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『長春五馬路』

1: KZ:2024/01/23 19:33 No.436
『長春五馬路』

木山捷平(1904〜1968年)
              1968年 筑摩書房刊  (現在は 講談社文芸文庫キンドル版などで読めます)

☆木山捷平は1944年 新京(旧満洲国の首都。現在の長春)にあった農地開発公社の広報部嘱託社員となって単身赴任した。東京での暮らしのあれこれに行き詰まり 大陸の新天地で仕切り直しをしてみたいという思いが昂じた結果であったらしい。
しかし戦局はさらに悪化の一途を辿り、翌1945年、オーバー40歳にもかかわらず(当時招集は40歳までという基準があったらしいのだが)現地で招集を受け即日兵役に就く。敵(ソ連)の戦車の下へ爆弾を抱えて飛び込むという自爆攻撃の訓練を受けたのだが、入隊から3日経った八月十五日で敗戦。「精鋭」関東軍は人々を置き去りにして真っ先に逃げ出し、新参の木山二等兵も命拾いはしたのだが、それから一年間ほどを 敗残最底辺の難民として長春の安ホテルで過ごすことになった。(宿舎の上の階は 主としてソ連、中国兵相手の 日本人の後家などによる「女郎屋」であった。)

☆作品の主人公は食うために、また唯一の楽しみであるパイチュー(白酒)を手に入れるために、沢山の満州人たちに混じって焼け残りや質流れの衣服などを路上で商う「ボロ屋」として過ごした。主として露天商売の場としたのが 旧新京の「銀座」通り、五馬路だったというわけである。

☆敗戦直後は 南下して来たソ連軍が長春を支配した。彼らの問答無用の狼藉ぶりについては 既に多くの証言が残っている。次いでここを支配したのは八路軍(中国共産党軍)であった。しかし彼らもまた 満州の人々を圧政によって治めようとした。そして次は 蒋介石の国民党軍が長春にやって来る…。国・共の熾烈な内戦が始まり 戦局は日々目まぐるしく変わる。各勢力の発行する紙幣や軍票が巷を飛び交い、それぞれの衛兵やスパイたちが至る所で火花を散らす。こうした凄まじい長春の混乱が この作品の背景となっている。

☆けれども 作者の筆は不思議なくらい穏やかなのである。事ここに至れば、ソ連兵に捕まってシベリヤに送られること(抑留)以外なら、大抵のことは我慢できる。そういう敗残者の諦めが この一巻を支配しているように見える。敗残町会のきつい使役にたびたび駆り出されたり、露天商売であっさり騙されたり、泥棒どもにごっそり荷を盗まれたり… 様々なひどい目にあうのだが、まあ好きな白酒が飲めて 一日の最後は宿舎でのんびり寝に付けるのなら、帰還の日が一向に見えてこなくても さして焦る気持ちも湧いて来ない。上階の女郎たちとあれこれ話し込んだり、あちこちで満人や鮮人の商売仲間と駄弁ったり、果ては八路軍のスパイと思しき女の住む邸宅でご馳走になり、そこの使用人である早熟の満州人少女と夜更けに交歓したりなどもするのである。
居直った乞食の王様… 精神的にはそんなアナーキーな気分で さして惜しくもなさそうな命を抱えて 彼は今日もまた一人 長春五馬路でのボロ着商いに出かけるべく 大きなズダ袋を痩せた肩に掲げるのである。


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