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『革命思想の先駆者-植木枝盛の人と思想』家永 三郎(岩波新書55/12)
愉しい本棚 投稿日:2020年02月05日 11:17 No.766
 ☆☆☆☆
〇法学館憲法研究所より
植木枝盛
H・T記
 “一ツトセー 人の上には人ぞなき 権利にかわりがないからは コノ人じゃもの”

 明治初期に全国に広まった自由民権運動の理論的指導者として知られる植木枝盛が作詞した、「民権数え歌」の出だしです。植木枝盛は1857(安政4) 年、土佐(現在の高知市)に生まれ、独学で自由民権理論を確立して国会開設を要求し、民権理論の普及と運動の発展に生涯を賭け、36歳の若さで病没しました。封建制度の下で長く苦しんできた人々にとって、近代憲法の原理を日本に採りいれようというこの運動は、大いなる希望をもたらすものでした。しかし、その後明治政府によって弾圧され、天皇主権の大日本帝国憲法が制定されました。では、枝盛の思想は単なる歴史の一こまとして人々の記憶の中に残っただけなのでしょうか。いいえ。日本国憲法の中に脈々として受け継がれています。日本国憲法はGHQ(連合国最高司令官総司令部)の「押し付け」に過ぎないという見方が一面的である大きな理由です。

 自由民権期には68種もの私擬憲法草案(個人が私的に考える憲法草案)が作られました。中でも、植木枝盛が起草した220条からなる「東洋大日本國國憲按」(1881年)は最も民主的で、高校の歴史教科書でも紹介されています。

 内容は、主権在民の立場から、(1)第4編「日本国民及日本人民ノ自由権利」では9か条に渡って精神的自由権を何らの留保をつけず、詳細に保障しています(「日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス」「日本人民ハ如何ナル宗教ヲ信スルモ自由ナリ」など)。選挙権でも男女の差別をしない平等主義も注目されます。死刑廃止も明確です。そして、「政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハザルコトヲ得」(不服従の権利)や抵抗権、革命権の保障の規定からは、近代憲法誕生時の熱気が伝わってきます。
(2)民主主義の基礎をなすといわれる地方自治も日本国憲法より徹底している面が見られます。「中央政府→地方自治→個人の権利という上から下への価値序列によってでなく、個人の権利を中核に、地方自治→中央政府という、下からの住民運動を起点として政治の変革をはかるところから政治活動に入って行った点が、枝盛を考える上でたいせつなところである。」(「植木枝盛選集」家永三郎編・岩波文庫)
(3)刑事裁判では陪審制を採用しています。
 
日本国憲法の制定の際にも10数種の民間の憲法草案が起草されました。その一つである鈴木安蔵らによる「憲法研究会案」は、自由民権期の枝盛らの私擬憲法を重要な資料としています(参照 映画「日本の青空」」)。この「憲法研究会案」はGHQの草案に多大の影響を与えました(古関彰一「新憲法の誕生」)。

 このように見て来ると、近代憲法原理→枝盛らの憲法思想→鈴木安蔵らの「憲法研究会案」→GHQ草案→日本国憲法という「連続性」が認められます(参照 「伊藤真の憲法手習い塾」第43回)。現憲法は「アメリカの『押し付け』に過ぎない」と言うのは、いささか近視眼的ではないでしょうか。歴史家の家永三郎氏は、枝盛案と日本国憲法との一致点を列挙し、「明治10年代の日本国民が実現しようとして果さなかった民主主義と平和主義とに立脚する民主憲法の制定を…60年余ののちにようやく実現したものと見ることができる」(『歴史のなかの憲法』・東京大学出版会)と述べています。

 枝盛の思想の特徴に、政府への猜疑心があります。一旦権力を持った政府は、私たちの信頼につけこみやすい故に、私たちは不断に権力を監視しなければならないと、強調しています。憲法改正のための国民投票法案が審議されている現在、封建制のくびきから解放された時代に生きた枝盛の「近代日本の若々しい初心」は、一層の新鮮さをもって豊かな示唆を与えてくれます。

 4月23日更新の「今週の一言」は、水島朝穂客員研究員による「『疑』を胸にひめて―植木枝盛のリアリティ」です。合わせてご覧ください。

高知と植木枝盛

平和資料館・草の家 事務局長

高知は、自由民権運動発祥の地です。けれども、自由民権運動とは何だったのかと聞かれると少し返答に困るのではないでしょうか。


自由民権運動とは、いまから百三十年ほど前、西洋の人権・政治思想やアメリカの独立、フランス革命など近代国家成立の歴史に学んで、憲法制定、国会開設、言論集会の自由、租税の軽減、地方自治の確立、不平等条約の改正などをもとめて闘われた日本で最初の民主主義運動のことです。自由民権の運動家であることで有名な植木枝盛が憲法草案の草分け的存在であることも少しずつですが周知のようになってきました。

枝盛が憲法草案を書いた部屋が現在も高知市桜馬場に残っています。壁は白く塗り替えられていますが、元はピンク色10畳の和室に絨毯を敷き立派な唐机(中国風の机)がおいてありました。ある時友人がその贅沢をなじると、「そもそも書斎は人格修練の道場である。人はここで静座、黙想、読書しその人格を養い向上発達させる真に神聖にして大事な場所である。もし書斎が荒涼、貧弱、不愉快なもので、他人の立派な家から帰る気がしなくなるようでは困る。多少でも部屋を装飾して居心地よくするのはそのためだ」と答えました。これには友人達もなるほどと感心したそうです。

植木枝盛らが設立した立志社が憲法草案起草に着手したのは明治14(1881)年夏のことです。8月28、29の両日、高知は暴風雨に襲われました。植木枝盛は外出できず、高知桜馬場自宅書斎にこもって憲法草案を起草します。これが有名な「東洋大日本国々憲案」です。植木枝盛憲法草案の最大の特徴は、何よりも豊かな自由と権利の保障にあります。政府・官僚が人民の自由や権利を侵害して圧政を行うとき、人民は之に抵抗し、新政府を樹立する権利を持つという「帝国憲法」・「革命権」の規定は他の私擬憲法に例を見ません。枝盛は、主権在民を明確にし、何の制約も設けず、生命身体の自由や生命を奪われない権利、法の下での平等、思想信条・信教・言論出版・集会結社・学問の自由や拷問の禁止、国籍離脱の権利など、人民の自由権利を35条にわたって明記しました。この植木枝盛の憲法草案は様々な経過をへて現在の憲法に生きています。

高知には憲法のふるさととも言える桜馬場、たくさんの資料を保存する自由民権記念館や民立民営で草の根活動をしている平和資料館・草の家など自由民権運動や憲法、平和活動に縁の地が多くあります。それらを学習できる本もあります(「土佐の自由民権運動入門」(公文豪 著)をはじめ草の家ブックレットなど)。