歴史掲示板(渡来人研究会)


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北九州の弥生遺跡と古墳状地形 ②
管理人 投稿日:2024年04月10日 02:35 No.406
紀氏さん、お久しぶりです。以前お会いしてから随分年月が経ちましたね、またどこかでお会いですね。

さて、先日お知らせした北九州の弥生遺跡と古墳状地形を結ぶ方位ラインについて、追加でいくらか判ってきたことがあるのでお知らせしたいと思います。

図1のように、2つの主軸となる南北同経度のラインと、津久見島から西15度偏角で平塚川添遺跡方面へと延びるラインがあることは以前もお知らせしたとおりですが、今回はその中でも宗像市の大井(大井ダム北西部)を起点としたラインに注目してみたいと思います。

まず、宗像大社⇔宗像市大井⇔大城山(大野城)⇔一井木古墳状地形⇔女山神籠石への130度31分00秒の南北ラインがあり、それと平行して、綾羅木郷遺跡⇔山門町北西部(北九州市)⇔御所ケ谷神籠石西部⇔小迫辻原遺跡(その北隣の日田市山田)への130度55分37秒の南北ラインがありました。

また図のように、宗像市大井⇔山門(北九州市)⇔山門(宇部市)⇔山戸4号墳(南部・海域)への東15度偏角のライン、同じく宗像市大井⇔御所ケ谷神籠石⇔川部・高森遺跡南部への西20度偏角のライン、同じく宗像市大井⇔鎌田原古墳状地形⇔小迫辻原遺跡への西55度偏角のラインがあることは過去にもお知らせしたとおりですが、また同じく宗像市大井⇔津久見島への西30度偏角のライン上に、伊田・今任原の古墳状地形があることが判りました。

この位置は図のように、すでに知られている赤村の古墳状地形の真西にあたり、図2の航空写真(1963年)に見えるような前方部が撥型に開く初期の前方後円墳状の地形が確認できます。

そのサイズは図3の測量断面図のように、後円部、前方部ともに120m前後で240m、高さ15m~20m前後となるでしょう。

この古墳状地形の周囲には周濠を思わせる池があり、ほかにも円墳状の地形がいくらか散在していますが、その後円部西隣りに豊受神社があり、アマテラス・トヨウケ信仰の名残を見出しうる点が重要です。

なお、後円部と前方部の大部分は伊田地域に、前方部の最南部は今任原地域にありますが、その今任原はかつては今任村・今任で記されており、今任(イマトウ)からヤマト、つまり邪馬台国とも関係するでしょう。

そして、この古墳状地形の位置は図1のように、今任原古墳状地形⇔鎌田原古墳状地形⇔平塚川添遺跡(大型建物跡)⇔高良山(山頂・奥宮)への東58度偏角のライン上にあることからみて、平塚川添遺跡や高良山と関わっていたことも明らかにしうるでしょう。

その平塚川添遺跡については、先のとおり、津久見島⇔小迫辻原遺跡⇔平塚川添遺跡⇔一井木古墳状地形への西15度偏角のラインがあるのですが、同じ津久見島を起点としたラインがこの今任原の古墳状地形を通過していることからみて、弥生時代後半にはこの周辺地域が、ヤマト(邪馬台国)に関わる集団によって開拓されていったことが伺えます。

おそらくは、弥生時代後期から末期にかけて、すでに前方後円墳状(高地性集落含む)のマウンドを用いて測量をする集団が北九州におり、その規格を用いてそれらを全国各地へ造営していった結果として、畿内に古墳時代初期になり箸墓や纒向型前方後円墳が現れていったことを予想します。

その件は、図1の女山神籠石⇔小迫辻原遺跡⇔川部・高森遺跡の東30度偏角のラインの延長線上に、楯築墳丘墓が位置しており、この墳丘墓が後の畿内の前方後円墳へと発展していったことからも裏付けうるでしょう。

つまり、突然に箸墓や纒向型前方後円墳が畿内に現れたわけではなく、北九州のプレ前方後円墳の延長線上にそれらが造営されていったとのことです。

それらを造営した集団は、山門・山戸・山田(ヤマト・ヤマダ)、そして今回とりあげた今任(イマトウ)といった地名を拠点に残していったわけで、その集合体として邪馬台国が存在していたのでしょう。

それらの拠点のどこかに女王卑弥呼や台与の都や墓もあったのではないでしょうか。

そして、そこに今回の今任原古墳状地形そばにもみえたアマテラス・トヨウケ神信仰とが付随してくることがあり、トヨウケ神とツキヨミ神との相関性から、今回の測量起点の津久見島=ツキヨミ島との見方ができれば、その月神の信仰がそこにかかわってくるでしょう。

それと同時に日神についても、今回の日田(小迫辻原遺跡)、先日のライン拠点にみえたおつぼ山神籠石の大日、同じく伊川・大日寺の古墳状地形の大日、佐賀大和の与止日女神社につく日、日出尾など、日神信仰も同時に見えてくることがあり、アマテラス=日神信仰へと発展していったのではないでしょうか。

さらに今回のライン上に平塚川添遺跡が見えてくる点があり、この遺跡と日神信仰との関わりについては、たとえば、図1のように、佐賀の帯隈山神籠石の東隣にある日隈山を起点として、日隈山⇔平塚川添遺跡⇔川部・高森古墳群への東15度偏角のライン、その日隈山⇔月隈山(日田)の39度19分44秒ライン等からも明らかにしうるでしょう。




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