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ふるさと歴史館 幕藩体制の動揺
tabi
投稿日:2021年07月11日 21:31
No.4716
勤皇派取締りの強化
文久3年(1863年)4月、庄内藩は高崎藩、白河藩、中村藩とともに、江戸幕府から江戸市中の警備を命ぜられ、以降、攘夷派の取り締まりに実績を上げていた。
この時期、前将軍徳川慶喜をはじめとする幕府の幹部は京に詰めており、江戸には市中取締の藩兵のみが警護にあたっていた。
慶応2年12月(1867年1月)、水戸浪士の中村勇吉(天狗党残党)、相楽総三、里見某らが乾退助(のちの板垣退助)を頼って江戸に潜伏。
江戸薩摩藩邸の焼討事件
薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、幕末の慶応3年12月25日(1868年1月19日)の江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、放火により焼失した事件のことである。
この事件からの一連の流れが戊辰戦争のきっかけとなった。
板垣退助
「戦争の結果によって形成された社会秩序は、戦争によってで無ければこれを到底覆すことは出来ない」と主張し、幕末は土佐藩武力討幕派の重鎮として薩摩藩に対し薩土討幕の密約を結ぶ。
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