歴史掲示板(渡来人研究会)


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北九州の弥生遺跡と古墳状地形
管理人 投稿日:2024年04月04日 02:18 No.397
弓張月さん、いろいろ情報ありがとうございます。山田の字名とヤマタノオロチとの関係性については考えてみてもよいかもしれませんね。

先日は山田・山門・山戸といったヤマタ(イ)に関わる地名等を結んだ方位ラインを示しましたが、今回改めて、北九州各地の弥生遺跡や初期古墳および古墳状地形の位置について、考察しなおしてみた図が図1,2となります。

図3は上図に載せた主な古墳状地形の航空写真とその地形図です。

まず、以前から指摘しているように、大分の津久見島、佐賀の神集島を結ぶラインが中心軸としてあり、具体的には、神集島⇔一井木古墳状地形(基山町)⇔平塚川添遺跡⇔山田(朝倉市:長田大塚古墳北部)⇔杷木神籠石⇔下綾垣遺跡⇔古城山⇔津久見島への西15度偏角のラインとなります。

ここで、長田大塚古墳の北部をこのラインが通過することがあり、そこには図3で示したような前方後方墳、もしくは方墳状の地形があることが判ります。その後方部のサイズが150m前後となります。

同じく基軸となるラインが、神集島⇔三雲南小路遺跡⇔吉武高木遺跡⇔岡本遺跡⇔大城山(大野城)⇔川部・高森遺跡南部(免ヶ平古墳周辺)への北緯33度32分05秒ラインとなり、かなり精度の高いラインと言えるでしょう。

このラインと大城山(大野城)で直交するラインが、宗像大社⇔宇美神社東部⇔大城山⇔一本木古墳状地形⇔女山神籠石への東経130度31分00秒の南北ラインとなりますが、精度的にみれば南北74481mに対して、1秒の誤差もないことになりますから、経度1秒が日本付近で25m(緯度30m)となるので、25/74481=0.0003356となり、1万分の3以下の誤差で測量していたことがわかります。これは、1度の誤差が1/180ですから、いかに高い精度で角度を測量できていたかがわかります。

その件は前述の三雲南小路遺跡⇔川部・高森遺跡南部ラインにも言えることで、特にそのライン上にある吉武高木遺跡⇔岡本遺跡(奴国の丘博物館内の王墓)⇔大城山へのラインが33度32度05秒8となり、まったく誤差がないことに気づきますが、40/181420と考えて、1/4500以下の精度で測量できたことがわかります。

この測量精度をもたらした手段としては、前述のように海上の島を測量起点としていることに関係するはずで、先の津久見島の場合は、島中央部の166mの頂上部にて、夜間に烽火を焚き、4~5㎞離れた浜辺の真西の地点にて、同じく烽火を焚き、さらにその双方が見えるその真西の高地から、先の2点の烽火が重なる地点を割り出すことで、結果として、10㎞以上の距離を、誤差なく割り出せたのではないかと予想します。この測量方法については、また後日改めてお知らせします。

なお、図のように、壱岐島の原の辻遺跡を起点として、原の辻遺跡⇔大城山⇔津久見島への西20度偏角のラインがあり、また原の辻遺跡⇔平原遺跡への西30度ラインの存在、さらに対馬の厳原町の間島⇔原の辻遺跡⇔神集島⇔西都原古墳群(男狭穂塚)への西50度偏角のラインを考慮すると、朝鮮半島経由で渡来してきた測量技術者は、間島、壱岐島、神集島、津久見島といった島地や、大城山のような山頂を巧みに活用しながらその高低差を利用して測量をしていったことが伺えます。

あと、先のライン上の基山町一井木にある前方後円墳状地形については、図3のように後円部が綺麗残っており、後円部径が140m前後となるので、初期の纒向型前方後円墳(箸墓)規格の古墳であれば、前方部と後円部が1:1となるので、280mで箸墓と同サイズとなるでしょう。

同様に、精度の高い南北ラインとして、綾羅木郷遺跡⇔山門東部(北九州市)⇔御所ケ谷遺跡西部⇔英彦山⇔小迫辻原遺跡(1号居館:弥生末~古墳初期)への東経130度55分38秒の南北ラインがあります。74858mに対して、1秒もズレてないことからみて、25/74858=0.000334となり、やはり先ほどの1万分の3以下の精度で測量していたことがわかります。

当然その中間地点にある拠点にも誤差がなかったはずですが、ただ。英彦山山頂は130度55分41秒で3秒東にあり、また御所ケ谷神籠石も130度55分57秒とやや東にズレています。

しかし今回、山門町(北九州市)の東部2㎞にある光町1丁目、藤松3丁目付近の古墳状地形と予想した地点の後円部中心部は、130度55分35秒となるので、概ねずれていないことがあります。

この山門町(北九州市)東部の地点については、図3のように、昭和20年代の地図をみると、尾根状の丘陵地に3つの池に囲まれた部分があり、またその断裁陰影図をみると、そこに150m前後の後円部を持つ前方後円墳があったことが伺え、その3つの池がその周壕であったことも予想しうるでしょう。

この山門町東部(北九州市)については、また三雲南小路遺跡⇔名島4号墳(纒向型前方後円墳)東部⇔山門(福岡市)⇔山田緑地(北九州市)⇔山門(北九州市)東部への東30度偏角のラインが見えてきます。

ここでも山田・山門といったヤマトの語源が見えることと、30度といった直角の三分角が見えてくる点が重要です。このライン上にある畑ダム西部も後述する山田(朝倉市)の古墳状地形の真北となるので留意しておくべきでしょう。

同様に山戸4号墳(東南の海中部)⇔山門(宇部市)⇔山門町東部(北九州市)⇔大井ダム(宗像市)への東15度偏角のラインがあり、この15度偏角が先の30度偏角の半角であることに注目しながら、その山門・山戸といったヤマトの字名が見える点に注目すべきでしょう。

その大井(ダム・宗像市)には島地(用山)があり、その頂上部分が、先の宗像大社⇔女山神籠石への130度31分00秒ライン上に位置することからみても、この地点が主要な測量地点であったことが伺えます。

同じく、山門町東部(北九州市)⇔川部・高森古墳群南部⇔津久見島への西45度偏角のラインがあり、特に川部・高森古墳群の南部の免ヶ平古墳北部(4世紀)付近をラインが通過することは、先の三雲南小路遺跡⇔大城山⇔川部・高森遺跡南部へのラインとの交点となる点でも一致してきます。その古墳東部にも弥生時代の竪穴住居があります。

そして、この山門町東部(北九州市)の真東には、以前注目した四国・伊予氷見の高尾神社(33度53分11秒)や伊曽乃神社西南の古墳状地形(33度53分15秒)もあり、また同じく真西には、玄界灘に面した鐘崎の織幡神社北部にマウント地形があり、そこから織型神社⇔下山田⇔小迫辻原遺跡への西60度偏角のラインがあることにも留意しておくべきでしょう。

この下山田(須佐神社西部・下山田小学校付近)は、図のように先の山門町(北九州市)⇔平塚川添遺跡⇔女山神籠石への東65度偏角のライン上にあり、同時に鎌田原遺跡の古墳状地形と、その南の山田(朝倉市:長田大塚古墳北の前方後円墳状地形の後円部)の真北(130度45分23秒)にあたることからみても、当時から重要な拠点だったでしょう。

さらに、山門町東部(北九州市)⇔下山田⇔平塚川添遺跡⇔女山神籠石への東65度偏角のラインがあることからもその重要性が明らかにしうるでしょう。

その平塚川添遺跡に関しては、今回特に明らかにしうることとしては、高良山神籠石⇔平塚川添遺跡⇔赤村古墳状地形⇔石塚山古墳への東55度偏角のラインの存在です。

ここで古墳時代初期の三角縁神獣鏡を出土する高良山神籠石や石塚山古墳が見えてくることや、赤村の古墳状地形が纒向型前方後円墳の名島4号墳の真西に位置しているように、年代的には古墳時代初期の築造であった可能性を示すものでしょう。

その赤村の前方後円墳状地形については、地元の歴史家達によって明らかにされてますが、その古墳南西に今任原(イマトウバル)とヤマトの語音を残していることもヤマト・ヤマタイ国を考える上で重要です。

またその高良山神籠石の西側に隣接する祇園山古墳は卑弥呼の墓との意見もありますが、図のように祇園山古墳⇔岡本遺跡(王墓付近)⇔那珂八幡古墳⇔比恵遺跡への西70度偏角のラインがみえることから、こちらも弥生時代終末期から古墳時代初期のラインと考えうるでしょう。

そして、その平塚川添遺跡について、川部・高森古墳群南部⇔平塚川添遺跡⇔大和町(佐賀)への東15度偏角のラインがあります。

その大和町(佐賀)には与止日女神社があり、そのヨトヒメがトヨヒメとも呼ばれることから、女王・台与との関連を以前考えたことがあります。

その与止日女神社の南西部で、大和町東山田の西部に、ひとつ古墳状地形とその周壕を思わせる池があり、その北東にも同様な古墳状地形と池があります。前者は図のように、東50度偏角で、大和町(佐賀)⇔大城山⇔山門町東部(北九州市)へのラインを構成しており、同様にまたこの大和町(佐賀)⇔吉野ヶ里遺跡(南祭壇)⇔日出尾への東西同緯度ラインの存在もその重要性を示すものでしょう。

その日出尾(ダム)にも、日神信仰の名残が見える点で興味深いところですが、その日出尾⇔山門町東部(北九州市)への西60度偏角のラインがあり、またその半角30度偏角の日出尾⇔伊川・大日寺古墳状地形へのラインも、この地が測量拠点として機能していたことを示すものでしょう。

その伊川・大日寺の古墳状地形については、平塚川添遺跡の真北にあたり、特にその平塚川添遺跡の大型建物跡がある139度33分11秒にあるのが、図3の伊川・大日寺の複数ある古墳状地形のうち、図下部にある円墳状地形①と、図中央の前方後円墳状地形②の後円部の中心地点となります。

それは800m前後の前方後円墳①と、500m前後の円墳②となりますが、またその図上の前方後円墳状地形③は300m前後となり、この後円部を先の大和町(佐賀)⇔伊川・大日寺の古墳状地形⇔山門町東部(北九州市)への東45度偏角のラインが通過していくこととなります。

その他、今回明らかにしておくラインとしては、平塚川添遺跡⇔宇木汲田遺跡への東西ラインや、おつぼ山神籠石⇔宗像大社への東60度偏角のライン、山田(朝倉市)⇔英彦山への東35度偏角のラインと、それに直交する小迫辻原遺跡⇔鎌田原遺跡(古墳状地形)⇔伊川・大日寺の古墳状地形②⇔宗像地大井への西55度偏角のライン、そのラインの東にあたる小迫辻原遺跡⇔下山田⇔織幡神社への西60度偏角のラインがあります。

その鎌田原遺跡に図3のような尾根を利用した前方後円墳状地形があることは以前お話したとおりですが、既に知られている赤村の古墳状地形など、九州各地には大型の前方後円墳状地形が多数あることは紛れもない事実で、それらはまた箸墓や纒向型前方後円墳と同規格となるので、弥生時代末期から古墳時代初期にかけて、九州各地でこれらの大型前方後円墳が発展する機会があったことを考慮しないと説明がつかないのです。

その九州各地でのそれらプレ・初期前方後円墳が発展する期間とそれを担ったであろう山門・山戸・山田・大和(ヤマト)に見える邪馬台国勢力とを再考していく作業が今後必要になってくるのではないでしょうか。

それなしでは畿内での突然の前方後円墳出現をうまく説明できないのではないかと感じます。今後の未発掘のこれらの拠点の調査が重要です。




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