日本語の起源 くまら掲示板


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玉…勾玉…胎児…
荊の紀氏 投稿日:2024年03月25日 20:10 No.943
もっとも古い勾玉は、縄文時代早期のもの。
初期の頃はC型だったものが、やがて今見るあの勾玉の形へと変化して行きます。https://www.oragamati.com/entry/magatama
C型…
玉 ギョク の画像 龍の形 https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=Fmn4cZVs&id=AAB8972C7167E6CA3499C363A30B9C27E95A8829&thid=OIP.Fmn4cZVs4_7G1uJsIo5p8wAAAA&mediaurl=https://i2.kknews.cc/SIG=2u1paq0/5qo0006rp130o2p25o5.jpg&exph=319&expw=425&q=玉 ギョク の画像 龍の形&simid=608000793791244619&FORM=IRPRST&ck=02D85C71AD55147E536EA09BB83FCBCF&selectedIndex=101&itb=0&ajaxhist=0&ajaxserp=0

竜山文化期とは紀元前3000年頃~紀元前2000年頃…
玉器の歴史
玉器は非常に古い歴史を持っています。玉器が作られ始めたのは竜山文化期頃と言われているのですが、竜山文化期とは紀元前3000年頃~紀元前2000年頃のこと。ここからも、いかに古い歴史を持ったものなのかがわかりますね。
玉器が作られ始めたのは竜山文化期頃と言われているのですが、竜山文化期とは紀元前3000年頃~紀元前2000年頃のこと。ここからも、いかに古い歴史を持ったものなのかがわかりますね。
玉器が作られ始めたのは竜山文化期頃と言われているのですが、竜山文化期とは紀元前3000年頃~紀元前2000年頃のこと。ここからも、いかに古い歴史を持ったものなのかがわかりますね。
その歴史においてとても高位な立場にある方の権威のシンボルとしての役割を果たしていて、先述したように祭祀に用いられていました。
デザインとしては、人間だけでなく、竜、鳥、亀、魚、虎、羊、蛙、牛、犬などをかたどったものが多く、この他にも実に様々なものがあります。
祭玉や瑞玉の中でも特に有名なものとして知られているのが、圭(けい)、璋(しょう)、璧(へき)、琮(そう)と呼ばれるものです。
古代の中国人の中では神霊なる力があると信じられていた玉器。
そのため、古代の墓室の中からもたくさんの玉器が見つかっています。
例えば、「劉 勝(りゅう しょう)」という前漢の皇族・諸侯王がいるのですが、この方は玉衣と呼ばれる玉片を編んで作った衣に身を包んだ姿で亡くなっているのが発見されています。
魚型?…

胎児…
その著『胎児の世界―人類の生命記憶―』で、胎児が母親の胎内で十月十日を過ごす間に
「地球47億年の生命の進化の全過程」を身体に刻みこませるように体験していることを紹介され、受胎してから約2ケ月頃(胎芽から胎児へ)の
魚類の形をした胎児をたびたび「勾玉」にたとえられて説明されています。https://www.thd-web.jp/blog/6230/#:~:text=ところで勾玉の形状は一体何を意味しているのでしょうか。 これまで説かれてきた主な説は①獣の牙玉②三日月③胎児④玦状耳飾り等ですが、やはりその形状は③胎児を表わしているのではないかと思います。 この胎児説をはじめて本格的に提唱されたのは、解剖学者の,三木成夫 みきたけお 氏です。 その著『胎児の世界―人類の生命記憶―』で、胎児が母親の胎内で十月十日を過ごす間に「地球47億年の生命の進化の全過程」を身体に刻みこませるように体験していることを紹介され、受胎してから約2ケ月頃(胎芽から胎児へ)の魚類の形をした胎児をたびたび「勾玉」にたとえられて説明されています。

日本語のルーツは9000年前の西遼河流域の黍(キビ)農耕民に!https://note.com/way_finding/n/n8cbcfaae3dfa
トランスユーラシア語族というのは聞きなれない言葉かもしれないが、
トルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国語、そして日本語の共通のルーツにあたると推定される言語のグループである。
…紀元前9000年ごろの西遼のキビ農耕民の姿は、その後の時代の「青銅器時代以降の広範な文化交流によって隠され」たからである。
…キビの栽培の痕跡に注目すると、ちょうど今から9000年前ごろ、現在の中国東北部の西遼盆地ではキビの栽培が始まっていた。
このキビ農耕の文化は5500年前ごろには朝鮮半島に達しており、5000年前ごろにはアムール河流域からロシアの沿海地方にも広まっていた。
4000年前ごろになって、このキビから始まった農耕文化に南方から稲作や小麦の栽培が加わった。
西遼のキビ農耕民の文化と、南方の黄河の小麦や長江の稲作農耕文化とが、遼東半島や山東半島のあたりで出会ったらしい。
青銅器時代前期(今から3300年前ごろ)には、キビ農耕に稲作や小麦をも取り込んだ西遼の複合文化が朝鮮半島まで伝わる。
そして今から3000年前ごろになって朝鮮半島から日本に伝わったのである。
5500年前ごろには朝鮮半島に…

朝鮮半島:櫛目文土器文化のあとには、北方に起源を持つと思われ大規模な農耕を伴う無文土器文化が広まる。https://kyusyu-kodaisi.sub.jp/tyousen/index1.htm
…櫛目文土器時代または櫛文土器時代とは朝鮮の考古学的な時代区分で、BC8000年から1500年の頃に及ぶ。
前期から中期にかけての土器に櫛の歯のようなもので模様がつけられたこと(櫛目文土器)から命名されている。 土器が作られ始めた時代で、朝鮮における新石器時代ともされるが、倭国の縄文時代と同様、農業はまだ小規模で、狩猟や採集が中心であった。
土器が作られ始めた時代で、朝鮮における新石器時代ともされるが、倭国の縄文時代と同様、農業はまだ小規模で、狩猟や採集が中心であった。
櫛目文土器文化のあとには、北方に起源を持つと思われ大規模な農耕を伴う無文土器文化が広まる。
…BC4000年頃に櫛目文土器が出現する。
…文化の起源
櫛目文土器はウラル系民族、とりわけフィン・ウゴル系民族と関連しており、最古のものが
遼河地域の興隆窪文化(BC6200年-BC5400年)の遺跡/で発見されていることから、
遼河文明の担い手であるウラル系民族が朝鮮に櫛目文土器はもたらしたことが考えられる。
よって朝鮮民族の基層はウラル系民族の可能性がある。
ウラル系民族…

ウラル系民族を特徴づける遺伝子はY染色体ハプログループN(厳密にはにN1a)である。
このタイプは極北を中心に広く分布し、ほとんどのウラル系民族で高頻度に観察される。
フィン・ウゴル系民族ではN1a1、サモエード系民族ではN1a2が高頻度である。
ハプログループNは北東アジアから東アジア北部を起源とし[1]、中国遼河文明時代人の人骨からも60%以上の高頻度で観察されている[2]。
またmtDNAハプログループZは極北地域を中心に
サーミ人、フィン人(スオミ人)、イングリア人、カレリア人、シベリア、北東アジア、中央アジア、朝鮮、日本などで観察されており[3]、
Y染色体ハプログループNと同じような流れが想定され、ウラル系民族の拡散との関連を示唆するものと考えられる。
…日本の日本海側や東北地方に観察される中舌母音の[ɨ](いわゆるズーズー弁)についてもウラル語族の音声特徴に由来する可能性がある[8]。

紀元前6500年から紀元前2700年…
遼河文明、龍と玉の起源 https://tokyox.sakura.ne.jp/wordpress/遼河文明/
遼河地域における紀元前6500年から紀元前2700年にかけての遺跡の古人骨のY染色体ハプログループ分析では、
ウラル系諸族やヤクート人で高頻度に観察されるハプログループNが約70%の高頻度で認められた。
遼河文明を担った集団はウラル語族やヤクート族と近縁であった可能性も考えられる。
ハプログループNが約70%…

約3~4万年前に中国広東省付近(南東部)で誕生…
ハプログループN9bが多数を占めている…
北海道や富山県の小竹貝塚から出土した縄文人骨を解析すると、ハプログループN9bが多数を占めていることがわかりました。https://u-gene.jp/column/haplogroup-n9/
…ハプログループNの子系統であるハプログループN9は、約3~4万年前に中国広東省付近(南東部)で誕生しました。
インドネシア、フィリピン、中国中央部、朝鮮半島を移動し日本へ入ってきたと考えられています。
N9はさらにN9a、N9b、Yといった下位グループに派生し、オホーツク海周辺から東南アジアまで広がっています。
しかし全体で見るとあまり広い分布は見られず、比較的行動範囲の狭いグループです。
…中国南部発祥のハプログループN9はアイヌや台湾先住民の祖先
台湾先住民の祖先…

(台湾)が金馬地区…
>福建省(ふっけんしょう、中国語: 福建省、拼音: Fújiàn Shěng、英語: Fujian Province)は、
>中国の省の一つで、大部分を中華人民共和国が統治し、一部の島嶼を
>中華民国(台湾)が金馬地区として統治している 。https://ja.wikipedia.org/wiki/福建省

台湾原住民族について https://keynoters.co.jp/taiwaniseaborigine/

5000年前…
南から見た縄文」シリーズ第五弾です. 今回は、沖縄からやや南下して、台湾について扱ってみたいと思います。
「南から見た縄文」5~台湾に残る本源性のルーツとは http://web.joumon.jp.net/blog/2011/04/1244.html
5000年前を境に、中国華南から台湾全域に興隆していた大フン坑文化が途切れ、新たな文化が次々に登場しています。
5000年前といえば、ちょうどオースロトネシア語族の拡散の時期(参考:太平洋に広がる大語族、オーストロネシア語族!!)と一致しており、
稲作の伝来もこのころであったことから、おそらく中国における略奪闘争の拡大によって押し出される形で
(福建のあたりの)民族が断続的に台湾にやってきたことを示唆しているものと思われます。
福建のあたりの民族…

縄文時代、五色人たちが世界に旅立ち、 世界各国の先住民となりました。
縄文時代、日本人は世界に旅立ち、世界各国の先住民となったそうです。 https://ameblo.jp/nokoarikon/entry-12845740793.html

玉衣とは https://kusanomido.com/study/history/chinese/75868/
日本にも死装束というものがあるが、昔の中国にも死者の着る衣類が存在した。
皇帝の遺体には金縷玉衣(きんるぎょくい)という全身鎧のような葬服を着せられ、
玉の霊力によって肉体を永遠に保たせようという願いが込められていた。
(玉石を使うと1000年は腐敗しないと信じられていた)

古代中国 翡翠 玉の画像 https://www.bing.com/images/search?q=古代中国 翡翠 玉&qpvt=古代中国 翡翠  玉衣&form=IGRE&first=1

翡翠勾玉の画像 https://www.bing.com/search?q=翡翠  勾玉 の 画像&qs=n&form=QBRE&sp=-1&ghc=1&lq=0&pq=翡翠  勾玉 の 画像&sc=11-11&sk=&cvid=7464744B749640D0A261ACCE92489F37&ghsh=0&ghacc=0&ghpl=

古代中国では「穴が開いた曲がった玉」と記録されているだけです。 https://www.oragamati.com/entry/magatama
勾玉の歴史はとても古く、古いがゆえによくわかっていません。

古墳時代頃を境にぱったりと姿を消してしまう宝石でもあります。https://www.oragamati.com/entry/magatama
…奈良時代からもいくつか発見されていますが、これらは全て古墳時代以前から伝わっているもので、奈良時代に作られたものではありません。
古墳時代頃を境にぱったりと…

「空白の4世紀」の古墳. そもそも発見があった富雄丸山古墳とは、どんな古墳なのでしょうか。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230302/k10013995971000.html

古墳時代の前期になると、緑の碧玉を使った勾玉も増えてきた。 https://www.kokugakuin.ac.jp/article/151018
翡翠の代用品と考えられる。 さらに軟質の滑石で勾玉の形を模した祭具も現れたという。 …
…深澤氏は「縄文後期には勾玉に近い牙の形をした翡翠の加工品が作製され、
やはり穴を開けてペンダントのように使った形跡がある」とのこと。
そうして、弥生時代には勾玉が出てきたという。

5世紀以降、変わった勾玉も出てきた…
赤や透明の勾玉も流行背景に社会と価値観の変化
 5世紀には、赤いメノウや透明の水晶による勾玉も好まれるようになった。
その変化の背景について、「当時は、倭国と朝鮮半島の交流が活発化した時期。
金属製品など、新しい文化・技術が入る中で、日本人の色彩感覚が変化したのかもしれません。
帯金具(おびかなぐ)のほか金製品や鍍金(メッキ)された品物が増え、それに合う色の勾玉を好んだ可能性もあります」と
推察するのは、國學院大學 神道文化学部の笹生衛教授(國學院大學博物館長)だ。
 一方で、勾玉の普及とともに、原料となる石の産地も存在感を増した。
例えば出雲地方。
島根県松江市の花仙山は碧玉やメノウの採掘地であり、採掘の跡や勾玉の工房跡が多数見つかっている。
近隣の玉作湯神社は、この場所がかつて勾玉作りで栄えた歴史を偲ばせる。
さらに5世紀以降、変わった勾玉も出てきた。
「子持勾玉」と呼ばれるそれは、勾玉の表面に、小さな突起物を加えたもの。
奈良県桜井市の三輪山と周辺の祭祀遺跡からも数多く出土している。
三輪山は、当時のヤマト王権が深く信仰した神の鎮まる場所。
その地で異形の勾玉が作られたのだった。
7世紀以降…
 しかし勾玉は、7世紀以降に消えていく。
笹生氏は「人々の価値観の変化、あるいは身分を冠の色で示す冠位十二階の制度などが生まれ、
権威を示す装身具としての意味を失ったのかもしれません」と考える。

陰陽道の起源は古代中国にあった「陰陽思想」と「五行思想」にある  https://liberal-arts-guide.com/onmyodo/
中国における陰陽五行思想の成立は紀元前3世紀頃と考えられている 日本への伝播は西暦6世紀頃と推測される
…陰陽道とは古代中国で成立した陰陽五行説を基盤とした天文道・占術を指します。

太極図の勾玉のような形。https://kokoro-namida.com/2020/09/11/taikyokuzu/#:~:text=太極図の勾玉のような形。,黒は陰を表し「下降する気」、白は陽を表し「上昇する気」を表しています。 勾玉が2つ重なったようになっていることで、陰の気(黒)が極まると陽に転じ、陽の気(白)が極まると陰に転じるという関係性が表現されています。
黒は陰を表し「下降する気」、白は陽を表し「上昇する気」を表しています。
勾玉が2つ重なったようになっていることで、
陰の気(黒)が極まると陽に転じ、陽の気(白)が極まると陰に転じるという関係性が表現されています。

縄文時代には、勾玉の原型と思われるヒスイ製の大珠が出土している。
勾玉は縄文時代からあった https://ta-ichikawa.com/?p=4097
勾玉は翡翠(ヒスイ)を磨いて作られており、かつてはヒスイの原石は日本で採れないと思われていました。
朝鮮南部でも勾玉が出土するので、ヒスイ製の勾玉は弥生時代に渡来人が日本に持ち込んだ、と考えられていました。
未開の縄文人がこのような宝飾品を作れるわけがないという思い込みもあって、誰も勾玉が日本オリジナルの製品だとは考えていなかったのです。
昭和10年代に、富山県の糸魚川で今でもヒスイの原石が採れることがわかり、
ヒスイ製の勾玉は弥生時代に日本で作られるようになった、と考えられるようになりました。
私も学校でこのように教わりました。
ところが最近になって縄文時代の遺跡が次々に発掘され、ヒスイ製の宝飾品がでてきました。
5500年前の三内丸山遺跡からは勾玉の原型と思われるヒスイ製の大珠が出土しています
5500年前…

なぜ「中国5000年の歴史」と言えるのか?―「最古の国の痕跡」発見した学者が解説 https://www.recordchina.co.jp/b887224-s41-c30-d0198.html
…ごく少数の墓だけから玉(ぎょく)製の副葬品が発見された。
玉原石の産地は特定されていないが、採掘や加工について分業が成立しており、完成品は最高権力者だけが手にすることができた。
つまり階級社会が成立し、権力者だけが貴重品を手にすることができた。
これらから、5000年前に「国」としての組織がすでに成立していたと考えられる。
何をもって「古代文明が成立した」と見なせばよいのか
中国において、考古学により実在が確認された最も古い国は、河南省などを勢力圏とした殷だった。
そのため長年にわたって、約3500年前の殷の登場をもって中国文明が成立したと見なされていた。
中国文明の発生を約3500年前と見なすのには、別の理由もあった。
西洋の学界では長く、文字・都市・冶金技術の「3点セット」をもって、文明成立の条件とする考え方があった。
エジプト文明やメソポタミア文明はたしかに、この条件を満たしている。
一方の「良渚遺跡」では、青銅器など金属器が使われたことは確認されていない。
遺跡から「簡単な記号」は発見されたが、文字と認定するには無理がある。
そのため、文明の成立と見なせるかどうかについては議論があった。




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