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関さんの靴

1: KZ:2022/12/10 14:59 No.177
昔々の家族の雑談、その中で 少し小さな声で語られた話だった。

太平洋戦争も そろそろ末期に差し掛かろうかというくらいのこと。関さんは三十歳を少し越えたくらいの独身青年だったが もう町の郵便局のベテラン配達員だった。小柄ながら締まって精悍な体躯、よく陽に焼けた顔に白い歯の目立つ陽気な人だった。気さくな性格でユーモアも合わせ持ち 局の集配仲間のうちでも人気者と言えるポジションにいた人だった。早朝から夕方まで業務に励み かなり広い集配エリアを自分の持ち場にしていた。普段の昼食は職場に戻って摂るのだが 時には業務の都合で 外で持参の弁当を使うという日もあった。雨の日は雨宿りのできる場所も欲しかったし、そこに寄ればいつでも気軽に一服できる そんな休憩処を持つことも 配達仕事を続けていく上ではとても大切なことだった。
集配に主に自転車を使うようになって、職場から五分ほどの町中にある自転車修理の店に 関さんはしばしば立ち寄るようになった。タイヤに空気を入れたり サドルや荷台の調整、時にはパンクの修理とかムシの交換なども年中必要だ。
その修理店には 五十年輩の未亡人の龍江さん、その娘の玉枝さんと婚約者の力さんがいた。仕事は若い力さんが中心になっていたが 店主の龍江さんもまだまだ元気で、腕まくりをして平土間にどっかと腰を下ろし パンクの修理などは手慣れたものだった。引っ詰め髪で化粧気はなかったが よく見ると整った顔立ちで 切長の目に強い力が宿っている。入り婿になる力さんが 朝から調子が出ずにモタモタしたりしていると 芯の強い龍江さんの鋭い叱責が飛んだりもするのだった。
関さんは 次第にこの家に繁く足を運ぶようになっていった。長いこと走る自転車に空気を入れ 車体のあちこちに油を差す。その合間に 娘の玉枝さんが淹れてくれるお茶を啜り 龍江さんとは戦時の町の噂話を語り合い、そのうちに蹴上がりの座敷に座り込んでお昼の弁当を使うようにもなった。新しいお茶に あり合わせのお新香などが出され、時には関さんもお礼に どこかで仕入れてきた貴重品のお菓子を広げたりもするのだった。父親のいない玉枝さんは 気さくで剽軽で気の優しい関さんが大好きで 何かと頼りにしていた。婚約者の力さんも実直で良い男だったが、在の出身でとにかく口が重く そうそう楽しいということもない。
関さんが繁く出入りするようになって たしかに家の中が明るくなった。当主の龍江さんもそう感じていた。早くに夫を亡くし あとは女手ひとつで頑張ってきた家内には 明るい家族の交歓がやはり少なかった。歳からすれば 関さんは息子みたいなものだったが、時々軽口を叩かれ肉付きの良い容姿を軽妙に冷やかされたりすると 男嫌いの女丈夫で通してきた龍江さんも なんだか心が軽くなっていくのを感じたりもした。

その時代 あちこちの家に召集令状を配って歩くのも 主にベテラン配達員の関さんの仕事だった。おめでとうございますと型通りに届けるのだが、主人を兵隊に取られ 残された家族が力の弱い家などだと 後を思って関さんの心も重くなった。そんなある日 とうとう関さん本人にも赤紙がやって来た。局の同僚たちにも この頃は次々に招集が来ていたから こればかりは否も応も無いのだった。
局の内外 仕事関係に挨拶をし、それから数少ない親戚にも入営前のお別れを告げに行った。久しぶりに振る舞ってもらった山羊の乳が おどろくほど新鮮で まるで甘露のように感じられた。

最後の勤務週に 関さんは龍江さんの自転車屋にも お別れの挨拶をしに行った。用を済ませた帰りしなに 今晩は空いているのかと龍江さんに問われた。もう荷物もほとんど片付けたし あとは特に用事もない。夕飯においで 何もないけど みんなで一緒に。
見つめる龍江さんの真情が 関さんにはとても嬉しかった。

翌日 定時の局の朝礼に 珍しく関さんの姿が見えなかった。出征前で、どうしてもという仕事を割り振ることはなかったが、朝の打ち合わせだけはきちんとしておきたい。戦時だけに いつ何が起きるかわからない。集配の課長は 朝礼後に関さんと連絡を取るようにと班長に言いつけた。昨夜のささやかな送別会の件を班長は聞いていた。もしやと思って それから自身で自転車屋を訪ねた。座敷の上り口に 見慣れた関さんの 履き古した靴が並んでいた。急用じゃあないんだがと尋ねると、力さんと玉枝さんは顔を見合わせ それから二階に上がる階段をじっとうかがった。
そう勘のいい男ではなかったけれど、尋ねた班長にもその意味はすぐに通じた。出征まで あと二日ほどだった。関さんは龍江さんとの温かい思い出を懐中にして これから長く大変な道中に出かけていくのだな、そう班長は思った。

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