九州説の皆さんのための古代史掲示板


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ネパールの状況
蔚山人 投稿日:2019年11月22日 15:44 No.2219 【Home】
オヤジッチ様

お元気ですか。近頃はオヤジッチさんからの写真の投稿がなく、寂しく思っています。そこでネパールの写真でも付けたいと思います。

こちらは朝夕の寒さが日を追うごとに厳しくなってきていて、暑い日が懐かしくなる時があります。しかしヨーロッパ人はタフで、昼間は少し春のような気温ですので、ノースリーブの女性も見かけます。


粗忽屋 投稿日:2019年11月25日 18:35 No.2220
蔚山人 様

お久しぶりです。
一番右の写真、遠くに写っているのはアンナプルナのとんがり頭ですね。
こんな標高の高いところには、私はとても住めない!
標高10メートルにも満たないダッカで、年中、蚊に悩まされつつ暮らしております。
すっかり考古学ともご無沙汰・・・・。

真ん中の写真は、洪水で流された道路か何かですか?
だとしたら、こんなのの復旧も大変そうですね。


粗忽屋さん 蔚山人 投稿日:2019年11月26日 19:05 No.2221 【Home】
お久しぶりです。

ダッカとは、近そうで遠いですね。そこはインドと同じように暑いところでしょうが、蚊に悩まされておられるようでその苦労はお察しします。ネパールは現在冬に入り、朝夕は少し寒く、ジャンバーがないと外を歩く事が難しくなってきています。12月はもっと寒そうです。しかし暑いよりははるかにマシですので、申し訳ない気持ちです。

鋭鋒はアンナプルナの三角形のとんがり頭です。今年はモンスーンでの雨が少なかったせいかどうか、山の頂に雪が少ないように思います。

真ん中の写真は、工事用として河川を横断するルートで、大型のダンプとかはこの川を渡り他岸に渡ります。渡河地点は一応川を整地していますが、それでも途中突き出た石があると、ガクンと止まることもあります。しかし川にサブンと入るのは豪快ですよ。

考古学は近頃は覗く程度ですが、縄文時代の見直しが行われ、今まで考えられられないような生活の進歩があったことが段々分かってきているのは良いですね。日本人の差別をせず、かなり平等な社会であるその日本人の考えの原型がそこにあるようです。文化的にも、ファッションなどを楽しむ余裕があったようですね。ただ幼児の死亡率が高く、悲しみはどの時代も同じようだったようで、亡くなった子供の足型を取り、それを家の横に飾っていたりしていたようです。足型をみると涙が出てきます。

その他は、関東地方でよく発見される三角形の帽子の横に髪を下に垂らす埴輪は、ユダヤ人がいたことを示していることが段々と分かってきています。秦氏はまさにそうだったようで、家内の旧姓が秦ですので、余計興味を増しているところです。

暑さにも、部屋を飛び回る蚊にも負けず、ダッカの人と接し、美味しい食べ物屋を探し生活を楽しむような、粗忽屋さんのように皆さんに好かれるようなりたいですね。私もそうなりたいと願っています。


粗忽屋 投稿日:2019年12月01日 02:06 No.2222
何をおっしゃられているのか(笑)。
気がつくと周りは若い人ばかりになって、小言をつぶやくしか能のないトシヨリは煙たがられているだけですよ。

縄文時代は、各種作物の縄文農耕の存在が明らかになるにつれ、狩猟・採集だけではなかったことがますますはっきりしてきて、そこへの新規移住者も、概ね友好的に受け入れられていますね。
かえって、弥生も後期になってからの青谷上寺地など、後発の移住者を拒絶して殺戮したとも受け取れるし、集団が大きくなるとギスギスしてきたような印象です。
現代を見てもそうですが、人間は増えすぎるといかんのでしょうね。

三角帽子の埴輪はソグド人と思っていました。

そのほかでは、百舌鳥・古市古墳群の登録名が「○○天皇陵」になっていることに欺瞞を感じる今日この頃であります。


車のボディーで卵焼きが出来そうですね 蔚山人 投稿日:2019年12月01日 18:15 No.2223 【Home】
ダッカは、12月でも平均気温が20度以上あり、最高の平均でも26度とか。昔ジョークで「インドの気候はどんなものか」という問いに対して、「インドの気候は、hot..hotter..hottestの3つしかない」という返答がありました。ダッカも同じですね。体を壊さないようにして下さい。

考古学というのは、覆されるためにあるような学問ですね。鉄とヒッタイトですが、中近東文化センターアナトリア考古学研究所」(大村幸弘〈さちひろ〉所長)が、トルコのアナトニアで紀元前2250~同2500年の地層から世界最古の鉄を2017年9月に発見したとする新聞記事が、今年の3月にありました。

しかしこれが最古なのでしょうか。縄文遺跡からは、たたら遺跡が発見されていて、植物の中に入り化石化したものを野焼きして取り出していたようです。宮崎の瓜生野に行くと、そこら中に鉄化した葦の枝状のものから、細かく砕かれたものまでが見られます。これらを野焼きして鉄を取り出すことは縄文人の目から見ても簡単に分かりそうです。それで実際縄文時代から弥生時代後期まで、簡単なたたら製鉄が行われていたようです。私も鉄化した葦の枝をはっきり目にし、また自宅に持ち帰り保存しています。これをどう評価するかですね。

縄文時代が後期になると、人口が増えて来たために、争いが発生することもあったのでしょうね。農作物の他、こういった鉄のようなものも入っていたかも知れませんね。

埴輪の三角帽子のおじさんは、弓月からの移住者と記録にある方々と思いますが、ソグド人の住む中央アジア地域に近く、その影響を受けているのかも知れません。神社等での建物、幕屋、神輿など、明らかにユダヤの影響を受けていることが判ってきていますが、考古学者の狭い知識ではそのことを理解することがまだまだ不可能のようで、歴史の真相に迫るのは難しいでしょうね。

大型の前方後円墳に誰が埋葬されているかは、実際に詳細な調査をしないと分からないかも知れません。それでも難しいかも知れません。それを「○○天皇陵」とすることに欺瞞を感じる粗忽屋さんの気持ちも分かります。

常識はどきどき間違えることもあります。例えば「中近東でクルド人がトルコから攻められ、ISから攻められ生きるか死ぬかの世界にいる。」という報道を耳にします。しかし、実はイラク側にいるクルド人は非常に安全な地帯に住んでいて、JICAの援助で下水道の整備をしていたりします。日本人も安全に渡航して、業務に従事していて、非常に平和な世界にいると皆さんが感じられています。普通の日常があるのです。

いろいろな意味で、頭を切り替えることが、歴史を勉強しようとするものには必要でしょうね。


鉄の発見? 粗忽屋 投稿日:2019年12月04日 15:22 No.2224
最近のダッカは、最高気温でも30℃を超えなくなったのでずいぶん過ごしやすいですよ。朝晩は20℃を切ることも。
ただし、南西モンスーンの雨期が終わって北東の風(乾期)に変わったとたん、風速が遅く空気が滞留し、大気汚染がひどいです。
ガキの頃の「四日市ぜんそく」なんぞという言葉が頭をよぎります。

さて、
> 縄文遺跡からは、たたら遺跡が発見されていて、植物の中に入り化石化したものを野焼きして取り出していたようです。

ここがよく分かりませんでした。
これも、後段の瓜生野のことですか?
縄文まで遡るとすると、画期的な発見ですね・・・。
少し調べてみましたが、報告としては見つかりませんでした。

> 宮崎の瓜生野に行くと、そこら中に鉄化した葦の枝状のもの

これは、いつぞや蔚山人さんご紹介の「笠置山」近隣でみられた、「葦の根元の『スズ』」のことですね。
土器を焼くために大量の葦を刈り取って燃やしたら、その根元に付着していた酸化鉄がまとまって小鉄塊が得られた、というような展開でしょうか?
この「偶然」が、縄文期にすでに起こっていたことになるわけですか。

もし、北部九州から南下した人々が阿蘇山を通過するルートをたどったら、そこでみられるリモナイト(褐鉄鉱)も、製鉄の原料として気づいたんでしょうかね。
(どこからか福島さんが出てきそうだ・・・・)


蔚山人 投稿日:2019年12月05日 16:11 No.2225 【Home】
福島さんが出てこられると、ちょっと嬉しいですね。

縄文時代の鉄については再考すべき時にきているでしょうね。縄文時代は1万年間続きましたが、この間に縄文人が鉄というものに気づかなかったというのは、考えにくいように思えます。

縄文の住居の火を使っていた炉の個所(囲炉裏など)は、赤い色が土に付着していていることが多いそうです。それは、木を燃やしたりして出来た灰などでは長い年月をかけても赤色にならず、鉄が酸化して出来た酸化鉄が残されて赤色になっていると言われています。そうであれば、この時点で既に鉄があったことが証明できるように思えます。

青森県の三内丸山縄文遺跡では、赤い色のおわんが出土していますが、そこでは赤色の顔料として、酸化鉄の赤色チャート(粘土質微粒酸化鉄)が使われているそうです。そこで使われている酸化鉄は、「沼鉄」(パイプ状酸化鉄)と呼ばれ、植物の根で吸い寄せられた渇鉄鉱と呼ばれるものです。このことから、古代に日本では、「たたら製鉄」が始まる前に既に製鉄材料が存在していたようです。

これらの材料は、水酸化鉄を朱とした褐鉄鋼で、800~1,000度で焼けば、鉄としての素材が手に入るようですし、500度でも低質のものであれば、溶解したものが得られるようです。縄文土器は800度で焼きますので、鉄を得ることは十分可能だったでしょう。炭も使われていたでしょう。三重県四日市の中野山遺跡からは、縄文時代早期(約8,000年前)の煙道付炉穴が見つかっていますが、このような施設があれば、高温を得ることが容易だったでしょう。

これらの材料はベンガラとして、顔や石棺を塗ったりすることに使われていますが、宮崎県の弥五郎どんは赤色の顔をしていることで有名ですが、魏志倭人伝での倭人も赤色の顔料を使っていることが書かれています。粗忽屋さんも既にご存知のように、宮崎県の瓜生野では、「スズ」と呼ばれる葦の茎にしみ込み化石化して鉄の素材が出土します。これは見られたら分かりますが、鉄素材そのものといっても良いものです。当然これらを焼けば、鉄が得られることを承知するのは感覚的に容易です。このベンガラは「縄文の赤」とも呼ばれることがあるそうです。

阿蘇山の北側は、弥生時代の褐鉄鋼の非常に豊富なところで、それが熊本県の遺跡のベンガラとして使われていましたが、これは縄文時代から知られていたと思います。阿蘇山は宮崎県の邪馬台国に行く道筋に当たりますので、交通の要所でこれを縄文時代から目にしていたものと思います。


縄文の鉄 追加 蔚山人 投稿日:2019年12月06日 16:05 No.2226 【Home】
粗忽屋様

縄文時代に鉄が使われていた間接的な証拠として、青森県三内丸山遺跡での栗の木での木材加工があります。栗の木は固くて、巨木であれば石器では切ることが不可能です。これを行っているのは、鉄器が使われた証拠ではないかと考えられます。

古代の丸太船を刳り抜くときに火で炙ることをします。それで内側が掘りやすくなります。この方法を太い立木に適用することも可能ですが、石器の刃は丸いですので大変な労力時間が必要で、三内丸山では切り取られた面が鉄斧でなければ出来ないと専門家は述べておられます。

古くから用いられてきた赤色顔料は、「朱(辰砂)」、「ベンガラ(赤鉄鉱)」、「鉛丹(四三酸化鉛)」の3種類があります。富山市域の縄文遺跡から出土した赤色に彩色された土器を、蛍光X線で分析したところ、5つの土器サンプルのうち4つがベンガラで彩色され、残りの1つが朱を使われていたようです。ベンガラは日常的なものだったのでしょう。

鉄というと弥生時代朝鮮半島からその技術がもたらされたと今まで教わってきました。しかし縄文人は既に鉄を作る技術を持ち、朝鮮半島には鉄の素材を探しに行っていたのではないでしょうか。縄文人の行動半径は非常に広いものです。ただ縄文時代は、砂鉄を使うまでの技術はなかったでしょう。植物の中に潜む鉄で十分だったと思います。

宮崎市の瓜生野では、8つの池があり子捨池もあり、それぞれを丘から大蛇(オロチ)が降りてきても良いような十分な環境があります。これが後のヤマタノオロチ伝承となったと思います。

朝鮮半島から文化を伝えられたというような、プロパガンダから開放されても良いのではないでしょうか。欧米人が発掘しているということでヒッタイトばかりに目が行くのも、これも問題です。

私は技術屋ですので、いつも問題を見つめ何が最適な答えかを探ることをしてきました。考古学は、深窓に閉じこもった学者が、一度大きな前提を崩してみて、そこから何が得られるか考える良い学問だと思います。




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