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哀しい出立  1

1: KZ:2022/09/15 20:41 No.96
わが家は五人きょうだい(女4人男1人)だったのですが 先に書いた長姉の結婚の以前に 実は三女が家を離れていました。「五人もいるんだから 一人うちにくれないか」という伯父(母の兄)の再三の申し出(要請)があり 折れた母がとうとう諾なって 十歳の三女は 汽車で一時間ほど離れた町へ 伯父の養女となって行ったのでした。
経済の不如意が根底にありました。戦前の栄耀栄華と言えるほどの暮らしから、父親が突然の公職追放を受け、店舗の経営で一時は持ち直したものの、間もなく体調を崩し、遠縁の医者から母に齎された診断は、おぞましい膵臓癌というものでした。(奇跡的だったのかもしれませんが それから三年ほどの自宅療養で 父は寛解しました)
僅かに残った家作と母の細腕による雑貨店経営、これだけでは5人の子どもを食べさせていくのはとてもしんどかったのだと思います。いっぽう伯父のほうは 中学の教師で子どもはなく 生活に不自由はありませんでした。闊達な人柄で 子どもが好き、柔和な顔つきでいつも優しくわれわれに接してくれる人でした。
しばらくの話し合いの末 たぶん母親の主導で大勢が決まり、三女本人にも母と長姉から懇切な説明と要請とがあったのだと思います。お姉ちゃんはお金持ちの伯父ちゃん家へ貰われていくんだ、これからは欲しいものはなんでも買ってもらえるし 綺麗なべべも着られるよ…というのが われわれチビたちの観測なのでした。

やがて来た三女の出立の日 病室にしていた二階の部屋から父は降りてこなかったと 成人になってから私は初めて長姉から聞きました。手放すのが そんなにも不如意で切なかったのだと 流石に鈍な私も思い当たり 胸の奥が痛みました。

時々の週末 二か月に一度くらいだったか 姉は一人でうちに帰ってきました。そんな日は夕食にご馳走が並び トランプや花札やら賑やかに遊べるので われわれにも嬉しい心の躍る日なのでした。ある日曜日 午後には伯父の家に帰る姉は お昼は何が食べたいと父に問われ 〇〇屋のパンが食べたいと答えました。そばにいたわれわれは少し不満でした。大都屋のラーメンかチャーハンを取ってもらうとか もっと美味しいもののお相伴ができるのではと 淡い期待を抱いていたのです。すぐにパン屋さんで買ってきてあげなと言われて、 やだなあ めんどくさいなあと それは声にも態度にも現れていたのでしょう。見ると姉はじっと下を向いて唇を噛んでいる様子でした。
なんだ せっかくお姉ちゃんがパンが食べたいって言ってるのに! 父の思いがけない強い声が われわれの上に飛んできました。へたに逆らったら 次にはゲンコツでも飛んできそうな声音でした。
病気のためとはいえ、意に反して泣く泣く三女を手放さねばならなかった。その悔しさと哀しさと、無力だった自分へのこだわりが その時も未だ父の胸中に痛みを伴う傷になって残っていたのでしょう。そのまま飲み込むにはむずかしいこわばりが 子どもの胸にも雲のように広がりました。

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