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ひとの有りよう  『酔いざめ日記』 その3

1: KZ:2024/04/23 19:55 No.480
木山捷平 『酔いざめ日記』 

没年となった昭和43年、5月3日の日記から。

☆木山捷平は 消化器系その他の体調不良から 4月より東京医科歯科大学に入院中だった。(5月6日以降 東京女子医大に転院する。命日は8月23日)

☆『五月三日、金、雨。憲法記念日で休日。  
朝、ベッドより眼鏡をおとした。(割れず)お茶を入れようとして急須のフタをおとして割った。マッチの大箱をおとして放っておくと散らばったマッチをひろってくれたのは、看護婦であった。  
妻「ただいま」といって入ってきた。もっと言いかたはないものか。「昨夜は十一時頃まで電話で様子をまっていました」とは何事か。こちらは、熱に苦しんでいたのに。  
昨晩、別府さんの所に行くと、丁度俊男医師が帰宅した。すぐ三階の総局長、羽生先生に電話すると、木山のことはすでに承知している、六人部屋の窓際に用意している由。病人は個室よりも少しは人のいる方が気分的によいそうだ。(大部屋は十幾人もいる)  
妻の言葉の中に「肝臓、その他に転移していないので手術が出来る」云々──ひどい言葉だ! 泣くにも泣けないほど悲しかった。怒鳴りちらした。茶碗も投げつけてやった。「これからすぐ帰れ」といって帰した。  
二時十分より五時二十分まで点滴。日がくれて電気もつける元気なし。妻が不用意に言ったであろう言葉。(妻はそんなことは言わぬといい切った)一人でいると不安になった。  
点滴のとき、岡本功司氏は新茶をもって来てくれた。明日は伊東に行く由。夜七時検温三十七度。
『橋のない川』の作者、住井すゑさんが隣室六〇〇号室に十日ほど入院していたと看護婦が言った。「木山さん、どんな本をかくの」ときくから「むつかしい本」だと答えた。  
九時回診のとき、体温三十七度というと、「三十八度までは熱があるとは言わない」といった。便通なし。

五月四日、土、雨あがる。  
朝は三六度七分の熱。看護婦は、今日と明日は休日の由。  
妻は思ったよりも早く来た。風呂を洗ってしばらく湯を出して赤い水を出しているうち栓がぴたりとしまったのか、湯があふれて、廊下を流れ、隣の病室にも入った。隣の附添人の発見で大騒ぎとなった。前の部屋の人、看護婦達がかけつけて水を吸う新聞紙や、掃除モップでやっと水をとり去った。婦長より注意を受けた。階下に水が漏らなかったと安心の態であった。早速、手伝ってもらった人の部屋に、見舞にもらった果物や、缶詰を配って御礼と御詫びに妻が行った。  
シェル商事による害虫(油虫)駆除のため数時間注意して下さいの紙片が配られた。  
点滴三時十分より六時四十五分まで。  
その間に星野潤夫人花瓶と花束持参。八匠衆一氏来訪。用件は藤原氏の案による出版のこと。文芸春秋社より杉村友一氏見舞に金一封持参。萬里(※長男)の友人岩城宏介君来室あり。萬里は杉浦医師と神田司町の本間医師を訪う。中山博士と直接関係ある医師で、入院の連絡など、御礼も兼ねて行った。』

☆上記 夫人の発言から本人は病態(ずっと伏せられていたが 診断は食道癌であった)を初めて察知する。怒り狂う。
しかし ここからが木山捷平の いわば本領発揮である。
見るとおり 翌四日以降 その記述に特段質的な変化は感じられない。覚悟とか諦念というよりも、疲れたけれど これ以上変わりようはないわいというつぶやきが それまでと同様 この日以降の日乗をも恬淡と埋めてゆくのである。

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