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本年もよろしくお願い申し上げます。 「富里村史」について私見となりますが 洋種牡馬につきましては 「アママン」は「エドウィンフォレスト」で 「グートユー」は「サムクライド」なのでしょうね。 ・アママン https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/841830/1/55 ・グートユー https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/842025/1/10 洋種牝馬につきましては 「米買い入れ」が7頭で、名前記載のある馬が7頭。 この合計で14頭なのだと思います。 従いまして名前記載馬のうちで「米国購入」はあと1頭だけという事になります。 そうすると「ヘリー」が米国購入分で 「ハリス」はナポレオン三世の馬である巴黎(パリ)号なのではないかと考えられます。 ヘリーの正体は掴めていませんがこれも売り主の人名である可能性もありますね。 |
「ヂヤキ」については、日本馬事協会の「70年のあゆみ」のP.105~108に「米国ケンタツキー州に於て質問せしケ条の答弁書」 の「第十五」に「ヂヤキは平常牝馬に接近すべからず」と書かれています。 同じ文書は、農務顛末 第4巻のP.51~54にもあります(タイトルは「米国ケントキ州・・・」で 「ヂヤキハ平常牝★に接近スヘカラス」と記載★:馬へんに再に似た字) futekiさんにご紹介頂いた農務顛末の記載、およびご紹介頂いた「富里村史」の「チアキ」も同じだと思います。 そして「ヂヤキ」というのは馬名ではないと思います(実はここが重要)。 70年のあゆみでは「ヂヤキは雄馬のことであろうか」と推定しています(P.102)。 農務顛末 第4巻の「明治七年四月牛馬羊出産表(P.973)」「明治七年六月牛馬羊出産表(P.974)」 の記載「牡第四号ヂヤキ」「牡第三号ヂヤキ」を見ると、「雄馬」よりももう少し意味があるのではないかと感じます。 最初は「試情馬」のことかなと思ったのですが、それも合わない(洋種馬を試情馬にする?)ため、 「ヂヤキ」という言葉から考えたほうがよいのかと思いました。 当時の和英辞典を見ると「ヂヤキ,邪気(名), An influenza, pestilential vapor or disaases.」 という記載が見られます。「平常」牝馬と「ヂヤキ」が対になっていて、つまり「第十」の 「伝染病に感じたる動物は、勉めて健壮なる動物より遠地に離隔し、決して同場に混居放牧すべからず。」 と同じことを言っているのではないかと。 (勝手な推測ですみませんが、もう少し続きます) |
地方競馬に関しては、そもそも競馬法が成立した際に第二十二条の準用規定で第十条も含まれていました。 ご指摘頂いたように、昭和33年3月に「国庫出納金等端数計算法」が「国等の債権債務等の金額の端数計算に関する法律」に名前が変わり、 その際に切り捨てになったので、1958年頃までは四捨五入運用なのかと想定はしているのですが・・・ 同じ法律改正の際に、競馬法の地方競馬準用規定から第十条が省かれているのもよくわからなくて。 この時代の地方競馬の成績公報を見ることはたぶん叶わないと思いますが、もし機会があれば検証したいかなと思います。 「ヂヤキ」ですが「病馬」のことかなと考えているのですが、もう少し整理して書こうかと思います。 |
昨年中は大変お世話になりました。引き続き今年もよろしくお願いします。 ヂヤキ、非常に気になりますよね。 シートにも少し書き込んでますが、農務顛末と富里村史から拾い集めた情報の欠片を抜き出すと… ・チヤキとの記載もあり(今のところ一回だけの登場なので誤記が濃厚)。 ・馬名ヂヤキと第三号、第四号と言うナンバリングが併記されている(ようにも読み取れる…)箇所がある(三号と四号のどちらかは誤記か)。 ・取香種畜場での産駒に明治7年生まれが2頭出てくるので、明治4年より前の生まれと思われる。 ・ナポレオン三世アラブの産駒だとすれば結構ギリギリのライン。持込みで生まれた吾妻が明治3年生まれ。 「富里村史」の明治11年取香種畜場請求牛馬其の他現在畜養頭数調べによれば、 洋種牡馬10頭、米買入4頭とあって アラトレー、モンモース、アママン、グートユー、武蔵野、下総、駒場野、第一東京、第二東京、チヤキ なので、普通に前4頭が米買入れと考えられるのですが、その後にある記述が何故か 内、4頭者、東京内藤新宿より回る分 5頭者、米国に於いて購求の分 1頭者、当場に於いて生産分 と矛盾しているので、数字が合わないのですよね。 新宿から来たのは武蔵野、駒場野、第一東京、第二東京の4頭、取香生産は下総と推測できるのですが、 だとすればヂヤキは米国からの輸入となってしまいますが…。 ついでに同文書での洋種牝馬は14頭で米買入7頭とあります。 馬名が出てくるのは第一四ツ谷、第二四ツ谷、雉子橋、片見、ハリス、水沢、ヘリーの7頭だけです。 内、5頭者、東京内藤新宿より回る分 1頭者、陸羽地方に於いて購求分 8頭者、米国に於いて購求分 で、新宿組は第一四ツ谷、第二四ツ谷、雉子橋、片見で、 陸羽が水沢、米国がハリス、ヘリーかなと想像するのですが…。 ヘリーがクレーで、ハリスはバランスのことでしょうか? |
国営競馬だから国の会計基準に従うのは当然なのでしたか。 国等の債権債務等の金額の端数計算に関する法律というのが あって、等には地方公共団体も含まれ、他の法律と矛盾する 時はこの法律が優先すると定められているので、地方競馬は その規定どおり1円未満切り捨てですね。昭和20年代後半は 四捨五入だったのかもしれませんが。 どこかに書いたかもしれませんが、恵庭市は島松村と漁村が 合併して出来ました。漁はイサリと読むものと誰もが思って いますが、開拓使文書の中に Sunadori Farm という文章が あります。スナドリに近いアイヌ語→スナドリ→漁→イサリ という転化があったのかもしれないと考えています。 |
遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。 昨年はいろいろな情報を頂きましてありがとうございます。大変勉強になりました。 微力ではありますが、皆さまの気づきとなるような情報が出せればよいかと考えております。 最近ずっと「ヂヤキ」のことを考えていたのですが、決め手となる情報に行き当たらず、別の話を。 払戻金については、競馬法第十条にある通り(JRAの場合)切り捨てで計算されているのですが、四捨五入で計算している時期があります。 ==== 第十条 払戻金を交付する場合において、前二条の規定によつて算出した金額に一円未満の端数があるときは、その端数は、これを切り捨てる。 2 前項の端数切捨によつて生じた金額は、日本中央競馬会の収入とする。 ==== 「天皇賞の世紀 第2部 第7回 国営競馬苦境に喘ぐ」に以下の文章があります。 ==== (前略)政府は競馬法を改正して第一控除率を25%から18%、払戻金に対する第二控除率を20%から10%に軽減し、 平均25%になるようにして、12月に公布した。配当金は10円以下切り捨てのはずだが、国営競馬ではこの秋から 四捨五入にしていたように思われる。」 ===== 「切り捨て」を「四捨五入」に変更した理由ですが、「国庫出納金端数計算法」が影響しています。 同法は昭和25年(1950年)4月1日公布即日施行ですが、昭和25年6月7日付で、農林省畜産局競馬部から以下の通牒が出ています。 ===== 払戻金端数計算について 昭和25年6月7日 競馬部監理課長通牒各都道府県主務部長宛 国庫出納金等端数計算法の施行(昭和25年4月1日公布即日施行)に伴い、競馬法第八條及第九條の払戻金についても 同法第二條第一項の規定が適用されることとなつたから念のため通知する。 なお、貴管下各指定市町村に対してもこの旨連絡されたい。 (参考) 国庫出納金等端数計算法(抄) 第二條第一項 国及び公団等が一時に収納し、又は支払う場合において、その収入金は支払金の金額に五十銭未満の端数があるときは、 その端数金額を切り捨て、五十銭以上一円未満の端数があるときは、その端数金額は一円として計算する。 ===== 出典:「昭和26年12月 競馬関係法規集 農林省畜産局競馬部」P.239 この通牒により、昭和25年の第3回東京開催(前半:6/16~18)の開催より、四捨五入に変更されます。 その結果、「端数切捨金」と「補填金」に変化が起こります。 ===== 昭和25年 東京2回(5/20~6/11) 売得金:299,233,000円、端数切捨金:2,033,380円、補填金: 9,150円 昭和25年 東京3回(前半:6/16~18) 売得金:105,033,500円、端数切捨金: 224,340円、補填金:209,632.50円 ===== 出典:「国営競馬統計 昭和25年」P.32~33 四捨五入は、国営競馬の開催から日本中央競馬会の開催に変わるまで続きます。 ===== 昭和29年 中京2回(8/14~29) 売得金:271,118,100円、端数切捨金: 446,732.74円、補填金:515,366.55円 昭和29年 東京4回(9/25~10/17) 売得金:626,908,200円、端数切捨金:3,049,934,84円、補填金: 11,237円 ===== 出典:「競馬統計 昭和29年」P.52~53 注:地方競馬での状況はいろいろ調べたのですが参照可能な資料からは、はっきりしたことがわかりませんでした。 |
函館家に残る伝承を元に函館大貞氏書いた小説で、 富士越については招魂の競馬で大経が乗ったという 以外のことは書かれていません。 大経は明治4年1月福岡へ赴任しますから、その際 富士越を伊藤に譲ったのだと思います。福岡行きは 伊藤の命によるスパイだったかもしれません。帰京 後に富士越を戻して貰ったのでしょう。 |
情報ありがとうございます。 スプレッドシートの内容(編集中の方ですが)も加筆しました。 公開版はいずれ他のシートと同時にアップいたします。 wiki などでも馬主マンボウ氏で記載があるようですね。 ところで、優駿の「走れ富士越」は未読なのですが、大経の手に渡る前の富士越に関する詳述はあるのでしょうか。 農務顛末第四巻10頁(13コマ)「西洋畜種購入」によれば、 (一部現代文風に変換し、該当箇所のみを抜粋しました) (略)ただし伊藤大蔵大臣より英国サトヲと申すものへ預け相成り候富士越という亜剌比亜父馬あり之候ども 当人洋行中事故如何共取計い候義も難出来自然御評議は上右英人へお掛け合いの上、駄掛借請候はヽ前件の 父馬お買い上げ不及候につきこの段御指揮に隨ひ可申し候。以上。辛末3月。亜剌比亜一匹。 右は伊藤大蔵大臣より相預けありこれ候。由此節入り用ありこれ候につき被相渡候様致したく存じ候。 この段申し入れ候也。辛未3月29日。サトヲ様。 とあり、これが明治4年3月の文書のようなので、アーネストサトウが伊藤博文から借り受けていたものを、 この年函館大経が譲り受け、翌年函館に運んだという流れになるのでしょうか。 |
横浜貿易新報大正8年11月2日 御賞典を下賜されたる駿足アサヒは前名富士にて 持主は浜松の木綿問屋鈴木基弘氏にて |
閲覧しました。スケールが違いますね。 ビタールート・ストックファームは施設が歴史遺産として保存されているようですね。 ベルモントステークスを制した唯一のモンタナ産馬を生産するなど、一時代を築いたようですが、 マーカス・デイリー氏没してモンタナのサラブレット生産の水準も随分下降したのでしょうね。 |
日本のシンドラーみたいな人だと聞いていたのですが、ユダヤ難民の 時期とは合わないので何だろうと思っていたところ、解決しました。 アプカー氏は開戦前に移住したのではなく13か月も獄にいて、その後 軽井沢で終戦を迎えたのですか。帰化まで考えた日本の仕打ちに何を 思って過ごしていたのでしょうね。 ルシールさんがメンロパークで旅行会社を経営していたのも面白い。 元競馬場で、渡米したファーラップが死んだ所ですよ。 ところでEテレの『地球ドラマチック』でビタールート自然保護区の 動物たちが紹介されていました。大自然に見えるけれども元牧場で、 戻された自然なのだという解説でしたから、マーカス・デイリー氏の ビタールート・ストックファームですね。 |
自身をBachelorと称してたアプカー氏ですが、1922年5月6日 横浜ユニオン教会で、 アルメニア系アメリカ人のAraxe Saundersと結婚し、6人の子供がいるようですね。 娘のルシール・アプカー氏は2011年に「Shibaraku, Memories of Japan 1926-1946」という 本を出されています。2021年時点で95歳で、カリフォルニアのマリポーサにいらっしゃるようです。 https://www.mariposagazette.com/articles/lucille-apcar/ メリネ・メスロピャンさんの博士論文も興味深い内容が多く収録されています。 https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=128307&item_no=1&page_id=33&block_id=46 |