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依存と趣味 メンタルクリニック 投稿日:2017年12月31日 18:52:46 No.38 【返信】
 







DD51 石北 投稿日:2017年12月27日 20:17:09 No.36 【返信】
 




Re: DD51 石北 投稿日:2017年12月27日 20:19:22 No.37








2017ベストゴール集 J1 投稿日:2017年12月25日 19:51:05 No.35 【返信】

 






オッペンハイマー 投稿日:2017年12月24日 20:11:44 No.33 【返信】

1945年から1962年にかけてアメリカが実施してきた核実験の様子を収めたフィルムが、55年ぶりにアメリカ政府の機密解除を受けて2017年3月に公開されていました。その9か月後の2017年12月、新たに62本の映像が公開され、YouTubeなどで閲覧できるようになりました。

当時の実験の様子を収めたフィルムは長らくアメリカ各地にある厳重に管理された保管庫で機密扱いとして保存されていたのですが、年月を経て劣化が進み、このままでは過去の記録が永遠に見られなくなるという状況を迎えていました。アメリカで核兵器開発のために設立され、現在では各種エネルギーやバイオテクノロジーなどの研究を行っているローレンス・リバモア国立研究所(LLNL)では、過去5年間にわたってこれらのフィルムの回収と復元を行い、現在では禁止されている大気圏核実験の様子を収めた貴重な映像のアーカイブ作業を行ってきました。

そして今回、2回目の公開として62本の映像が新たにYouTubeで追加されました。この中には、1953年の「アップショット・ノットホール作戦」、1955年の「ティーポット作戦」、1956年の「レッドウィング作戦」、1958年の「ハードタック作戦」、1962年の「ドミニク作戦」の一部の実験の映像が含まれています。






ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー Julius Robert Oppenheimer, 1904年4月22日 - 1967年2月18日 ユダヤ系アメリカ人の物理学者

 アインシュタインが原爆を開発したことを後悔していた事実は有名だ。だが、原爆の開発に携わったのは彼1人ではない。「原爆の父」として知られるロバート・オッペンハイマーもまたそこにいた。

 才能豊かな物理学者として核の動きを研究し、同時にヒンドゥー教の精神にも惹かれていた彼は、天体物理学、核物理学、量子力学などの理論物理学を推し進めようとするアメリカに大きな貢献を果たしている。彼の研究は、今日ブラックホールと呼ばれる現象の下地を作ったが、第二次世界大戦が勃発すると、これに終止符を打つ手段として精力的に原爆の開発を行うようになる。

 ロスアラモス国立研究所の初代所長としてマンハッタン計画に参加する一流の物理学者をスカウトし、同時に自らは原爆を刺戟する中性子連鎖反応を研究した。その成果が人類最初の核実験「トリニティ実験」だ。その爆発はTNT爆薬18,000トン相当したという。

 オッペンハイマーはこの実験を忘れることができず、あるテレビ番組でこのように話している。

 世界が変わってしまうことに気がついていました。何人かが笑い、何人かは泣いた。が、ほとんどは黙ったままでした。ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節にこうあります。『ヴィシュヌは王子に義務を果たすよう説得するため恐ろしい姿に変身し、『我は死神なり、世界の破壊者なり』と語った』と。

 私たち全員がそれぞれにそんなことを考えたのではないでしょうか……俗っぽさも、ユーモアも、誇張でも消すことができない身も蓋もない意味で、物理学者は罪を知りました。これを拭い去ることはできません。

 その威力を目の当たりにしたオッペンハイマーは原爆の国際的な管理を訴えるようになり、やがて原子力委員会のアドバイザーに就任する。原爆開発に強く反対した彼であったが、共産党とのつながりから、政府は機密の流出を懸念。結局彼の主張は潰され、公職から追放される。その後、自らの招いた結果を忘れず、一生に渡って悔やむことになる。




Re: 核 オッペンハイマー 投稿日:2017年12月24日 20:16:05 No.34

脱原発 小泉








クリスマス 三田 投稿日:2017年12月24日 12:15:18 No.32 【返信】








焼き鮭 ワカコ 投稿日:2017年12月21日 20:38:53 No.31 【返信】
 







ハワイ王国 カラカウア王 投稿日:2017年12月17日 19:22:55 No.30 【返信】




David Kalākaua

1836年生〜1891年没。ハワイ王国の第7代国王。正式にはDavid La‘amea Kamanakapu‘u Mahinulani Nalaiaehuokalani Lumialani Kalākaua。

カメハメハ5世が跡継ぎを指名しないまま薨去したあと、1872年の国王選挙に臨んだが、族長系統の最高位のルナリロ(カメハメハ1世の異母弟・カライママフの孫)に敗れた。
しかし、ルナリロ王も1874年に後任を指名せず逝去したため、再び国王に立候補し、カメハメハ4世の未亡人・エンマ女王(カメハメハ大王の重臣でハワイ統一に大きく貢献したイギリス人ジョン・ヤングの孫)に圧勝し国王に選出された。しかし、エンマ女王の支持者が暴動を起こしたため、カラカウアはアメリカとイギリスの海軍の力を借りてこの暴動を鎮圧した。

カラカウアは、前任者の轍を踏まないよう、即位後ただちに弟・レレイオホクを後継者 として指名したため、選挙によって国王を選出する時代は終わりを告げた。しかし、1877年にレレイホクが死去したため、今度は妹・リディア(リリウオカラニ)を指名した。

カラカウア王はハワイ経済のためアメリカ合衆国との交渉を積極的に行い、1874年11月には自らワシントンに出向きグラント大統領と会談。1875年3月に、ハワイの主産品である砂糖や米の輸入自由化を認めさせた。
しかし、逆にアメリカ の工業製品を無税輸入することとなり、その影響で、ハワイでは、さとうきびプランテーショ ンを中心にアメリカ系の財閥が急成長した。1887年には条約更新の条件と してアメリカから真珠湾の軍事利用を押し切られ、カラカウアは売国奴という批判を浴びることにもなった。

1881年より10ヶ月にわたる世界旅行を行った。ハワイ人の人口減少に憂慮し、移民について交渉することが主な目的であった。ローマ教皇・レオ13世やイギリス女王・ヴィクトリア女王とも会談している。
カラカウア王の留守のあいだは妹のリリウオカラニが摂政として統治した。
カラカウア王はポリネシア帝国を建設する構想を抱いていた。1886年にはポリネシア連合形成のために3万ドルの予算を確保し、サモアのマリエトア王とポリネシア連合成立の合意に至っている。

カラカウアはその華やかな生活からメリー・モナーク(陽気な君主)とあだ名された。ハワイ人の人口激減とともに、ハワイの伝統文化の衰退を憂慮し、自ら「ハワイの伝説と神話」を著し、秘伝であった創世神話クムリポを公開し、それまで宣教師たちに禁止されていたフラを、正式に復活させた。王直属のフラ・ハラウを作 り、洋楽ではロイヤル・ハワイアンバンドも編成、王みずからが作詞した「ハワイ・ポノイ」という曲はハワイの国歌となった。現在もハワイ島で毎年フラの大会「メリー・モナーク・フェステバル」が開催されている。

1879年には、豪奢なイオラニ宮殿を完成させ、1883年に盛大な戴冠式が挙行、また1885年には生誕50歳を記念した大祝賀会も開かれた。
しかし、1887年にはサンフォード・ドールらアメリカ系移民を中心に、カラカウアの退位もしくは王政廃止とアメリカ合衆国への併合を求める声が高まり、アメリカ系の秘密結社「ハワイアン・リーグ」が結成され、武力を背景として王党派のギブソン首相ほか政府要人を次々と辞職させ、孤立したカラカウアに対し新しい憲法(ベイオネット=銃剣憲法)を受け入れさせた。この憲法は実質的に富裕なアメリカ系移民の参政権を大幅に認めるものであり、カラカウア王は実質的な権力の多くを失った。これに対してハワイ人軍人ロバート・ウィリアム・ウィルコックスら義勇軍による抵抗もあったが失敗に終わった。

1890年にアルコール依存症によって体調を崩し、医者の薦めでサンフランシスコへ移り、1891年1月20日に逝去した。彼の死後は、ハワイ王国最後の女王となる妹のリリウオカラニが跡を継いだ。






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