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『主人公のいない自伝』中野好夫(筑摩書房1985)
愉しい本棚 投稿日:2020年08月02日 07:55 No.824
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〇中野 好夫(なかの よしお、1903年(明治36年)8月2日 - 1985年(昭和60年)2月20日)は、日本の英文学者、評論家。英米文学翻訳者の泰斗であり、訳文の闊達さでも知られている。
〇来歴

愛媛県松山市生まれ。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)在学中、スパルタ教育に反発して退学。のち旧制第三高等学校へ入学。旧制第三高等学校では野球部に入っており、野球部の1年先輩には戦前最後の沖縄県知事を務めた島田叡がいた。

第三高等学校卒業後に入学した東京帝国大学文学部英文学科で斎藤勇に師事。同じ斎藤勇の弟子に平井正穂がいる。

1926年(大正15年)に卒業後、新聞社入社に失敗して千葉県の私立成田中学校に英語教師として赴任。1929年(昭和4年)に東京府女子師範学校兼府立二女教師、1932年(同7年)から東京女高師教授などを経て、1935年(同10年)から東京帝国大学助教授。その風貌とシニカルかつ骨太な性格から「叡山の僧兵の大将」との異名を取った。この時期の教え子に木下順二や丸谷才一、野崎孝などがいる。

1945年(昭和20年)、敗戦を機に社会評論の分野に進出。1948年(昭和23年)から東京大学教授。この時期、太宰治の短篇「父」を「まことに面白く読めたが、翌る朝になったら何も残らぬ」と評したため、太宰から連載評論『如是我聞』の中で「貪婪、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人」とやり返されたこともある。これに対して中野は、太宰の死後、『文藝』1948年(昭和23年)8月号の文芸時評「志賀直哉と太宰治」の中で「場所もあろうに、夫人の家の鼻の先から他の女と抱き合って浮び上るなどもはや醜態の極である」「太宰の生き方の如きはおよそよき社会を自から破壊する底の反社会エゴイズムにほかならない」と指弾した。

1949年(昭和24年)、平和問題談話会に参加し、全面講和を主張。1953年(昭和28年)、「大学教授では食っていけない」との理由で退官し、『平和』誌の編集長となる(1955年まで)。朝鮮戦争による好況を背景に、1956年(昭和31年)、『文藝春秋』2月号に発表した「もはや戦後ではない」という評論の題名は翌年の経済白書に取り上げられ、流行語となった。

1961年(昭和36年)から翌年までスタンフォード大学客員教授。1965年(昭和40年)から1968年(同43年)まで中央大学文学部英文科教授。

1958年(昭和33年)から1976年(昭和51年)まで憲法問題研究会に参加。護憲、反安保、反核、沖縄返還、都政刷新を主張。沖縄問題への取り組みとして沖縄資料センターを設立、のち法政大学沖縄文化研究所に引き継がれた。また1968年2月金嬉老事件の際、鈴木道彦や日高六郎、中嶋嶺雄、宇野重吉らと共に銀座東急ホテルで「金さんへ」という呼びかけで始まる文書をとりまとめて、後日文化人・弁護士5人がその文書を吹き込んだテープを持って、金嬉老を訪ね会見した。
1985年(昭和60年)に肝臓がんにより亡くなった。