掲示板


| ワード検索 | フォトアルバム | 管理用 | ▼掲示板作るならRara掲示板 |

お名前
メール
タイトル
画像添付
削除キー ( 記事を削除する際に使用します )
文字色

『愛国という名の亡国』安田 浩一(河出新書19/7) 愉しい本棚 投稿日:2019年08月23日 19:34:54 No.645

 ☆☆☆☆☆
〇内容紹介
「ネットと愛国」以降、日本の右翼化、ネトウヨを告発してきた第一線の人気ジャーナリストが現在の「愛国」という名の「亡国」に挑む
内容(「BOOK」データベースより)

はじめてネトウヨと呼ばれる人々の実態をあきらかにした『ネットと愛国』から7年。ネトウヨ的な意見はいまや日本社会の主流となって、マイノリティや貧しい人々に襲いかかる。移民労働者、沖縄、在日コリアン、生活保護、ヘイトスピーチ被害者たち…さまざまなかたちであらわれる差別と排外主義の禍々しい現場に肉迫してきた著者が、数年にわたる取材を集成して問う、この国の「愛国」の悲惨な真実とその行方。

〇1964年生まれ 『ネットと愛国』で注目、最近作は『「右翼」の戦後史』。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

安田/浩一
1964年生まれ。ジャーナリスト。日本社会に広がる差別と排外主義を告発し続けている。2012年『ネットと愛国―在特会の「闇」を追いかけて』で講談社ノンフィクション賞と日本ジャーナリスト会議賞を、2015年「ルポ 外国人『隷属』労働者」(G2vol.17)で大宅壮一ノンフィクション賞雑誌部門賞受賞





『日本建築集中講義』藤森照信×山口晃(淡交社2013第4刷) 愉しい本棚 投稿日:2019年08月22日 18:12:16 No.644

 ☆☆☆☆
〇建築に隠された謎を解き明かす“建築探偵”としてもお馴染み、建築史家・建築家の藤森照信センセイ。大和絵や浮世絵の様式を用いた緻密な画風で知られ、『ヘンな日本美術史』でその視点の鋭さをいかんなく発揮した山口晃画伯。この2人が13の日本の名建築を訪ねて、お互いの知識と感性をぶつけ合った対談が、面白くないはずがない。山口画伯によるエッセイ漫画まで添えられているのだから、読まずにいられるはずがない。

画伯とセンセイの組み合わせと聞くと、自由奔放な芸術家に手を焼く真面目な指導役が想像されるが、この2人の場合は全く逆。同行している編集者のちょっとした段取りの悪さが気になってしょうがない細やかな画伯が、周りの目を気にすることなくズカズカと進んでいくセンセイに突っ込みを入れながら、名建築の真髄に迫っていく、という構成である。2人の漫才のような掛け合いに、何度も吹き出してしまう。いつまでも読んでいたいと思うほどに、心地よい。

もちろん、この2人のやり取りはただただ愉快なだけではない。当たり前だと考えていたことや、なんとなく通り過ぎてしまうものも、2人にかかれば新たな事実が浮かび上がってくる。藤森センセイによると、小学校のときに習った、「円柱の中部から上部が細っていく法隆寺の柱は、古代ギリシャの技術に由来を持つエンタシス形状である」、というのは誤りだそうだ。

法隆寺の柱には「胴張り」という世界で唯一の技術が用いられており、ギリシャのエンタシスとは何のゆかりもないという。それでは、法隆寺の技術はどこに起源があるのかというと、これがよく分からない。日本建築史の創始者・伊東忠太が中国からギリシャまでを歩いて回っても、その繋がりの痕跡は認められなかったのだ。藤森センセイは、この素姓のわからない法隆寺の胴張を、比べることのできない「世界に1人だけの女」に例える。小学校の修学旅行のときに、「あー、教科書の写真のまんまだ」と素通りしてしまった柱に、こんな興味深い歴史があったとは。

制作背景に関する資料が極端に少なく未だに多くの謎に包まれているのが、豊臣秀吉を迎えるために千利休が用意した国宝の茶室、待案である。1.8メートル四方というこの狭小空間で戸を閉め切り、しっかりとありのままの姿を見つめることで、山口画伯は記録に残されていない利休の意図に迫っていく。

“藁すさや土の濃淡が絵画の構成単位のように作用して、面より奥行きを感じられるようになって、部屋が広がった感じがする。そこに障子や腰張りの織り成すリズムみたいなものが見えてくるんですね。”

名建築の背後にある歴史についての確かな知識を基にした分析眼。目の前に広がる光景を素直に感じ、見つめる感性。この2つがあれば、建築とはこれほど楽しいものだったのか。訪れたことがある建築にはもう一度、訪れたことのない建築にはできるだけ早く、本書を片手に行ってみたくなる。

本書で紹介される13の建築は以下の通り。京都の建築が5つと最も多いが、1つも行ったことがない。6年間も京都に住んでいたのに、、、

法隆寺   奈良県生駒郡
日吉大社   滋賀県大津市
旧岩崎家住宅   東京都台東区
投入堂   鳥取県東伯郡
聴竹居   京都府乙訓郡
待庵   京都府乙訓郡
修学院離宮   京都市左京区
旧閑谷学校   岡山県備前市
箱木千年家   兵庫県神戸市
角屋   京都市下京区
松本城   長野県松本市
三溪園   神奈川県横浜市
西本願寺   京都市下京区

ちなみに、13の建築で関東にあるのは旧岩崎家住宅と三溪園しかなく、旧岩崎家住宅には行ったことがある。ということで、三溪園に行ってきた。

JR根岸駅から車で5分ほど行ったところに、突如広大な緑が現れる。横浜市内にこんな場所があったとは。入口では、人懐っこい猫が迎えてくれる。

5万3000坪という、私邸であったとは思えないほどの敷地に夏の緑と京都などから移築された多くの古建築が映える。街中は35℃を超えるほどの暑さだったが、木陰に入ると意外なほど冷やりとしている。

もともとは和歌山に建てられていた数寄屋風書院造りの臨春閣。山口画伯がまじまじと見つめても複製とは気付かなかった襖絵はこれだろうか。二階には公家たちに書かせた和歌が貼ってあったり、山水画風の襖絵があったりするそうだが、一般客は中には入れません。ぐぬぬ。

本を読んで最も楽しみにしていたのがこちら、京都二条城内にあったと言われ、藤森センセイが東の桂離宮と呼ぶ聴秋閣。2畳ほどの2階からの眺めは絶景だそうだが、こちらも中には入れません。藤森センセイは取材と称して、寝転がったりしていたというのに。ぐぬぬぬ。

臨春閣、聴秋閣の中には入れなかったが、センセイと画伯は時間がなくてパスした松風閣の展望台からの眺めを楽しもうとではないか。と思ったのだが、なんと、「スズメバチ発生のため進入禁止」の文字が(2013年8月4日時点)。ぐぬぬぬぬぬ。

とはいえ、本書のおかげでいつもなら通り過ぎでしまいそうなところまで、古建築をじっくり堪能できた。本書とあわせてオススメの場所である。

知識欲を掻き立てる本、感情を揺さぶる本、驚愕の事実にハッとする本。良い本には色々なタイプがあるが、本書はお出かけしたくなる本である。本書を読むと、紹介されている建築を訪ねたくなり、じっとしていられなくなること請け合いだ。私も、まんまと動かされてしまった。そして、次回はどこに行こうかと計画中だ。夏休みの行き先が決まっていない方は、本書とともに名建築を訪ねてはいかがだろうか。


作者:藤森 照信,山口 晃
出版社:淡交社
発売日: 2013-07-24





『辞書になった男』佐々木 健一(文藝春秋14/2) 愉しい本棚 投稿日:2019年08月21日 12:47:46 No.643

 ☆☆☆
〇1冊の辞書をともに作っていた2人の男はやがて決別し、2冊の国民的辞書を作った-。ことばに人生を捧げた編纂者、見坊豪紀と山田忠雄の物語。NHK-BSプレミアム特番での取材内容に新たな証言等を加えて構成。





『歴史家山辺健太郎と現代』中塚 明(高文研15/12 ) 愉しい本棚 投稿日:2019年08月20日 08:02:57 No.642

 ☆☆☆☆
〇 国会図書館憲政資料室を自らの研究室とし、日本帝国主義の朝鮮侵略史研究を主張し続けた-。今なお鮮烈な刺激を与えてやまない歴史家・山辺健太郎の人となりと思想を紹介する。 





『本の運命』井上ひさし(文春文庫00/7) 愉しい本棚 投稿日:2019年08月13日 21:56:00 No.641

 ☆☆☆☆
〇文芸春秋より
 十三万冊の本をいかに集め、どう読み、なぜ大図書館をつくるに至ったか? 井上ひさしさんと本が繰り広げる波瀾万丈の運命の物語

〇担当編集者より
米沢から電車で三十分、羽前小松駅に降りると、グレーの壁に黒い屋根、和洋折衷の優美な建物が見えます。これが、井上ひさしさんが十三万冊の蔵書を寄贈してできた「遅筆堂文庫」です。子供の頃の読書体験から、本の読み方、そして図書館を作るまで。井上ひさしさんの半生と、本が繰り広げる波瀾万丈の運命の物語です。(M)





『醒睡笑』上・下/安楽庵策伝・鈴木棠三校注(岩波文庫93/6第3刷) 愉しい本棚 投稿日:2019年08月13日 21:51:12 No.640

 ☆☆☆☆
〇ウィキペディア(Wikipedia)
 醒睡笑(せいすいしょう)は庶民の間に広く流行した話を集めた笑話集。著者は茶人や文人としても知られる京(京都)の僧侶、安楽庵策伝。8巻1,039話の話を収録している。「眠りを覚まして笑う」の意味で『醒睡笑』と命名された。この命名時点を完成とみて1623年(元和9年)成立とする資料と、後述の板倉重宗への献呈と奥書の付与の時点を完成と見て1628年(寛永5年)成立とする資料とがある。「醒酔笑」と記す資料もあるが正当ではない。
 策伝の自序では、「策伝それがし小僧の時より、耳にふれておもしろくをかしかりつる事を、反故の端にとめ置きたり」[1]と話を収集した過程を述べている。収録されている話の中には、『無名抄』『宇治拾遺物語』に由来するものがあり、同時代に発行された『戯言養気集』と『昨日は今日の物語』と共通するものもある。それらは、策伝が直接引用したのか、巷間に伝わっていたものを採用したものか不明である。

元和元年(1615年)の頃、策伝が板倉重宗の前で話した話が面白く、著書として纏めるように薦められたことから『醒睡笑』が著されたという。策伝が完成した『醒睡笑』を重宗の元に届けた折り(1628年:寛永5年3月17日)、重宗と同席した子・重郷(板倉侍従)に献呈された(実際には重宗への献呈)。この経緯は、重宗による奥書に記されている。

 『醒睡笑』は、後の咄本(はなしぼん)や落語に影響を与えた。例えば、初代露の五郎兵衛による『軽口露がはなし』(1691年、元禄4年)に記載された88話中、28話が『醒睡笑』に由来する噺である[1]。策伝が近世落語の祖と言われる所以である。現代でも『醒睡笑』に由来する子ほめをはじめ複数の落とし噺が演じられる。また、小辺路・大辺路の名前の歴史や瀬田の唐橋に関する格言『急がば回れ』の由来などについて、現代では歴史的な資料としても利用されている。





『摘録 断腸亭日乗 上・下』磯田光一編(岩波文庫87/8) 愉しい本棚 投稿日:2019年08月13日 15:59:16 No.639

 ☆☆☆
 〇千夜千冊より
  21世紀の最初の年がゆっくり暮れていく。
「千夜千冊」も今夜をもってちょうど450冊目になった。
 感慨はないが、感興はある。その感興も450冊ぶんの千差万別になりうるだろう。通りいっぺんの感想なんぞで1年を過ごすほど、ぼくは目出度くもない。
 この1年にしてからが、誰もがきっとアメリカ同時テロの年とか小泉政権誕生の年と言うだろうが、サブナショナル・ステート元年と言ったっていいのだし、タリバンが消えた年と言っても、不気味な中国沈黙の年とも言えた。そんなことはいろいろその都度の綾取りなのである。誰の手の模様から誰の手が綾を掬うかによって、時代や個人の模様はいくらでも変わるものなのだ。
 そのような1年の歳末最後の1冊に、さていったい何を選ぼうかと思ったが、あまり考えることもなく『断腸亭日乗』にした。ぼくの「千夜千冊」がもともと日々の言吹きだというのもあって、荷風の日記とともに暮れ泥(なず)もうと思ったのだ。もっとも荷風の日乗だって一筋縄ではない。毎日、1冊の書物を相手にするというのも大変なのだが、淡々とその日のことを記すというのは、大変を書かないということにおいて、かえって大変なのだ。

 そもそも荷風はどのように日記を綴り始めたのか。広く『荷風日記』というなら、明治29年の秋に成島柳北の『航西日乗』をまねて綴りはじめていた。
 それからいくつか断絶がある。とくにアメリカ、フランスの遊学から帰った明治40年代は、文壇デビューもあって忙しさに紛れていた。そのころの荷風は、当時はハヤリの"新帰朝者"という役割を演じた。この期間は日記を書いていない。演じることが嫌いな荷風ではなかった。
 それが『断腸亭日乗』となると、荷風37歳にあたる大正6年9月16日が第1日目で、それから死ぬ前日まで続いた。42年におよぶ。
よほどの決意なのである。たしか文化勲章を受けた夜のことだとおもうのだが、荷風自身が「ぼくの最大の業績は荷風日記かもしれないよ」と言っているのだから、やはりそうなのだ。
 もっとも最初の書き出しに重要な意図があるとはおもえない。ぼくの「千夜千冊」は中谷宇吉郎の『雪』で始まったのだけれど、これは3、4本を書いたのちに、順序を入れ替えて最初にもってきたものだ。荷風もこの日は、籾山庭後に雑誌「文明」を降りる旨の手紙を出していることからみて、このあたりで鴎外の好意で就いた慶応義塾教授の仕事から解き放されて、「三田文学」の編集も降り、いよいよちょっとした余裕が出たのかとおもわれる。そんな気分で書き始めたのだ。しかし、そのうちこの"発端"が"計画"になっていった。

 ぼくは1973年から、新宿富久町の横田アパートに住んでいた。そこから番衆町の工作舎までは5分、抜弁天までも5分、断腸亭跡があった余丁町まではそぞろ歩いても7分である。
 抜弁天から右へ折れて、余丁町に向かって歩いていくと、昭和の昔日の名残りがはすかいにやってきた。ぼくはそこを平べったい下駄で散歩をするのが好きだった。沢木耕太郎が「あれ、松岡さんも下駄ですか」と言ったものだが、その沢木もいつも下駄を履いていた。
 そのころの余丁町にはまだ大衆劇場の廃屋があった。荷風の断腸亭の痕跡はすっかり消えていた。消えてはいたが、ぼくはむりにでも荷風を想像した。そのころのぼくは生涯のなかでもいちばん散歩をしていたのではないかとおもうのだが、それは荷風散人への憧れだったかもしれない。

 多少の理由があった。当時のぼくは「耄碌」に憧れていたのである。そのことを鈴木忠志に言ったことがあり、すぐさま「おまえ、変わってるなあ」と大笑いされた。むろん若者が耄碌するのは不可能である。
 そんなことには遠いから、せめてとおもって老人に会うことを仕事にしていた。人生を60年、70年ほど送った人の話を聞きたかったのだ。それがいくつもの『遊』のインタビューに残っている。稲垣足穂、白川静、武田泰淳、澤田瑞穂、湯川秀樹、唐木順三、野尻抱影、下村寅太郎、岡崎清一郎、吉岡義豊、田村松平、伏見康治、大岡昇平、柳家彦六、梯明秀、バックミンスター・フラー、ポール・ディラック、リチャード・ファインマン、レイ・ブラッドベリ、ルネ・デュボス…。
 けれども、荷風はそこにはいなかった。当たり前である。時代が違うし、このすばらしい老人たちは荷風のようには最初から老人風情などをしていない。歳をとるべくして、とった。ところが荷風は若くして老人をめざしたのだ。
 荷風は日記の冒頭から身辺整理をし、墓碑の準備をし、「余既に餘命いくばくもなきを知り、死後の事につきて心を労すること尠からず」と書いている。それがなんと37歳あたりのことなのである。荷風はその歳にして「老人風情」を地で行った。老人計画に着々と手をつけたのだ。驚くほかはない。
 ぼくは25歳前後で耄碌に憧れたのだから、その寸志だけは多少は荷風に比して自慢してもよいものがありそうだが、およそ何の準備もしなかった。実は着流しもよく着ていたのであるけれど、呉服屋の伜が着物を着るのではサマにならない。せいぜい高倉健に憧れるばかりで、これはおよそ荷風ではなかった。
 ところが荷風は徹底して準備をする。老人計画に着手する。そして、その準備こそが実は四十年におよんだ『断腸亭日乗』だった。念のため言っておけば、そうだとすれば『日乗』は"創作"だったということになる。

 ところで、荷風が大半の『日乗』を綴ったのは余丁町の断腸亭ではなく、麻布市兵衛町の偏奇館に移ってからのことだった。
 荷風は、父親が遺した余丁町の家をすこぶる気にいっていたのだが、大正7年8月8日に裏の土蔵の整理をおもいついた。だいたい整理整頓は荷風に似合わないのにそんなことをしたので、妙なものが見つかった。亡父久一郎は郵船会社の上海支店長を務めていて、
そのころに買いこんだのだろう大量の書画骨董が、そこに埃まみれに蔵ってあった。荷風はそれを見て、変な推理をする。これは母親が長男の自分に渡したくなくて隠しておいたのだ、それならそんなものを隠してきた家に住む必要はない、自分はどこかに引っ越して自分の余生をおくりたい。百科事典を構想したり漢文の素養もすぐれていた父親にさんざん外遊をさせてもらったことへの、その父の"財産"を隠した母へのあてこすりを含んだ、これは荷風らしい抵抗である。
 で、その年の暮に家をたたみ、家財いっさいを売り払ってしまうのだ。そして大袈裟にも、こう綴った。「嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、逐に長く留まること能はず、悲しむべきことなり」。
 大袈裟である。邪推でもあろう。大袈裟で邪推ではあるが、それが荷風だった。とくに肉親や親しい者への感情は、ふだんはまったく抑制されているかのようなのに、突如として炎のように燃え、憎しみ、また跡形もなく消えていく。

 このような『日乗』の中の荷風をどうよぶか、なかなか楽しい悩みだが、ひとまずは遊民坐食、狷介孤高、老成書生、散策居士などがおもいつく。
 とくに狷介孤高は荷風っぽい。単に孤高なのではなく、狷介である。ときには卑怯ですらあった。これは徳川夢声がさんざん拡声したので有名になってしまったが、かなりの吝嗇でもあった。浅草のストリップ小屋に入り浸ったときでさえとんでもない吝嗇で、物売りが楽屋にくると気にいった踊り子と10円菓子を二つ買って、絶対にほかの踊り子たちの機嫌などとらなかった。親しい者への香典もとことん渋りきった。
 けれどもこれを狷介孤高といえるかどうかというと、どうもあやしい。好き嫌いがはっきりしている、無駄なことを思いつかない、いつも被害妄想状態にいる、そういう自分が情けないのではなくて一筋に見える、弁解や説明は面倒である、どんなことも五十歩百歩であろう…。むしろこういう感覚だったと言ったほうがいいのかもしれない。荷風は荷風の綾取りしかしない人なのだ。

 そういう荷風を祭り上げたい連中は、たいてい四字熟語のような呼称をおもいつく。が、こんなことをしてもあまり荷風に近づいた気にはならない。
 丸眼鏡とよれよれの洋服に下駄履き、買物カゴを下げて野菜を買い出しに行く姿は、けっして四字熟語からはやってこない。露伴の葬儀に黒服に下駄のままで向かい、途中で引き返してしまった荷風はたしかに狷介孤高ではあるものの、その一方に中途半端な人情というものもあって、その中途半端をそこだけ切り取って他人に見せるのが嫌だったともいえるのだ。成瀬正勝がそれを「やつし」と形容したことがあったが、この言葉が一番あたっている。
 では、荷風自身がつかっている言葉から『日乗』の荷風にふさわしい言葉を見つけたらどうかということにもなるが、これも容易ではない。ぼくはとりあえず『日乗』から拾って「悵然」という言葉ではないかと見当をつけた。
 「悵然」なのである。いかにも荷風的な立心偏だ。ちなみにぼくはどうかといえば、「絆然」だ。

 荷風の日記の定番は銀座や浅草である。けれども、今度あらためて読んでいて、銀座が頻繁に出てくるのがやっと昭和6年から9年あたりからだったことに意外な思いがした。何につけても勝手な想像で決めつけているものだ。
 実際にも荷風は「銀座通の景気盛なりしは昭和六年より翌七年」と書いている。このころ銀座の柳が復活した。
 市兵衛町から銀座に行かなかったのではない。それまでもたしかに銀座に行っては、三浦屋のショコラ、尾張町のヴゥイナ・カフェでクロワッサンを買っている。が、どちらかといえば築地のメトロポール・ホテルや『腕くらべ』の舞台になった新橋をおもしろがっていた。銀座にひっきりなしに出掛けるのは、やはり昭和6年あたりからで、これは犬養景気で「大東京」が誕生した時期にあたっている。"陸の竜宮"といわれた日本劇場、東京宝塚劇場、日比谷映画劇場が次々にオープンしていた。

 荷風が連日連夜のように銀座に行ったのは「店」のせいである。のんべんだらりとした町など、荷風は好まなかった。トンカツも品物も女も食べられる店が好きなのだ。そういうふうに町を限定するのが好きなのだ。
 だから荷風の銀座は店の名前でも追いかけられる。松喜食堂、銀座食堂、カフェ・タイガー、佃茂の金兵衛、平岡権八郎の花月、銀座風月堂、コロンバン、きゅべる、米人がいたオリムピック、荷風は藻波と綴ったモナミ、神代箒葉に教えられて気にいった萬茶亭、フジアイスなどである。
 銀座にカフェが出現して女給文化とともに人気を攫ったのは、実はもっと古くて明治44年のカフェー・プランタンやカフェー・パウリスタが嚆矢であって、その後もエスキモ喫茶店など名物店はけっこうあったのだが、なぜか荷風が銀座のカフェを利用しはじめるのは遅い。西条八十の『東京行進曲』に「シネマ見ましょか、お茶のみましょか」と歌われたのが昭和4年だから、それ以降ということになる。

 銀座が遅いのだからと思ってあらためて確かめてみると、玉の井や浅草も案外遅い。荷風が初めて玉の井付近を歩いたのは昭和7年1月22日だった。
 もっともそれが昭和11年になると、多いときには1カ月に12回も玉の井通いをした。むろんお気に入りの、心根は優しいのに蓮っ葉な女たちのせいであるが、『日乗』にはまるで調査メモのように玉の井のディテールが綴られる。「二階へ水道を引きたる家もあり。又浴室を設けたる処もあり。一時間五円を出せば女は客と共に入浴すると云う。但しこれは最も高価の女にて、並は一時間三円、一寸の間は壱円より弐円までなり」と、まるで週刊誌かスポーツ紙なのである。
 『日乗』にはそんなことは書いていないが、付き合った女の数を指折り数えたら、17、8人になったという話も残っている。谷崎、
舟橋、田村らと互いに"何回"を誇るかの猥談になったとき、谷崎が「俺は3回だ」と言ったところ、みんなは1週間にしてはそれは少ないと詰ったので、谷崎がちょっと顔を赭らめて「いや、俺は一晩のことだと思って」と言ったという話も残っている。

 浅草も昭和11年11月13日あたりを境に急に足繁くなる。これも意外であった。
 なぜなら、この昭和11年というのは二・二六の年である。いったい二・二六事件を文人たちがどのように受け取ったかというのは、存外に詳細がわからないのだが、半藤一利さんの本だったかに三木清は敢然と三重に旅立ち、高田保は夫人に急き立てられて熱海に逃げ、菊池寛も当夜は徳川夢声長女の媒酌人だったにもかかわらず、家にサザエが蓋を閉めるように蟄居していて、媒酌役をすっぽかしたとあった。
 そういうなか、荷風は面白がって「市中騒擾の光景を見に行きたくは思えど、降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す」と書いた当夜のあと、翌日からは野次馬見物に出掛けている。荷風にとっては国事などどうでもいいのに、ラジオ嫌いの荷風はその顛末だけは自分の目で知りたかったらしい。
 そういう年に、荷風は浅草遊びを"日課"に決めたわけである。浅草を、というのは浅草の踊り子たちということだ。これを何というのか、切り替えの妙というのか、他人が用意した価値のお膳に見向きもしないというのか。

 たしかに荷風は価値の転換をはっきり綴った人である。そこは見事というほかはない。
 たとえば大正8年9月には「この日午後トスカを演奏す。余帰朝以来十年、一度も西洋音楽を聴く機会なかりしが、今回図らずオペラを聴き得てより、再び三味線を手にする興も全く消失せたり」と書いて、一日にして三味線がオペラに打倒されたことを告白している。それまで荷風は三味線の世界にはぞっこんであり、まさに身をやつすほどだったのだ。
 こういうところが中島敦が「荷風のいやみ」というところだろうが、荷風は平気なのだ。手のひらを返したというよりも、トスカにほんとうに参ってしまったのである。だからそれを書く。
 荷風は自分だけではなく、人は誰もがその程度に変節著しいとみなしていたわけなのである。人間に対する見方も似たようなもので、ほとんど誰のことをも信用していない。調べたわけではないからなんとも言えないが、荷風が終生その評価を変えなかったのは露伴と鴎外だけではなかったかとおもう。

 こんな荷風だから、時代や世相についても無責任でいいかげんでも当然なのだが、そういうところの目は狂わない。
 たとえば昭和が始まったとたんに、昭和を「乱世」と見た。近代の否定をこそ全思想としていた荷風の面目躍如である。
 荷風は昭和16年の開戦にあたっても、ある意味では大乱世に対する見方を貫いた。12月8日の『日乗』は「日米開戦の号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中燈火管制となる。街頭商店の灯は追々に消え行きしが電車自動車は灯は消さず、省線は如何にや」とあって、うーん、そうかそうかと納得させるのだが、それが12月12日には次のような、鋭いというのか、馬耳東風というのか、まったく勝手な指摘になっていく。

 十二月十二日。開戦布告と共に街上電車その他到処に掲示せられし広告文を見るに、屠れ英米我等の敵だ、進め一億火の玉だとあり。或人戯にこれをもじり、むかし英米我等の師、困る億兆火の車とかきて、路傍の共同便処内に貼りしと云う。現代人のつくる広告文には、鉄だ力だ国力だ、何だかだとダの字にて調子を取るくせあり。まことにこれ駄句駄字といふべし。哺下向嶋より玉の井を歩む。両処とも客足平日に異らずといふ。

 ここには一種のミニマ・モラリアが衝かれている。とくに「ダ」という口調で戦争に駆り立てる軍部を揶揄しているところなど、ぼくが知るかぎりはこんな痛罵はほかには見かけない。
 たしかに戦争は「ダ」であった。ジョージ・ブッシュも3カ月で100回の「ダ」を使ったのである。一部のアメリカ人を除いて、そんな口調に全世界がうんざりしたにもかかわらず、その場に居合わせた者たちのすべてと、そのニュースから流れてくるメッセージは"記録に残る広告文"になっていったわけだった。
 そういう世相の本質を抉(えぐ)るようなことを、ちょっとだけ書く荷風。それでいて、くるりと社会に背を向けておもむろに玉の井に出掛けていく荷風。おかしな老人である。
 そこにはいっさいの対決がない。そこは最初から「背いた社会の一隅」なのだ。その日々はもともとが「負の日々」なのだ。

 昭和15年の大晦日、荷風は「今年は思がけぬ事ばかり多かりし年なりき」と書いて、世相を「石が浮かんで木の葉が沈むが如し」と嘆じた。
 そして「この度の変乱にて戊辰の革命の真相も始めて洞察し得たるが如き心地せり。これを要するに世の中はつまらなきものなり」と綴り、「弥次喜多の如く人生の道を行くべし。人間年老れば誰しも品行はよくなるものなり」と結んでいる。
 そのような荷風が、ますます愛されている昨今であることに、なんだか溜息が出る。日本を早々に「穿たれた日本」にしてしまった荷風を想って、ぼくは今年を終えることにする。

 十二月三一日。晴れて寒し。昏暮浅草カフェージャポンに憩ふ。除夜の鐘をきく。女給いち子を拉し観音堂に賽す。

長らへてわれもこの世を冬の蝿

参考¶『断腸亭日乗』全巻は『荷風全集』第19巻~第24巻(岩波書店)にあたる。岩波文庫版は抜粋。そのほか荷風自身にも日乗に見合うさまざまな文章があるのだが、ここでは荷風の著作ではなく、荷風の日記に惹かれて書かれた書物を紹介しておく。なんといっても川本三郎『荷風と東京』(都市出版)がすごい。読売文学賞を受賞した金字塔ともいうべきもので、「断腸亭日乗・私註」という副題がついている。同じ川本がこれこそはガイドブックともいうべき『荷風語録』(岩波現代文庫)も出している。大野茂男『荷風日記研究』(笠間書院)、半藤一利『永井荷風の昭和』(文春文庫)、松本哉『永井荷風ひとり暮し』(朝日文庫)、近藤富枝『永井荷風文がたみ』(宝文館出版)、野口富士男『わが荷風』(集英社)、廣瀬千香『私の荷風記』(日本古書通信社)なども、この情緒につながる。一方、荷風論の定番にもいろいろあるのだが、まずは佐藤春夫『小説永井荷風傳』(全集)、中村光夫『評論永井荷風』(筑摩書房)、磯田光一『永井荷風』(講談社文芸文庫)というあたりであろうか。ほかに秋庭太郎『永井荷風伝』『荷風外伝』『新考永井荷風』(春陽堂)、飯島耕一『永井荷風論』(中央公論社)、坂上博一『永井荷風ノート』(桜楓社)、森安理文『永井荷風』(国書刊行会)など。





1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | >>

記事No: 削除キー:

Powered by Rara掲示板
掲示板管理者へ連絡 | 新着投稿をメールで受け取る | この掲示板を支援する