃に迎えられるだ
けの美しい人だと後になって思った(成婚が遠い昔で、上皇后が魅力的な美
女だとか考えたのは、もっと後のことである)。

上皇陛下には、更にご長寿をたもって戴きたくも願うものである。

わたしは、父方、母方ともに、七代以上、先祖に遡れるが、純粋な日本人で
あるようである。(七代以上というのは、もっと前にも家系的に遡っている
が、千数百年以上前にまで遡るというのは、どこかで家系の捏造をしたので
はないかと思っている。分家の分家の出自ということで、本家の本家は確か
後継者が絶えたはずである)。

そんなことはよいとして、生得的で選択できない「個人の存在基盤」として
日本人であると言うのもそうである。地球人であるとうのもあるが、日本人
であることは、紛れもない事実であり、伝統と文化の国に生まれたことは、
喜ばしいことでもあった。

天皇陛下や上皇陛下の存在は、日本の根本的な文化の要素で、上皇陛下の長
寿を願うのも、率直に自然なこころの表明と思う。

----------------------------------------------
補足で書くのも少しおかしいが、昨日は数学の問題
を考えていて、かなり成果があったと思う。どうい
うことを考えているのか、そのうち文書にまとめて
個人同人誌の形で出したいとも思っている。

この年齢で数学の新しい証明とか、おかしいような
気もするが、問題を考え始めたのは、十代後半なの
で、長い時間を経て、答えにアプローチしていると
いうことになる。

_ Miranda Sophie


千円札の裏の超微細文字 Miranda 投稿日: 2023年12月20日 02:09:32 No.22 【返信】

たまたまインターネットの記事かニュースを読んでいると、千円札の裏には、普
通分からないが、超微細な文字で、ニホンと書かれているとの話がある。どこに
書かれているかも述べているが、これは、紙幣偽造防止のための特殊技術の超微
細文字で、こういう情報を公開してもよいのかというと、造幣局のスタッフだっ
たか、公開しても、こんな超微細文字を再現できる技術は、日本の造幣局以外に
は「ない」ので構わないという。

インターネットで調べてみると、確かに、公開情報で、どこに何という文字が刻
まれているか、本物のカラー写真を沿えて説明がある。さすがにカラー写真はま
ずいだろうと思った。

とまれ、千円札を、ルーペを二重にして、光源に紙幣面を照らし出し、明るくす
ると、かろうじて、超微細文字が読み取れる。もっと拡大倍率の高いレンズを備
えたルーペがあるか、そんな拡大倍率は普通必要としないので、使わないでいる
と、どこかにしまったのか見つからなくなった。

ともあれ、公開情報で、どこに、どんな超微細文字があるかも公開で紹介されて
いるので、わたしも、紹介したい。紙幣の画像は画像処理ソフトで開くと、「警
告」が出てくる。警告の内容は、「この画像は、(画像処理できますが)、印刷
はできません」という趣旨の文章である。紙幣の表面、裏面の模様が自動判断さ
れて、こういうメッセージ(警告)が出るのだと思うが、この技術も考えると恐
ろしい。

誰かの写真を撮って、その画像を、特定の場所にアップロードして、「この写真
についての情報は?」と尋ねると、

::「この写真は、XXXXさん(%5歳)のもので、XXXXさんは、何
年何月何日に、猫玉県暮河町***字609で、誰と彼のあいだで、長男と
して生まれ、兄弟は、+++、本籍&&&&。小学校は、……、中学校は、
……、大学は……、どこどこに、何年から勤務した後、+*+*年、転職を
へて、なんとかかんたらで、現在の住所は、123-45678 東京徒珍塾区……、
固定電話+++++++、携帯電話*****、メールアドレスは、何とかかんとかで、
性格は好色乱暴、好みは、酒の量は、支持政党は、あれこれ……」

とか出てくると、恐ろしいと思うが、しかるべき機関のデータベースを使うと、
日本でも、こういう情報が出てくる可能性がある。どこかの国では、「可能な現
実性」ではなく、「実際にいまある現実」である。

------------------------------

それはとまれ、千円札の裏面にある、偽造防止用の「超微細文字」は次のような
ものである。

1]紙幣裏面右上部にある、1000の文字の左に、桜のマークが三個あるが、
この桜のおしべの先端が、それぞれ一カ所づつ、単なる「まる」ではなく、文字
になっていて、それぞれ、「ニ」「ホ」「ン」というカタカナである。

2]紙幣裏面右上部にある、YENという文字のなかに、細い線が走っているが
これは拡大すると、「NIPPONGINKO」になっている。

二番目の「NIPPONGINKO」は、超微細文字で、本当に分かりにくいが
「Y」という文字の内側に一個、「E」という文字の内側に一個、「N」という
文字の内側に二個、合計、4個ある。

参照拡大図を作成した。紙幣の色情報は破棄して、灰色にし、また紙面の大部分
は、ぼかしをかけている。あまりに小さいので、「NIPPONGINKO」は
文字が潰れて、まったく分からないが、「ニ」「ホ」「ン」は識別できる。

_ Miranda Sophie




回転を感覚する器官 Miranda 投稿日: 2023年12月13日 10:11:14 No.21 【返信】

だいぶ昔のマンガ作品になるが、川原泉という作家に、『銀のロマンティック…
わはは』というマンガがある。何かふざけたようなタイトルだが、川原氏のマン
ガはコメディ調なので、こういうタイトルでおかしくない。このマンガの話では
なく、この話に出てくる、フィギュアスケートにおける「回転技」のことである。
高校生ぐらいの年齢だったと思うが、少女と青年が色々な事情から、フィギュア
・スケートのコンビを組むことになって二人で「ダブル・トリプル・アクセル」
という技を披露して、競技大会に優勝するというのが終わりである。

「トリプル・アクセス」というのは、フィギュア・スケートにおける「回転技」
で、氷の上を滑って、上に舞い上がって、そこで空中回転を3回転プラス、プラ
スは半回転なので、3回転半の空中回転を行う技である。このマンガは、「花と
ゆめコミックス」で、1986年1月に刊行されているようなので、この当時は
フィギュア・スケートでは3回転はできるが、3回転半(トリプル・アクセル)
というのは、相当に難しい技だったのだと思う。(現在では、どこで見たのか忘
れたが、3回転半を超えて、4回転技があり、更に、4回転プラスの技があると
読んだような気がする。1986年から35年がたっているので、フィギュア・
スケートの技術も進歩したということか。1986年は昭和61年なので、昭和
は遠くなりにけり、ということかも知れない)。

話が横に逸れて行くが、(このマンガは傑作だとも思えるので、知らない人は読
んでみるとよいかも知れない。川原泉というのは、相当な才女である。『笑う大
天使』とかは、タイトルから思い浮かべることと、まったく違うところの内容の
話である。あるいは面白くない人もいるかも知れない)、「回転」の感覚の話で
ある。

人間は不思議なことに、身体が回転したことを知覚できる。そんなことは不思議
でも何でもないと思うかも知れないが、実は非常に不思議である。「回転運動」
というのは、加速度運動になる。一般的に云えば、人間は加速度運動を、ある程
度定量的に知覚できる。この加速度運動の知覚情報に基づいて、自分の位置や、
自分がどういう運動状態・姿勢状態かを判断できる。

大人になるとやらないが、子供の頃だと、身体をぐるぐる回転させて、そこで生
じる全身の筋肉の回転の知覚と、いま一つ、回転による加速度運動の知覚を感覚
して楽しむというのがある。幼児の場合、ぐるぐる回すと、喜んで機嫌がよくな
ったり、逆に不快に感じて泣き出すこともあるが、総じて、適当な回転運動は。
知覚に新鮮で、子供は楽しむようである。昔は、自分でぐるぐる身体を回転させ
て、倒れそうになるまで回転してみたことが幾度もある。回転の加速度運動がど
ういうものか、把握したいという知的欲求と、感覚自体が純粋に面白いというの
もある。

川原のマンガをあげたのは、3回転半とか、フギュア・スケートで技としてでき
るできないはともかく、3回転半の回転運動をした後、身体の姿勢や自己の身体
の運動的な位置付けをどうやって把握するのだろうかということが、いまは疑問
に思うからである。自分では3回転は普通出来ない。途中で意識が遠くなり、回
転が続けられなくなる。また、3回転すると、同じ場所には立っていられない。
これは回転運動に対する慣れかも知れないが回転している軸がずれてくる。フィ
ギュア・スケートだと、氷の上での進行スピードがあって、そこで足で氷面を蹴
って跳び上がり、空中回転すると、3回転ぐらいはできるのだろうと思う。月面
だと、飛び上がると、地上に降下するまでの滞空時間が長いので、飛び上がると
きに、回転モーメントを与えていると、滞空している間に身体が回転し、地上に
降下するまでに、五回、六回、それ以上回転できるようにも思える。フィギュア
スケートの場合は、重力加速度が同じでも空中でかなり回転できるようである。

しかし、回転運動した後で、止まった時、身体の態勢をどう管理するのか、この
問題が難しい。3回転とか3回転プラスをフィギュア・スケートで試したとき、
問題は、回転した後、どう着地して身体のバランスを取るかである。フィギュア
・スケートの技としては、空中で3回転、4回転しても、着地でバランスが崩れ
て倒れるようでは、「技」として認められない。しかし、空中で3回転も急速に
行えば、普通は着地において、バランスが崩れる。(月面上で飛び上がって、空
中で6回転しても、7回転しても、ゆっくりした回転になるので、着地において
もバランスは取りやすい[しかし、経験がないので分からないが、これも結構、
慣れや練習・訓練が必要なのかも知れない]。しかし氷上での回転はそうはいか
ない。

何故、着地においてバランスが崩れるのか。それは何故回転運動、加速度運動を
人間が知覚できるのかという知覚器官の問題と関係している。加速度運動や回転
運動が知覚できるのは、耳のなかに、かたつもりのような形状の管があり、そこ
には液体が詰まっているが、管の内部に、液体の運動を知覚する小さな繊毛が生
えている。「運動量保存の法則」や「角運動量保存の法則」に従って、身体が加
速度運動とか、回転運動を行うと、この耳の管の中の液体は、加速度運動や回転
運動に抵抗する。この抵抗が繊毛を通じて感覚として受容され、この感覚情報を
統合して、身体が加速運動をしているのか、回転運動をしているのか、脳の神経
系は判断をする。この器官は、「蝸牛器官・三半規管」と呼ばれている。回転運
動の知覚ができるには、90度の方向で交わる二種類、三種類の液体が内部に詰
まった管が必要になるが、これが三半規管である。(回転運動は、三次元空間の
なかで行われるので、三種類の管が必要になる。一種類だと、特定方向での加速
度運動しか知覚できない。回転運動は、加速度の方向が回転して、加速度方向が
連続的に変化する加速度運動なので、このような三半規管が必要になる)。

回転を終えた後、着地で何故問題が起こるかということである。これは、三半規
管の管内部の液体が、回転加速度運動で、運動に伴って、管内部でわずかである
が、回転運動を起こすため、身体が急に停止しても、三半規管の内部の液体はそ
のままの慣性で運動を続けるので、繊毛を通じて、逆方向の加速度運動、回転運
動の錯覚としての運動知覚が発生するからである。回転運動ではなく、直線上の
加速度運動で考えると、電車が走行し始めるとき前方への加速度運動を感じる。
電車が停止しようとすると、逆方向への加速度運動が知覚される。これと似たよ
うな事態である。いったん、身体が回転運動を始めると、身体が止まるとき、逆
方向の回転運動が知覚される。このため、身体の平衡を取ろうとして身体を動か
すと、かえって逆の方向の運動になって、平衡しない。典型的には、回転方向に
転ぶか逆方向に転ぶ。転ばないのは、このちょうど中間の筋肉運動のコントロー
ルを行ったときである。しかし、どうやってコントロールするのか、少しずつ練
習で覚えて慣れて行くしかないが、3回転とかは、なかなか慣れることが出来な
い。このため、かつては「トリプル・アクセル」は至難な技であった。

われわれはフィギュア・スケートなど普段やっていないので、関係ないことのよ
うに思えるが、実際は日常生活で、こういうことはしょっちゅう起きている。特
に、自動車や鉄道などの高速で運動する機械ができてからは、これに乗ると、日
常的に、加速度運動や回転運動の開始と停止のあいだの身体のバランスを取る練
習を普段からしている。電車の軌道は直線ばかりではなく、右や左に曲がってい
ることがあり、このような場合、電車は回転運動を行うが、回転運動の開始と終
わりで、身体のバランスをコントロールしていないと、電車内で転倒することに
なる。当たり前の話のようだが、これは、『銀のロマンティック』の「トリプル
・アクセル」がいかに難しい技かということと、共通している。

電車のカーブでの回転運動に対し、乗客は見事なほどに態勢を維持して、転倒す
る人は滅多にいない。ただし、急停車とか、急ブレーキのときは、例外で転倒す
る人も出てくる。電車の走行における加速度のかけ方や、回転運動の仕方は、大
多数の人が対応できる程度の変動となるように、ゆっくり加速し、ゆっくり減速
し、カーブは、電車自体が回転運動に対応しきれないで転倒するのを防止するた
めでもあるが、車内の人が対応できるように、ゆっくりしたカーブで、そこをゆ
っくりと走行する。(カーブの場合、鉄道だと、軌道が左右の車輪で高さが違っ
ている。カーブを走行中の電車は、カーブの内側に向け、傾いた状態で走ってい
る。なかの人の身体も傾いているが、内部ではそれには気づかない)。

あと色々と日常生活で経験する加速度運動や回転運動の効果などがある。現代人
は、自然なように対応しているが、本当はきわめて不自然で異常な体験が多数あ
るのである。ただ、日常的に加速度や回転運動があるので、かなり幼い頃から、
そういう加速度の変動にはどう対応するか、学習で覚えていると言える。

最近聞いたことがないが、どこか遊園地にでも是非設置してもらいたいという、
面白い加速度運動の錯覚を利用したゲーム装置がある。わたしの子供の頃にはそ
ういうゲーム装置があって、異常な体験なので、きわめて印象的で記憶に残って
いる。

天地が逆になる、あるいは上下が逆になるという擬似体験装置である。実際は天
地が逆になる訳ではないが、三半規管の感覚知覚の統合による錯覚で、そういう
感覚が経験できる。装置は、なかに入ると、電車の対面席のような、長椅子が向
き合ってあり、そこに座ると、間もなく椅子が上下にゆっくりと振動し始める。
上下と云っても、この長椅子のある部屋全体が、円形に近い空間のなかにあり、
部屋の真ん中の宙空あたりを軸として、回転運動をゆっくりと行う。こういう装
置を、もっと巨大にして、椅子席を、中心の回転軸からずっと離れた位置に置く
と、これは、回転加速度が、人工重力の代わりになる装置である。『2001年
宇宙の旅』という映画では、ほぼ実物大で、実際に人工重力が生み出される、こ
のようなセットを造ったが、あれのもの凄く小さなヴァージョンである。

この部屋のなかの椅子席に座っていると、上下の回転運動がしばらく継続して続
いた後、瞬間に部屋全体が、上下逆方向になる。三半規管の伝える情報では、確
かに、上下反対の状態になっている。しかし天井にあたる方向には落下しない。
何故なら、この部屋が上下逆になった訳ではないからである。一定の回転運動の
刺激を与えていると、三半規管はそれに対応して、身体の態勢情報を神経系に送
る。しかし、この回転運動が、突然に停止すると、三半規管の感覚受容は、運動
の慣性を統合して、椅子が、従って身体が、上下逆の状態になったという神経統
合の知覚を生み出す。これは錯覚であるが、実に見事な錯覚である。これが、他
の人にも同じような効果を与えていることからすると、多くの人の三半規管と、
姿勢判断の統合神経システムは、共同主観的な世界を築いていることになる。

実際、加速度運動や、回転運動に対する三半規管の知覚統合が、多くの人で同じ
構造空間にあるために、電車の加速度の調整や、回転運動の調整がうまく行くの
である。(いま考えると、あの上下が逆になったゲーム装置がなくなったのは、
あれは危険性があるためかも知れない。上下反対になった感覚は、実際に非常に
リアルで、これに驚いて、反射的に何か危険な行動を取る人がいてもおかしくは
ない。どういう行動を取るか、予測不能である。そのため、危険性があるので、
あの上下逆転錯覚をもたらすゲーム装置はなくなったのかも知れない)。

_ Mira Sophia


皆既日食の時、何故青空が見えなくなるのか Miranda 投稿日: 2023年12月02日 02:26:35 No.20 【返信】

長いタイトルだが、これは当たり前のように思えるが、しかし、何故そうなの
か理由が分からない。皆既日食の時は、空が夜のように暗くなり、世界に闇が
落ちたようになる。こういう説明や描写は、皆既日食の説明で通常出てくる。

皆既日食では、月の円盤が太陽の光球面を全面的に遮蔽するので、太陽からの
光はなくなり、その結果、夜のような暗黒となるのである。というのは、本当
にもっともらしい。

しかし、通常の通り太陽が輝いている場合、空は全面的に青の光で満たされて
いる。つまり、太陽が輝いていると、空が青く、かなりな明るさである。空の
どこを見ても、ほぼ同じように青く、明るさもほぼ同じように思える。これは
考えると非常に不思議である。太陽が天頂にあるとして、地上30度ほどの空を
見ると、青く明るい。地上60度の空も同じように青く明るい。これは「あたり
まえ」のように思えるが、どうしてそうなのだろうか。

地上30度、あるいは地上60度の空を見ると、明るい光が青く見えるということ
は、その位置から光が射していて、それを眼が感受しているのである。太陽は
天頂にあるので、この地上30度や60度の光と、天頂の太陽は直接には関係しな
いのではないのか。しかし、皆既日食の時、空が全面的に夜同様に暗くなると
言うことは、30度や60度の空から来ている青い光が、実は、この遮蔽された太
陽から来ていた光と密接に関係していたということを意味している。

何故か。遮蔽された太陽から放射された光と、無関係に、空一面の青い光の明
るさがあるなら、皆既日食の時は、太陽光球面は隠蔽されるが、青い空の輝き
は影響を受けないはずである。その場合、非常に眩しい天頂の太陽は月に隠さ
れるかも知れないが、それ以外の空の部分は、青い空の明るさのままではない
のか。つまり皆既日食が起こっても、空全体が夜のように暗くなることはない
はずである。しかし一般に語られている処では、皆既日食では、空は夜のよう
な暗闇で一面覆われる(わたしは皆既日食を実際に体験したことはないので、
伝聞か本で読んだことしか知らない)。

天頂の太陽の光が隠されることで、地平線近くの青い空の明るさも夜の闇に変
わる。これは、空の青さと明るさが、まさに皆既日食で隠蔽された太陽からの
光の放射でできていたことを示す。これは、どういうことなのだろうか。

その前に、まず空は何故全体的に明るく、青く耀いているのか。この理由の説
明が必要である。月面上から上を見上げると、太陽がある場合は、地球上同様
に、その明るさは直視できないほどの輝きである。しかし、太陽のない場所は
暗黒の宇宙空間が広がっており、そこに星々のまたたかないパターンが見える。
月面上では、太陽の光が当たっているものは、明るく見えるが、当たっていな
いものは、すべて暗い闇である。地球上で空を見上げると、一面に青い光で明
るくなっていて、その光によって、地表全体も明るく見える。周囲を見回せば、
明るい風景がある。月面上では、太陽の光が当たっている場所は明るいが、そ
うでない場所は暗い。これは大きな違いである。

地球の空が青いのは、厚い大気のなかを太陽の光が通過する途中で、レイリー
散乱を受けて、青の光が強く散乱されるからである。これと同じ原理で、海や
湖などは、青い光が顕著である。これも水のなかで太陽光が散乱しているから
である。

空の青さは、地球を宇宙空間から見てみても、青さは見えない。地球は青かっ
たという有名な言葉があるが、青いのは、地球の球体の縁にある大気が青く光
っているのであって、宇宙空間から地上を見下ろしても、どこにも青い光はな
い。青い光があるなら、衛星写真で地球を写したものには、青く染まった地上
が写っているはずであるが、そういうものはない。地上から空を見上げると、
星など見えないほどの明るい空の青さがある。(超新星とか、近接彗星、ある
いは昼間に見える月面などは、青い空のなかに、まぼろしのように薄く見えて
いる。これは、超新星や月面の明るさが、空の明るさよりも、強いから見える
のである)。下から見ると空は青いが、上から下を見ると、どこにも青さなど
ないというのが、地球の空の青さである。

----------------------------

以上は、12月1日の午前1時前頃に書いていた内容である。ここまで書いた
が、何故、皆既日食になると、空が夜のように暗くなるのか、納得の行く説明
が思いつかなかった。
しかし、別の考え方が可能だとも思っていた。皆既日食の場合、太陽からもた
らされる光が、月によって影となり、月の影は、直径が月と同じ大きさの長い
円筒の形をしている。この円筒の内部は、月に隠されて太陽が見えない訳で、
暗闇の状態になっている。そしてこの影の円筒の先端が、地球の表面のある地
域に接すると、この円筒の先に覆われた地域は、月の影のなかに入り、つまり
この地域は皆既日食の状態になる。

問題は、この「影の円筒」の大きさである。月の直径は地球の直径の4分の1
弱ほどである。もし月が地球のすぐ近くまで来ていると、月の影は、非常に大
きなものになる。日本列島などは、すべて月の影のなかに入ってしまうぐらい
の大きさがある。しかし、実際は、月はかなり離れた位置にある。わたしは、
太陽は非常に遠方にあるので、太陽光線は、ほぼ平行な光線の集合と考えて良
いとしていた。しかし、そうなのかというのが疑問である。月がもっと地球に
近くあれば、太陽光線は平行な光線の集合でよいかも知れないが、月はかなり
離れた位置にある。そして、実際に皆既日食のときに月が地球表面に投射する
影の大きさは、日本列島をすべて覆うような巨大なものではない。そんな巨大
な範囲を影で覆うとすると、皆既日食は広範囲で観察され、かなり普通の現象
になる。実際は皆既日食が起こるのはごく狭い範囲の領域である。

そして、この「ごく狭い範囲」で起こる、ということから、何故皆既日食のと
きには、青空が消えて、夜のような暗闇になるのかという疑問が起こる。「ご
く狭い範囲」が皆既日食の起こる場所だとすると、何故、青空が消えるのが不
思議に思えるのか。それは、ある場所が皆既日食の影の円筒のなかに入ったと
しても、その地点から、四方の地平線近くを見ると、影の円筒の端までの距離
はごく僅かしかなく、すぐに影のない普通の空間に進むからである。空が青く
見えるということは、ある方向が青いなら、その方向から、青い光が訪れてい
るのである。皆既日食の夜の円筒がある場所を覆っても、この円筒の外側から
青い光が、この場所に届いているはずだと考えられる。円筒が非常に大きいと
青い光の分量も非常に少なくなって、空が青い輝きを失い、夜のような暗闇に
なるというのも妥当だが、円筒の直径がかなり小さいと、地平線近く、あるい
は地上から30度ぐらいの空を見ると、そこには青空が見えるのではないかと思
える。遮蔽された太陽近くでは、夜のような暗闇があるというのは分かるが、
空全面が暗闇になって、青空が消えるというのは、おかしいというのが、ここ
までの考えであり、それがタイトルの疑問である。

すでに上に示唆したが、この理由は、太陽が非常に遠方にあっても、月もまた
かなり遠方にあり、地球に到達する太陽光線は、必ずしも、平行な状態の光線
の束の集合ではないということだと思う。もし平行だと、月の影は、地球の直
径の4分の1弱ぐらいの大きさが地球表面に投射されることになるが、皆既日
食は、こんな広い、巨大な範囲では起こらない。

地球から太陽までの距離、月までの距離、また太陽の実際の直径、月の直径、
そして重要なことは、地球の大気の「有効な厚さ」がどれぐらいかという数字
的な問題を見てみないとならない。

  太陽: 直径:1392 tkm  距離:150,000 tkm
   月: 直径:3.47 tkm  距離:380 tkm (平均)
-------------------------------------------------------
  地球大気  成層圏:50 km  中間圏:80 km

  ここで、tkm は、千キロメートルである。太陽までの距離は、
  約 1,5 x 10^11 m であり、1.5 x 10^8 km, 1.5 x 10^5 tkm

これらの数字から、月と太陽の視直径がほぼ同等の場合、つまりぎりぎりで皆
既日食が起こる場合の太陽光線の「傾斜度」を計算できる。「傾斜度」は、月
と太陽の共通中心を結ぶ線から、太陽光線が、月面をかするときの光線のあい
だの角度とする。(この角度は、太陽光線が平行光線だと考えていた場合は、
0度である)。近似的に:

  sin(θ)= R/2L  ここで、R は太陽の直径。L は太陽までの距離

  R=1392 tkm, L=150,000 tkm,
  それ故に R/2L=1392/(2 x 150,000)=0.000464
  sin(θ)=0.000464, それ故に、θ=0.000464 radians

地球表面にできる、皆既日食の影の円筒の半径:
  r=0.000464 x 380 tkm =176.32 km
皆既日食の影の円筒の直径  2r=353 km

350kmというのは、あまりにも大きいのではないかと思ったが、一桁計算間
違いをしているとして、35km。これは違うようである。というか、わたしの
思い込みでは、皆既日食になる範囲として、直径35kmぐらいの大きさを考え
ていた。しかし、直径350kmぐらいの範囲で起こるようである。

これで、疑問の答えが出てきた。

つまり、地球大気の厚みは、成層圏までで50km、その上の中間圏で80kmで
ある。中間圏より上は熱圏となるが、このあたりまで上昇すると、大気密度が
極めて薄くなる。これはレイリー散乱が起こらないことを意味する。起こらな
い訳ではないが、散乱の程度が非常に小さい。散乱する空気の分子、原子の密
度が減って、少なくなるので、散乱の効果も非常に小さくなる。(オゾン層は
成層圏にあり、オーロラなどが現象するのは、高度100kmぐらいの熱圏の下
層である。もっと高い場所で起こると思っていた)。

月の影の円筒として、非常に細長い円筒を想像していたが、大気圏に達する有
効な影の円筒は、高さ50kmから80kmで、直径が350kmもある。これは円
筒というより、「平たい円の形の台」のようなものである。

ここからの結論は、皆既日食が起こる端の領域では、地平線近くや、高度30度
ぐらいの空だと、上空で影に入っている部分はあまり多くない。従って、皆既
日食の起こる領域の端の方では、地平線近くでは青空が見え、高度30度ぐらい
でも、夜のような暗闇にはならないで、濃い夕暮れのような状態になる。

しかし、皆既日食が起こる大部分の場所では、ほぼ空全体が夜のような暗黒に
なる。そして星も見えるのである。

(レイリー散乱に対する理解が間違っているのかと思ったが、この結果からす
ると、間違っていないようである)。

Miradis Noicea


エスペラント語とその関連 Miranda 投稿日: 2023年11月30日 22:51:42 No.19 【返信】

エスペラント語というのは、ポーランドのザメンホフが造った、19世紀当時の欧
米での共通人工語である。その概要が以下のサイトに、次のように紹介されてい
る。
https://www2.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/espj.html より引用:

:  全体的な紹介
:エスペラントは、中立で使いやすい国際共通語です。
:エスペラントは民族の言語や文化をその歴史的遺産として尊重し、大切に
:すると同時に、それぞれの言語や文化の違いを越えて人々がコミュニケー
:ションできるようにするために橋渡しの役目を果たすことを目的としてい
:ます。
:現在、多くの分野で英語が事実上の国際語として使われていることは否定
:できません。しかし、英語は特定の民族、国家の言葉です。英語でのコミュ
:ニケーションは英語のネイティブスピーカーにとっては都合のよいことで
:すが、外国語として勉強する必要のある人間にとっては不都合です。これ
:はコミュニケーションとしてフェアなあり方ではありません。

:エスペラントは、特定の民族集団や国家、地域と対応しておらず、その大
:部分の話者が、この言語を自分の意思によって選択して学習し、その結果
:として習得した人であるという点で、極めて特徴的です。自分の母語を他
:者におしつけることなく、それぞれが他者に歩み寄る姿勢をもっているの
:です。
:このため、エスペラントの使用者(エスペランティスト)はそれぞれ個人
:として平等の立場に立って話し合うことができるのです。この意味でエス
:ペラントは中立公平です。

以上に記されていることは、読んでみて、「もっともらしく」感じるが、実は事
実と食い違っている。はっきり言えば、都合の良い「嘘」が書かれている。

例えば、次のように上記の文書は主張している:

:エスペラントは、特定の民族集団や国家、地域と対応しておらず、その大
:部分の話者が、この言語を自分の意思によって選択して学習し、その結果
:として習得した人であるという点で、極めて特徴的です。

これは虚偽であるのみならず、偽善も甚だしい。エスペラント語をまったく知ら
ない人がこれを読むと、現実には騙されることになる。ごくごく初級を学ぶだけ
で、上記の主張は嘘だということに気づく(ただし、西欧の言語をまったく知ら
ない人は、学んでいても、気づかない可能性がある。しかし、現在は、日本人だ
と、英語ぐらいはある程度知っているので、そこから「おかしい」と感じる。

上述の主張が嘘であることは、例えば、レフ・トルストイであったと思うが、彼
はエスペラント語の文法と、基本的な語彙などを学ぶと、三日で、(あるいは一
週間だったか)、エスペラント語の文章を自由に読み、自分でも自由にこの言語
で文章を書くことができるようになったという。では、これは日本人にとって可
能なことなのか。日本時で予備知識が無い人だと、基本文法は三日あれば、ほぼ
学ぶことが出来、理解できる。だが、この言語で書かれた文章を自由に読むこと
が出来るには、少なくとも半年はかかる。それ以上かも知れない。これはトルス
トイに比べ、平均の日本人が、言語能力が低いからではない。トルストイではな
く、一般の西欧の言語を母語にする人だと、エスペラント語の文章を自由に読む
ことは、数ヶ月か、それよりも早く可能であると思える。(ただし、20世紀半ば
を過ぎて、語彙が飛躍的に増えた後では、西欧の人でも、数ヶ月というのは無理
である)。

エスペラント語というのは、欧州印欧語をベースに文法や基本語彙が決められて
いる。だいぶ違うが、ラテン語の屈折語尾をすべてなくして、簡略化した言語と
いうのが近い。欧州で生まれた人工言語には、文字通り、ラテン語の屈折をなく
しただけという人工語もある。エスペラントは、基本語彙をラテン語だけに依拠
しているのではないが、欧州印欧語に依拠している。

従って、トルストイのようなロシア語が母語だが、フランス語を自由に使用でき、
ラテン語、ギリシア語の知識もあって、英語やドイツ語もある程度知っている人
にとっては、エスペラント語の基本語彙は、ほぼこれらの言語から採用されてい
るので、新しい単語を覚える必要はなく、すでに知っている語彙の応用となる。

一般の欧州の印欧語を母語とする人たちにとっても、事情は同じで、非印欧語を
母語とする人たちも、欧州に生きている現状からは、印欧語を、第二母語程度に
は理解しているので、トルストイと似たような事情になる。

しかし、欧州以外の世界の、欧州印欧語をまったく知らない語族の人たちにとっ
ては、エスペラント語の基本語彙も応用語彙も、すべて、ゼロから学ばねばなら
ないことになる。

:エスペラントは、特定の民族集団や国家、地域と対応しておらず……

というのは、欧州内の「特定の民族・国家・地域」と対応していないという意味
で、欧州にある印欧語、つまりロマンス語系(ラテン語の展開言語系)、ゲルマ
ン語系、スラヴ語系、ノルド語系、これらとは重ならないが、部分的には重なっ
ている。これらの語系・語派から、色々な単語を基本語彙として取り出し、それ
を混ぜて造ったのがエスペラント語である。上の主張は、「欧州の特定の民族・
国家・地域」という風に、「欧州」を頭につけると、妥当になるが、エスペラン
ト語の基本語彙や基本構造には、例えば、セム語やヒンディー語、シナ・ティベ
ット語や、日本語の言語は、語彙も構造もまったく入っていない。

「世界共通語」というのは、「欧州世界の共通語」で、「地球世界の共通語」で
はない。

------------------------------------------------
以上は、11月の10日頃に書いたのではないかと思う。

この続きに何を書こうと思っていたのか記憶が明確でない。しかし、覚えている
こととして、欧州限定の共通語ではなく、地球全体での共通語はどうやって作る
のかという話であったのではないか。答えは、完全に人工語を造るしかないとい
うものである。

また、こういうことを考えていたのは、二十代頃だと思うが(エスペラント語は
10代後半には知っていて、その当時から、欧州に限定しない、地球共通語は考え
ていたが)。
実際に造ってみようと思ったのは、二十代半ばから、三十代にかけてのことだと
思う。このとき、言語によって人間の思考は支えられている。それ故、独創的な
思考を促進するための言語があれば望ましいとか考えていた。実際に単語レベル
から、まったく新しい言語を造ってみようとした。例えば、taim は「森」という
意味で、lisr は、「所有する、持つ」という動詞である。この合成の taimlisr
(タイムリスル)は、「森を持つ」ということだが、これで、「瞑想する、深く
考える」という意味になるとか。これは、インドのウパニシャド哲学の背景を考
えている。本当か嘘か知らないが、ウパニシャド哲学は、修行者が森の奥に入り
そこで瞑想することで生まれたものである(そうである)。従って「森を持つ」
が「瞑想する」になる。

こういうこじつけか、何か知らない方法で、色々な単語を組み合わせると、従来
の自然言語では、出てこなかったような思考の方向や、インスピレーションが起
こるのではないのか、その目的のために、人工言語を造ろうと考えた。
単語として、500語ぐらい定義したと思う。500語の組み合わせで、もっと多数の
単語を造ることができる。例えば、先のエスペラント語では、[j]ojo(ジョーヨ)
が、「喜び」という意味の単語で、この反対語だとする「悲しみ」は、反対を意
味する接頭辞の「mal」を加えて、mal[j]ojo(マルジョーヨ)になるというよう
な造語法がある。これと似て、もっと複雑な造語法も定義しているので、500語か
ら1000語、2000語と造語できる。

この人工言語の単語帳は残っているのと、昔の文法メモなどが見つかれば、全体
的に再構成できないわけではない。しかし、もう今更のことだと思う。

_ Nois Miranda


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