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『酔いざめ日記』

1: KZ:2024/04/02 12:18 No.469
『酔いざめ日記』
    木山捷平     (講談社文芸文庫版)

☆昭和7年(著者28歳)〜昭和43年(歿年64歳)まで 断続的に書き続けられた詩人・作家の日記である。作品の背景を知りたい、表現されたものと生活の実際との関係を知りたいと思う時には とても重要な第一次資料となることだろう。

☆例えば 戦時/昭和18年の項に こんな記述がある。官憲による事前の検閲と それによって出版が不可となった事例である。
ほぼ出版が決まっていた木山捷平の第3詩集は この検閲によって出版を断念せざるをえなくなった。

「昭和18年11月6日
…出版界に行く。風間という人不在にて、代理に逢って話をきく。詩集『路傍の春』不承認の理由。「ダダイズム、ニヒリズムというのではないが、そういうものあり」「感激をもって書いてない詩もあり」以上で不承認という。…」

木山捷平はこれ以上 一言もコメントしていない。馬鹿馬鹿しくて 書くのも嫌だったのだろう。彼らに何を言っても無駄だと つくづく分かったに違いない。

要するに 「作者の個人的な、勝手な想いを連ねた詩ばかりで 現下の聖戦に対する感激がひとつも書かれていないではないか。こんなものに貴重な紙資源を分けるわけにはいかない。こんなものを読んでは 最重要である国民の参戦意識は高揚するどころか 厭戦気分さえ起きかねない作品である」というのが当局の判断だったわけである。
その言い分は たぶん当たっている。ただのプロパガンダではない本来の表現(自己表出)とは もともとそういうものなのだから。検閲者は この詩集が そうした表現の本質に沿った真っ当なものであることを ずばりと言い当てているにすぎないのだ。

☆つまり検閲とは 戦意高揚という軍事政権中枢の意向にひれ伏し、忖度しまくる小役人のパフォーマンスなのである。いつの時代でも 洋の東西を問わず こうした「官僚」どもの破廉恥なだらしなさは 少しも変わらないものだと呆れるしかない。
こうした空しさを胸に この翌年 木山捷平は戦局悪化した満州国・新京にひとり出向いてゆくことになる。


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