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支石墓
オヤジッチ
投稿日:2019年08月24日 11:30
No.2207
1998年10月20日志摩町歴史資料館特別展『支石墓が語るもの』
「支石墓の源流」より
支石墓の祖形をたどっていけば、フランスのブルターニュ地方に数多く点在するドルメンに発端をみることができる。
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中略
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現在、ドルメンは紀元前4.000年から2,000年にかけて構築されたと考えられ、ヨーロッパで最初の農耕民が建設者とされている。
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中略
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ドルメンは、農耕文化の伝播とともにユーラシア大陸を東へと進む。
インド全域に分布するドルメンは、紀元前1,000年ごろから建設され、インドで鉄器が使用され始めた時期と一致する。
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中略
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中国東北部に分布が知られるドルメンは、ようやく「支石墓」という名前を与えられる。
遼東半島という限定された地域に300基以上確認されている支石墓は、地上に埋葬施設が露出した卓子形(石柵)と、地下に埋葬施設を持つ大石蓋墓の二つの形式に分けられる。
先行するのは卓子形で、最も古いタイブで紀元前二千年紀から見られ、大石蓋墓はこれに追従するように現われるが、卓子形が集団墓の形をとっているのに対し、大石蓋墓は個人葬用のものとして造られている。
卓子形は遼寧省から朝鮮半島北部まで広く分布し、そのため北方式ともいわれている。
一方、大石蓋墓のように地下に埋葬施設を持つが、地上に置いた支石に大きな上石を置く碁盤形は主に韓国に集中して分布することから南方式と呼ばれる。
日本の支石墓に直接影響を与えたのは、この碁盤形である。しかし、朝鮮半島のものに比べ小型であることと、地下の施設が朝鮮半島のものがその多くが石室であることに対し、日本のものは木棺、甕棺、石棺、土壙などと多様な内部主体を持つなど、日本独自の支石墓として発展したことがわかる。
ヨーロッパを出発したドルメンはここ日本が終着駅となったが、それは西北九州から広がることはなく、稲作受容期の短期間で終焉した。
最後の「中国東北部に」以下以外は証明されたものとは言えませんが、それ以下は考古学的定説です。
蔚山人
投稿日:2019年08月24日 20:28
No.2208
【Home】
韓国に住んでいた時に、高敞、和順の2つの支石墓を訪ねたことがあります。特に景色がいい所にある訳でもなく、ある間隔をおいて並んでいて、どこからこの石を運んできたのだろうと不思議に思っていました。石のサイズも大きなものですね。
丘陵の上に石を取れる場所があり、大きな石はそこから滑るような方法で、運ばれたのではないかと説明を受けました。大変な労力をかけて作ってもどれほどの効果があったのでしょうか。日本のものはそれより小型のものが多そうで、作り始めた最初から形も身の丈にあったものであったようで、影響というより独自の取り入れ方であったように思えます。埋葬されている方が縄文人が多いように聞いています。朝鮮からの渡来ではないような気がします。
日本では、甕棺や石槨墓が似合いですね。小学校の頃、曰佐原でこの石槨墓を見学に行きましたが、中が朱に塗られていて、ちょっと異様な感じにショックを受けたことが、私が古代史を勉強しようとするきっかけになりました。
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