雑銭掲示板Ⅱ


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TICCで文銭銀メッキ絵銭
ゆう 投稿日:2024年04月27日 21:27 No.1137
TICCで文銭銀メッキ絵銭を手に入れました
今も何処かで手に入るならお手頃でオススメな感じかと

他に北宋銭の100枚通しを5つ買いました。元祐通宝の篆書体が74枚も出てきて真書体も同じくらいでてきました。ホルダーのは30年前に店で買った奴ですがみた感じ寛永に近いので日本で作られた写しに見えますし1086年に作られてそのまま江戸時代まで残ってるとは思えません。寛永の安南銭みたいな派生でしょうが、渡来銭は日本貨幣カタログに白黒で掲載もあって書体のみで明確な基準もなさそうです。
当時の穴銭流通してるところでそれぞれ字体だけ使われ作られてそうです。


浩泉丸 投稿日:2024年04月27日 23:18 No.1138 【Home】
50歳以上の方は上棟式のときにお金がまかれた記憶ありませんか?私の郷里ではお金や餅、菓子などをよく撒いていました。近所の人々総出の大騒ぎ。鍍銀銭の多くはそんなときのために作られた撒銭だと言います。節分祭のとき芸能人が神社に来て豆に混じえて撒銭をやったことがあり、境内に人が入れないほどの大騒ぎになりました。玉砂利の隙間に紛れ込んだ小銭を小中学生が懐中電灯で深夜まで探しまくったもんだからPTAが大激怒。それが原因で上棟式で銭をまくのは学校・町会の通達で禁止されてしまいました。(葬列で米や銭を撒く地域も近隣にはあります。)

北宋銭は符合泉志や古泉大全などに分類がされています。江戸時代には大流行しました。ですからちゃんと分類基準もありますけど良い文献に当たらないと初心者には難しいかも。私は穴の細道で興味を持って中学生時代は北宋銭を結構集めてました。大観とか宣和とか見栄えの良いものから入る方が楽しいと思います。広穿の宣和なんか見事なペアですよね。

日本は皇朝銭以降、江戸期まで国産公式通貨を作っていなかったので渡来銭は大量に輸入されています。江戸時代初期までは流通貨だったのでかなり残っていたのは間違いないです。ただし、寛永通寶出現以降、幕府は渡来銭の流通を禁じたので、残っていた古銭は原料としてほとんど鋳つぶされてしまったと思います。
鉄銭全盛の明和の時代に寛永通寶銅銭が鋳造されたことがありました。亀戸と長崎です。そのとき材料として使用されたのが回収されていた渡来銭だったんじゃなかったかしら。うろ覚えです。寛永通寶は元文以降は鉄が主流でした。江戸末期の100年あまりは銅一文銭は公式には鋳造されていなかったと思います。昔の銅銭はものすごく流通期間が長かった。寛永通寶は江戸時代以降、明治期も通用していたので300年位は使われていたんですよ。貨幣として通用が停止されたのが1953年。昭和初期まで地方でも通用したとかしないとか。ちなみに開元通寶はつくられたのが西暦621年ですから1400年も前の骨董品なんです。こんなすごいものが100円ぐらいで買えちゃうんですよ。すごくないですか。

思い出話をもう一つ・・・子供時代、庭をほじくり返していたら青錆びまみれの古銭が2枚出てきました。紹聖元寶の篆書でした。近所の家の工事現場からは鉄4文銭がうじゃうじゃ見つかった。毎日通って拾ったもんです。今でも少し持ってますがただの錆の塊です。貝塚も学校近くにあって土器を拾いに行きましたね。今でもこれは持ってます。


笑門泉 投稿日:2024年04月28日 10:55 No.1139
私も子供の頃、近くの貝塚に土器片を拾いに行ってました。自転車漕ぐのも苦にならないぐらいワクワクして、きっとあの頃は目が輝いていたと思います。それが今では白内障ですから、年月の流れは残酷です。
その貝塚の出土物の一部は毛利コレクションと呼ばれる考古資料となっていて、さらには東北大学に移管されたり重要文化財になった物もあるようです。

毛利コレクションには石巻鋳銭場関係の資料もあって、その中の天保通寳が反玉寳であったことが当初反玉寳が石巻鋳とされた経緯だったと思いますが、以前に見学した時は寛永通宝と仙台通宝の母銭だけで天保銭の展示はありませんでした。




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