日本語の起源 くまら掲示板


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「イラン」の由来に…白鳥の卵から?
荊の紀氏 投稿日:2024年04月04日 18:46 No.987
アーリア人 Aryan(古くはArianとも)の 語源 は、 サンスクリット語 の「アーリヤ (ārya)」とされる 。https://ja.wikipedia.org/wiki/アーリア人#:~:text=英語で借用されたアーリア人 Aryan(古くはArianとも)の 語源 は、 サンスクリット語 の「アーリヤ (ārya)」とされる,。 古代イランの アヴェスター語 には airya があり 、いずれも「高貴な」という意味で、アーリア人が自称した。
前15世紀以降にイラン集団(イラン・アーリア人)が拡大していったと言われる。
その後はテュルク・モンゴル民族の勃興と中央アジア・北部インド・西アジア 支配によりさらに細かい複数の集団に別れそれぞれが次第に独自の文化を形成していった。
現存する近縁の民族としてはパシュトゥーン人、ペルシア人、タジク人、北部インドの諸民族などがあり[1]、彼らはアーリア人の末裔である。
また、広義には現存の彼らを指してアーリア人と呼ぶこともある。
…国名「イラン」の由来に
イランに進出したアーリア人の国は、かつてはペルシャと呼ばれていました。
しかしペルシャは、古代ギリシャ人がアーリア人たちの住む地名から付けた名称に過ぎません。
近世になってペルシャ国民の間で、本来のアーリア人を自称するべきとの動きが広まります。1935年、ペルシャは国名をイランに変更することを決定し、世界各国に通達しました。
1935年、ペルシャは国名をイランに変更することを決定し、世界各国に通達しました。
アーリア人を正しく理解しよう
アーリア人は、かつて中央アジアから各地へ移動し、定着したと考えられている遊牧民族の一部です。
インドやイランに移った彼らは先住民と交わり、現在のインド人・イラン人となりました。
インドに移った人々が、高貴を意味する「アーリア」を名乗ったことから、近世ではその民族全体が特別なのではないかと考えられた時期もあります。
この機会にアーリア人の意味や歴史を正しく理解し、子どもたちにも伝えていきましょう。

アリランは「卵と」という言葉で、卵と共にという意味だ。 https://ja.namu.wiki/w/아리랑
アリラン首を越えていくという言葉は、卵のようにコウン様と共に首を越えていくという意味だ。 (アリランは労働要であった参照)

加耶国の建国神話は、天界から山上に降った卵から始祖が誕生するというものですが、その山の名を亀旨峰(クジボン)と言い、高千穂の「クジフル嶺」と発音が似ています。
謎多き天孫降臨神話
―その神話の源流とは―https://www.kokugakuin.ac.jp/article/99223

天孫降臨伝承の船山…
物部氏の色彩が強いと伝承される岐阜の水無神社と、ご神体山の位山、そして天孫降臨伝承の船山に行ってきました。
物部氏・尾張氏の投影https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2028290.html
物部氏の色彩が強いと伝承される岐阜の水無神社と、ご神体山の位山、そして天孫降臨伝承の船山に行ってきました。
当神社は、終戦直後に約一ヶ月間、草薙の剣の疎開地にもなった重要な神社です。
また、作家島崎藤村のお父さんが宮司を務めていた神社でもあります。
最近出た出雲王家伝承本に寄れば、水無神社の尾張氏を祖とする物部氏は、実際には海幸彦(神武朝)の事を指すとされます。
祖は素戔嗚(徐福。)BC200頃、最初に渡来した時は日本名、ホアカリを名乗ります。
第七代出雲王と、宗像家のタゴリ姫の間に出来た娘、高照姫を娶り、五十猛を設けます。
五十猛は後に大和に行き、カゴヤマと名を変えた後、ムラクモの命の父となり、葛城王朝(神武朝)に繋がります。
イタチ、イタテの地名を各地に残します。
奈良の大兵主神社はヒボコ系ではなく、元々は穴師坐射盾兵主神社といい、五十猛系の神社でした。伊達家もこの系統と言われていますね。
海部氏、尾張氏、安部氏は同族で、事に安倍氏は孝元天皇(クニクル大王)の御子ナガスネヒコ系(=大彦)。
古墳時代には東国に強力な国家を樹立しました。
製鉄文化と関連のある呼称である「犀川」沿いに「大彦終焉の地の伝承がある川柳将軍塚古墳」(長野県長野市篠ノ井石川)があります。
大彦を祭る神社としては、古墳の近くに式内社、「布施神社」があります。近くには皆さんが知っている小布施の地名。
これらから見ても葛城王朝の流れをくむ安倍氏の影響は信州・岐阜地域には大きいと考えられます。
徐福は出雲王家第八代政権下で、現在の出雲大社宮司家の千家の手引きで国譲り事件を起こしますが、政権を取る事が出来ず一時帰国。殷の皇帝により数千の海童を引き連れ、再び渡来しますが、北九州に上陸(吉野ヶ里遺跡)。
殷の皇帝により数千の海童を引き連れ、再び渡来しますが、北九州に上陸(吉野ヶ里遺跡)。
宗像家のイチキシマ姫を娶り、ニギハヤヒを名乗ります。これが我々が通常において物部氏と認識する一族で山幸彦に当たります。
物部氏に寄って作られた先代旧事本紀には、徐福がアメノホアカリニギハヤヒと一見両人として書かれています。
共に天孫降臨伝承を現在に伝え、フル、マナイ、クライ、タカマガハラ等の地名を残しました。
兄の系譜の海幸彦は弟の系譜の山幸彦に敗れ、散り々になっていきます。
また山幸彦も三代で政権は潰え、次の歴史の礎となりました。
かつては乗鞍岳は位山とも呼ばれ、水無神社近辺を開墾した一族が後に拠点を遷した場所とも伝えられ、現在でも位ヶ原の地名が残ります。
海幸彦系の物部氏、五十猛系の物部ゆかりの神社には、長野県辰野町や、新潟県の弥彦神社などがあります。
一方、中興の祖である物部守屋は北九州系の物部氏で、やはり長野県の諏訪神社の神長官家との関係で杖突峠の片倉物部守屋神社に繋がりますが、
島根県には物部神社、奈良には蘇我氏の奥方になったほうの石上神宮、そして物部守屋の長男家の直系の子孫が今もなお宮司家を担う村屋坐弥冨都比売神社などが代表的です。
出雲を滅ぼした物部氏は政権陥落後に出雲王家と和解、東出雲王家の王宮跡である場所を王家に返上を申し出ますが、王家は固辞。良好な関係を築いていきます。
王宮跡は現在は神魂神社になっています。
神魂神社の奥には出雲大神宮があり、禁則地であった天宮山、東出雲王家系の歴代の拝み墓になっていました。
そこには17代出雲王家を示す石が現在でも並べられています。
神魂神社(物部氏)、熊野大社(東出雲王家)、三屋神社(西出雲王家)は出雲大社より数百年古くからある神社です。
神魂神社は諸事情有、延喜式に掲載を自ら拒否した経緯もあり、式内社以前からある古社でありながら式内社扱いになってない特徴のある神社です。
長野県には物部守屋の子孫の伝承が残りますが、岐阜県にも守屋伝説が色濃く残ります。
尾張氏や散出雲の系譜は、飛騨や武蔵国造家となっていきますが、後に物部氏系の国造家に上書きされる事がたびたびあったようです。
・・・・

巨勢氏の部民と考えられる巨勢部は、出雲、播磨、讃岐、阿波、筑前、筑後など西日本の諸国にみられる。
・ 奈良時代には一族から多くの高位・高官をだした。https://www.folklore2017.com/gouzoku/027.htm
…巨勢氏の同族として、「古事記」の孝元天皇段に「許勢小柄宿禰者。
(許勢臣。雀部臣。軽部臣之祖也)」とある雀部臣(後に朝臣)・軽部臣(後に朝臣)、「新撰姓氏録」に載る巨勢ひ田朝臣、巨勢ひ大臣、鵜甘部首の各氏がある。




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