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ヒッタイト…インド・ヨーロッパ語族…雄牛の姿?
荊の紀氏 投稿日:2024年04月25日 01:16 No.1064
…ケルト神話について-10 クーリーの牛争い(前編)https://mountain-fox.net/celt10/
の2頭はただの牛ではなく、もともとは別々の妖精の王に仕える人間でした。
ふたりは敵同士で、さまざまな姿に姿をかえて(転生)戦いを続けたとあります。
そういった転生を経て、牛になり、戦いを続けることになります。

…なんとなく、このあたりはインド神話にも似ているような気がします。

ヒッタイト, スキタイ, 匈奴 https://oyakutachitai.taketake2.com/h89.html
スキタイは黒海北部一帯に居住しており、南ロシア一帯に勢力を広げた民族で、世界初の騎馬遊牧民族とされています。
ヒッタイトから鉄の技術を取り入れたとされていますが、時代的に両者は交わっていない為、
ヒッタイトが滅びた後にも広く伝搬していた鉄の技術がスキタイにも伝わったのだと思われます。
なおヘロドトスの著書「歴史」にもスキタイ人が登場しており、残忍な性格だったと記述されています
(例えば倒した敵の皮をはいで上着にしたり、頭の皮を飾ってどれくらい敵を倒したかを誇るなど)

ケルト人と謎の古代人スキタイhttps://note.com/yoshito0103/n/nf51eaa192ea5
ケルト人はキムリス人とガリア人の二派に分類されました。
ドルイド階層がいかしにて形成されたかの議論は諸説ありますが、19世紀のガリア史家アメデ・ティエリによれば、この
キムリス人がケルト人の中での祭司階層、ドルイドとその宗教観をもたらしたとしています。
近年の発掘調査では、前7世紀頃のいわゆるハルシュタット後期のケルト人の原型をなす人々の社会で、階層分化したとみられる証拠があり、
戦士階層や政治階層などの機能的分化のなかで、ドルイドが階層として誕生したとする考え方があるようです。
そこには外部からの影響があり、通説ではその最大のものはギリシャ哲学のピュタゴラス派とされています。
ピュタゴラスは前6世紀の数学者として有名ですが、哲学、自然科学、音楽など様々な学問を弟子に教え、しかもその口外を禁じております。
学派というよりもむしろ教団的性格をもつ集団として有名ですね。
文献としての初出は、前3世紀末の『賢者(マギコス)』においてであり、ギリシャ哲学の源流として、東方
カルディアのマギ、インドのジムノソフィスト(裸の賢者)と共に取り上げられています。
私は、どちらかというと、ギリシャ哲学の淵源そのものを「マギ」に辿ることができると考えており、また仮に、
キンメリア人が一部ドルイド階層を形成していたとしても、最上位のマギは東方カルデアのマギであったであろうと思います。

…ドルイド(Druid)は、後半部(vid)が「見る」「知る」という語根であり、ドイツ語の「知る」(wissen)、ラテン語「見る」videreから、知恵者という意味となるそうです。
古代インドの聖典のヴェーダ(veda)もこれに由来するとされています。
インド…

インドと牛 https://world-note.com/india-and-cow/

スサノヲは牛族の神、ギリシャ人も牛族(ウル系)だった。http://www.kingchin.jp/12_J.html
ミケナイのミノタウロスは龍と戦う牛の神。乙女を怪物から救い、結婚する英雄である。
…牡牛神ハルは、エジプトでは「ホル」、その妻は「ハト・ホル」であった。
…シュメール起源の「ハル」と「キ」の二神を伯耆(ほぅき)と日本では言っていた。実は、伯耆(ほぅき)国と言えば、今の鳥取県の西部の旧称である。
また、伯州とも言っていた。イザナミノミコトが亡くなられて、出雲国と伯耆国との境にある比婆(ひば)の山に葬(はぶ)られたことが古事記に書かれている。
古代出雲国のとなりが伯耆(ほぅき)国で、そこは、はやい話、出雲文化圏である。では、なぜ伯耆(ほぅき)国と呼ばれていたのか?
そこでは、すなわち「ハル」と「キ」の二神の神をあがめていた。そこでこの地名に残ったと考えられる。
この伯耆(ほぅき)国では、首長信仰と して殷王朝以来の牡牛と蛇の合体神を崇めていた。
そこで、出雲神話からは牡牛神と蛇神の陰影を消すことができないわけである。倭人は周の太伯の子孫であると伝えられ、魏志では、
倭国からの使いは自ら大夫(たいふ)と名乗っていたと記されているが、大夫(たいふ)とは周王朝時代の官位の一つであった。
周王朝では、「ハル」と「キ」は「伯萁」(ほうき)と書いていた。つまり、伯耆(ほぅき)国の住人は周王朝の氏族で、周を起こした「姫」(き)氏の血を引く人々であった。
周(前1100-256)が分裂したあと、加耶を経由して日本にやってきた。紀氏の祖である。
または、さらにさかのぼった*殷(いん)の末裔、姜(きょう)の一族とも考えられる。地域的には後の斉、山東省あたり。
「伯」の子孫とは、別な意味で「ハル」の子孫、つまり牡牛神「ハル」の後の一族ということになる。
スサノヲの元型は「ハル」なのだろう。伯耆(ほうき)とは、「ひょうたん」ということで、伯耆(ほうき)国は、「ひょうたんこく」という意味で、これは笑える。
また、語彙の出典は、中国の伝説「伏羲(ふっき)と女媧(じょか)の伝説で、主に中国西南のミャオ族、ヤオ族の始祖神話として残されている。その姿は人首蛇身で、腰から下は蛇で尾をからませた独特の構図をとっている。
その姿は人首蛇身で、腰から下は蛇で尾をからませた独特の構図をとっている。
 牛頭天皇はペルシャ人…

ペルシャ語 、 ファールシー語 、 パールシー語 ( پارسی‌ )ともいう。https://ja.wikipedia.org/wiki/ペルシア語#:~:text=ペルシャ語 、 ファールシー語 、 パールシー語 ( پارسی‌ )ともいう。,言語学 的には インド・ヨーロッパ語族 - インド・イラン語派 - イラン語群 に分類される。
言語学 的には インド・ヨーロッパ語族 - インド・イラン語派 - イラン語群 に分類される。

ヒッタイトはインド・ヨーロッパ語族に属する言語を話し、紀元前18世紀からアナトリア北部のハットゥシャを中心とする王国を作った古代の人々である。
紀元前14世紀にヒッタイト王国はその最盛期を迎え、アナトリア中央部、シリア南西部、そして遠くはウガリット、メソポタミア北部までを包含した。
紀元前1180年以降、海の民が突如として侵入した事に関係したレバントにおける全般的な動乱の中で、ヒッタイト王国は崩壊していくつかの独立した
「シロ・ヒッタイト国家群(英語版)」と呼ばれる都市国家群となり、それらの内のいくつかは紀元前8世紀頃まで存続した。
ヒッタイト文明の歴史は、その多くがヒッタイト王国の領域から見つかった楔形文字の古文書、および
エジプトや中東に残る数多くの古文書の中から見つかった外交・商業関係の文書により分かったものである。
ハッティ人とヒッタイト人https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒッタイトの歴史
紀元前5000年ごろから紀元前2000年以前の中央アナトリアにおいて、ハッティ人が最も有力な居住者で、他にアッシリア人の入植地もあった。
ハッティ人は、インド・ヨーロッパ語族には属さないハッティ語を話し、ヒッタイト人とは別の文化を持っていた。

ハッティ人の宗教は、石器時代まで遡る。
それは地母神として神格化された大地への信仰に関わるものであり、ハッティ人たちは地母神を讃えることで、収穫の豊穣と、自分たちの安寧を願った[8]。ハッティ人の万神殿には、嵐の神タル(Taru:雄牛の姿をしている)、太陽神フルセム (Furušemu) ないしウルセム(Wurunšemu:豹の姿をしている)をはじめ、他の様々な要素を神格化した神々がいた。チャタル・ヒュユクに残されたレリーフには、女性が雄牛を生む図があるが、これはすなわち地母神カタハ (Kattahha) ないしハンナハンナ (Hannahanna) が、嵐の神タルの母親であることを表している。
ハッティ人の万神殿には、嵐の神タル(Taru:雄牛の姿をしている)、太陽神フルセム (Furušemu) ないしウルセム(Wurunšemu:豹の姿をしている)をはじめ、
他の様々な要素を神格化した神々がいた。
チャタル・ヒュユクに残されたレリーフには、女性が雄牛を生む図があるが、これはすなわち
地母神カタハ (Kattahha) ないしハンナハンナ (Hannahanna) が、嵐の神タルの母親であることを表している。
嵐の神タル…アンカラのアナトリア文明博物館が所蔵する牛の姿で表現された嵐の神https://ja.wikipedia.org/wiki/ハッティ人#/media/ファイル:Ankara_Muzeum_B20-08.jpg

>バール :嵐と慈雨の神

アッシュル (神)https://ja.wikipedia.org/wiki/アッシュル_(神)
…古代メソポタミアのアッシリアで崇拝された神。
アッシリアのパンテオンにおいて最上位を占め、アッシリア王に王権を付与する神として位置づけられていた。
アッシリアがバビロニアを征服した後には政策的にバビロニアの上位の神々(エンリルやマルドゥク)と融合・同一視された[1]。

アッシリア(紀元前2千年紀初頭〜紀元前612)
・アッシリアは紀元前2千年紀初頭に、セム系のアッシリア人が都アッシュールを中心に北メソポタミアに建国したのがはじまり。
・一時紀元前15世紀にはミタンニに服属したが、その後独立をはたす。
・紀元前8世紀末には、首都がアッシュールからニネヴェに移る。
  その後、アッシュール=バニパル王(在位紀元前668〜紀元前627)の時代に、大図書館が建設される。
・アッシリアの軍隊は、鉄製の武器や戦車、騎馬隊などを有し、紀元前7世紀前半にはエジプトを支配下におき、全オリエントの主要部分を初めて統一した。
鉄製の武器を歴史上はじめて使用したのは、中央アナトリアのヒッタイト。
・アッシリアは、専制君主たる王が頂点に君臨し、支配地域を州に分け、総督を派遣して支配させた。
・史上初の世界帝国であったが、被征服民に対する強制移住や重税など過酷な支配だったため、さまざまな民族が内部で反抗を繰り返し、帝国が内部から弱体化した。
・最終的に、紀元前612年、新バビロニア(カルデア)とメディアによって滅ぼされた。

アッシュルが生命の木の上に浮かんでいることを示すアッシュルナツィルパル王の玉座のレリーフ。https://hmn.wiki/ja/Ashur_(god)
生命の木…

ドルイドにとってオークの木は神木です。https://keruburo.com/druid
オークの木から落ちた実は豚が食べて、その豚を人間が食べる、また実を粉にしてパンを焼いて食べていました。
なのでオークの木が全ての生命源として、崇められていました。
…ドルイドの宗教
ドルイドは祭司でもあるので宗教儀式を行っていました。彼らは神々と人間の仲介者として様々な神託を伝えていたようです。
ケルト人の教義では霊魂は不滅の存在であり、死んでもまた別の肉体に宿るといわれていました。つまり「輪廻転生」です。
人身御供(生け贄)の儀式も行っていたようですが、裏づけとなる考古学的根拠が弱く詳しくは分かっていません。
ただ、争いの調停などを行っていたので犯罪者などを裁く過程でなんらかの儀式が行われていたのかもしれませんね。
ドルイド…

ドルイド教は、悪魔崇拝の始まりであり、イルミナティの始まりでもあります。https://note.com/rarmenbar1985/n/nbbf92c13d7f6
つまり イエス・キリスト を十字架に貼り付け殺したのは、イルミナティなのです。




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