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全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8412 )
日時: 2013年08月16日 09:15
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコン昨年から今年にかけて彼女との結婚をすべて自分の手で終わらせました、彼女は日本語は全く理解せず、英語のみの会話でした、また彼女は初婚ではありましたが息子7歳がいます。この子供、彼女両方一緒に日本に呼ぶことにしました。以下はその顛末です、これから結婚なさる方の参考になると願いスレをたてました。

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Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8413 )
日時: 2013年08月16日 09:35
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコンまず、概略を書いておきます、旅行(夜遊びではない)で行ったレイテ島のジャングルで知り合ったのは約3年前です(仕事、プライベートでフィリピンは20回以上訪れています)。道が終わって2時間程ジャングルを歩いた山中で野宿している時に知り合いました(ジャングルは危険です、ゲリラとか山賊とか)その後彼女はネットのできる村で暮らすようになりましたが最初のうちは結婚など思いもしなかったのですが付き合っているうちにお互い結婚を望むようになり現在に至ります。2012年12月に渡比し日本大使館にて婚姻具備証明を取りました(2日)その足でタクロバンから2時間かけてレイテ地方役場に婚姻許可証の申請、セミナーの申し込みをして1週間待ち、許可が出たその日にシビルウエデイング、翌日披露パーテイ。そして帰国、NSOに書類が反映されるまで1ヶ月、パスポート取得に1ヶ月ようやく3月に在留資格申請、きっかり1ヶ月後の交付。次は送った書類をビザ申請のため代理機関へ彼女が持ち込み申請、これはきっかり4週間後にビザがおりました。以上概略です。

Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8414 )
日時: 2013年08月17日 08:14
名前: Cavite [ 返信 ]
参照: http://philippin.net/
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アイコン当掲示板の管理人を致してCaviteと申します。
貴重なアドバイスを掲載頂きありがとう御座います。

道が終わって2時間ほどジャングルを歩き野宿と謂うのはすごいですね、人が行う追いはぎレベルや物乞いとは別に、怖いのはデング熱感染とマラリア対策でしょうか? 

フィリピン駐在時代に感染経験したのが デング熱2回感染(高熱型) A型肝炎ウイルス1回(重症感染でGOT4000近くありましたが、意識はありました) 狂犬病感染1回(合わせて5回注射) 重症蜂窩炎1回(治療が遅れると足の切断) 人以外の見えぬ敵との戦いは野宿や山中民泊には必ずつき物で、共産ゲリラより張るかに怖かったですね。

しかし良い出会いがあれば苦労の末、他の日本人で経験のない素晴らしい結婚があるわけで、自身で掴みきったと謂う感じで読ませて頂きました。

特にマラリアはパラワン本島南西部一帯に多く感染すると年単位でダメージを受ける事からエリアに入る時は要確認して向かっていた者です。

レイテ島には2州しかないのでレイテ州か州都マーシンのある南レイテ州のどちらかだと思いますが、太平洋岸側の地区、そしてギマラス島を除くオルモック~バイバイ~マーシン側の各々でも治安は異なり、嘗てはNPAが暴れた頃は破壊活動が著しく大変でしたが、今日はかなり沈静化が進んだ様に見受けられます。

暖かい国の野宿は寒くないので簡単そうに思われますが、よほど慣れた日本人でないとその厳しさは見えないと思います、

フィリピン人との結婚に関して謂えば、当人同士が約束すれば結婚出来るではなく、あくまでもフィリピン人側が持ち出す正しい出生証明書が存在しているかの一点だけではないでしょうか、名や姓がおかしかったり、前後証明書上で繋がりが取れない、ここに婚姻暦があったりすればかなり厄介ですし、要するに合致しない証明書のままでは日本国側が審査時に遮断するのであって、如何当人同士が固く約束をされようと婚姻は難しいと謂う事に尽きると思います。

「クリーンな証明書」が前提であれば遅かれ、早かれ、結婚作業は自分たちでもでき、難しくはありません、様は再婚フィリピン人や再々婚、および偽造等を用いているフィリピン人との結婚には無理がでると謂う事ではないでしょうか。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8418 )
日時: 2013年08月18日 10:52
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコンCavite様
ありがとうございます。文面からカビテさん、かなり深い旅をなsっておられるようですね、やはり旅は見物ではなくその国を深く知る旅の方が私には有意義に感じます、だからそれが何になるの?と問われても困りますが(笑)彼女の村は身内で構成された10件ほどの集落で、オルモックとタクロバンの中間リモン集落からさらに北へ1時間ほど走った道の終点から徒歩で入るジャングルの中にあります、カビテさんの言われますとうり、旅にはいろんな意味で危険がつきまといますね、ですから私のような旅はすべてが自己責任です。前回含め3回ほどジャングル野宿を繰り返していますが、当時デングの新種が出たとのことで現地のニュースでも盛んに注意を喚起していました。ですからジャングルでは好きなお酒も飲まず(蚊がよるので)蚊には必要以上に神経を使いました。
その前のジャングルは10日間ずつ2回に分けてネグロスのジャングルでした、なぜジャングルかと申しますと2つの目的がありました、1つめはさつま鶏の野生種を探すことでした。旧薩摩藩主が頻繁にフィリピンに蜜出入国していたことから、きっとこの国にいるに違いないと思い、3回目にして幸運にもレイテ島のジャングルに発見できました。
2つ目の目的は旧日本軍が食料、弾薬もなく悲惨な敗走を続けたジャングルをホンの少しでも経験したかったからでした。
私がくる少し前に彼女のとなりの集落の小学生の女の子がシンジケートの末端に襲われ殺害、内蔵が持ち去られたということでした、わかりにくい英語を話す村人の話を総合すると、このような事件は割と頻繁にあって盗られた内蔵はシンジケートのルートで闇移植されるとか、その中には金持ちの日本人も入っているのでしょうか、悲しいです。
私はよくヨットで航海に出ますが、大時化や、恐怖心といったものは経験や知識で意外となんとかなるものですが、やはり私は大時化より何よりも人間が怖いです。
 さて話は題目からそれましたが、このあと板をお借りして細かく書きますがよろしいでしょうか?カビテさんの許可を求めます。
 今回私は一貫して手続きが合法的であり、各書類の内容に矛盾が生じないことに最重点を置いて手続きを進めてまいりました、細かくはカビテ様の許可があり次第書いていきます。
 また、2月現在機械の不具合か、ヒューマンシステムの不具合かわかりませんが、パスポートの取得にエクスプレスでおよそ1ヶ月かかってしまいました、この顛末も順を追って書きたいと思います。
PS:前回婚姻許可が1週間と書きましたがタイプミスで、10日間の誤りです、今後読まれた方でおかしい点がありましたらご指摘いただければ幸いです。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8419 )
日時: 2013年08月19日 07:16
名前: Cavite [ 返信 ]
参照: http://philippin.net/
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アイコン今年の2月頃ですが、おっしゃるようにパスポート作成する器機故障とかで一時混乱が続き確かに送れていましたね。

それからフィリピンでの噂は取るに足らない噂と感じる事も多々あるのですが、そう排除もできません、ミンダナオ本島内北部北アグサン州の州都ブトゥアン市内を流れるアグサン川では以前から泳ぐ人が不明となる事で噂が耐えません、大きなクロコダイルがいて食われるとの噂、そのミンダナオ一大きな河川を跨ぐブトゥアン国道バイパス工事が開始され、日本のODAで巨大なな斜張橋工事のとき、幾度か工事の撮影に行きましたが、川を見てはでまかせな噂と思いきや、数年後に上流のブナワンで全長8mもの巨大ワニが生け取りにされた為に、その噂が現実であったことが後に判明したのですが、

臓器売り買い目的の為に人を襲い殺害すると謂う噂もまんざらではない感じがいたします。 確かに都市部でなく少ない山中集落で早朝不可解な死にかたをしていたと謂う集落の噂は耐えません、裏になりふり構わず行われる殺害の目的に臓器目的と謂うのがあるなら妙に合致しますね。
特にサマル・レイテは台風銀座で年間の半分以上はマトモナ作業ができない地方、生活苦の為に襲うのもあり得ると感じました。

フィリピンでの貴重な体験は勉強になります、是非参考にしますので掲載頂ければと思います。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8420 )
日時: 2013年08月20日 08:41
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコンそれでは、結婚手続きの全てを主観を含めず、事実のみを書いていきます。
 私は死別、再婚になるので日本の市役所に赴き係りの方に私が現在独身であり、先妻は死亡し既に籍が抜かれている内容の証明を出してくださいと告げ、戸籍謄本、除籍謄本を出してもらいました。
夜間マニラに到着し、あらかじめホテルに呼び寄せておいた妻とともに婚姻具備証明書を申請すべくパサイにある日本大使館に行きました、そこには我々の他には2組のカップルがいました、ほかの来館者はフィリピン在住の方とお見受けいたしました。申請そのものは書類のチェックと説明のみで極めて事務的に行われました(逆に言えば、書類が整っていれば役所側は受付の義務がある)。
書類発行はたしか翌日だったと思います。
大使館を出たところで日付入りカメラで大使館をバックに撮影(館内は撮影禁止なので)。私はこのあとも各アクションごとにカメラに記録を残しました、これは後で在留許可を申請するにあたり、結婚がフィリピンの家族法にのっとり合法的に行われた参考資料として活躍してくれました、交付された書類もコピーのみならず写真にも記録を残しました。
 さて次は役場(役人が仕事をする場所という意味で)に出向き婚姻許可の申請をするわけですが、時間がなくなりましたので次回書きます。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8421 )
日時: 2013年08月21日 07:12
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコン彼女の出生届はレイテ州レイテという銀行もない小さな村の役場ですが婚姻許可申請はとなりのタクロバン市でできるといいはり、私は出生届けを受理した役場でないとダメだと言い争いになりましたがどうせタクロバンに宿泊してるので私はホテルに残り彼女に市役所まで聞きに行かせました、電話では日本のように正確な回答が得られないので直接行くに限ります(私は事前にメールで問い合わせしており結果は知っていた)。私の理解しているとおりやはりレイテ村まで行くことになりました、片道2、3時間です。婚姻具備証明書、パスポートを添えて申請、何しろ役人は規則どうりタイプうちするものですから申請に夕方までかかってしまいました。しかし彼らは親切で一生懸命やってくれました、田舎は良いですね、ずいぶん前ビザ延長をタクロバンでした時も役人はとても親切でした。、、、、で、なんというのか知りませんが某と某が結婚許可申請を出しました云々という紙を無理を言って急いで作ってもらい張り出してもらったところを記録写真、他の書類も写真とコピー。
これで申請が終わりあとはセミナーの申請、都合よく10日後婚姻許可が交付される日セミナーがあるとのことでその日を予約して1泊600Pのタクロバンの宿へジープニイ、バンタクシー、バスト乗り継い疲れ果てて帰りました。続きはまた書きます。
 追記:婚姻許可の公示期間は土日、祝日を含んで10日間だそうですほかの役場はどうなのかわかりません要問い合わせです。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8425 )
日時: 2013年08月22日 03:45
名前: Cavite [ 返信 ]
参照: http://philippin.net/
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アイコン婚姻申請した日から10日間の公示期間制度を取っている場所もあれば、

申請は受け付けましたが、結婚の為の講習会(続に謂う婚姻セミナー)の受講が終わらい内は、10日間公示期間に入らない場所もあります。

また、10日間の公示期間に土日祝日が含む場所もあれば、認めない場所もあります。

もちろん国が決める基本があったにせよ、それをあげて追求しても
そちらがどうあれ、この市役所ではこれに従って下さいになりますので、おおよその幅も考えなければなりませんね。

目的地のレイテとはここですか、データによれば人口35,000人 世帯数6,900 バランガイ30

たまたま地図見てましたら、ずいぶんと前になりますが、リモン峠から分岐してビリラン島内へツーリングで行く途中で通過してました。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8428 )
日時: 2013年08月22日 08:32
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコンCavvite様
 補足をありがとうございます何しろ初めての国際結婚ですので私の一回のみの経験(1回のみであることを祈る、笑)なのでいろんなパターンの1部だとご理解の上お読みください。今後も補足をいただけましたら幸いです。また、レイテはご推察の場所です。彼女の村への最短はここからバンカで約1時間対岸から歩きます、かなりの急坂です。
 さて今回は待機期間10日間のことを書きます。前半の5日間は彼女をホテルに残し私はリモン峠を目指しました、地名からここはレモンの産地なのかなと思いましたがレモンの木は見かけませんでした。場所はセブに近いオルモックとタクロバン市の中間ぐらいのところにあります。
ジープニーでバスセンターに向かい、バンタクシーに乗ります、タクシーというよりむしろ小型の乗合バスですが、割と好きなところでおろしてくれたりするのでバス運賃とさほど変わらないこちらにしました。
カーチェイスしながら約2時間で到着、人家のまばらなちいさな集落です。トライシクロもいないのでバイクタクシー、ハバルハバル(もう死語かな?)で日本軍慰霊碑に向かいます、聞いた限りでは3箇所あります、地元の人は日本軍墓地(セメタリイ)と呼んでいます。
生き残りの部隊の方々がそれぞれの部隊ごと、あるいはまた合同の慰霊碑を建立されています、タクロバン側のカリガラ平野にも慰霊碑があると聞きます。
彼らの言う墓地はいずれも現地の方々の手できれいに掃除されていました、激戦区で多くの日米将兵がなくなった場所を想像するにはあまりにも平和でのどかな村でした。
ゆっくりと村を見て回ったり、古老たちと話し込んでいたら夕暮れになってしまいましたので30分ほど下った下の村を流れる河原にテント泊(このへんは旅館がない)、誰にも尾けられず、見られぬように忍び泊です、いつも私は臆病なくらい安全には気を使います。
目的は達したので翌朝オルモックへのバスの人となりました、前回旅したのとは全く逆ルートです。ここオルモックの街もタクロバン同様タクシーは走っておらず、ジープニー、トライシクルが移動の足となります、各段することもなく適当な田舎まで走り海岸で昼寝して終わり。
 あ、すみません旅の話に夢中になりました、スレ違いですね、お許しを、、、次回披露宴準備について書きます、これも全て手作りのパーテイです。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8429 )
日時: 2013年08月23日 13:16
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコン披露宴準備。
 さて、タクロバンに帰った私は彼女と協力してパーテイ準備にかかりますが、ジャングルに暮らす彼女は下界の事に疎く、ほとんど当てにならないので大事な部分はすべて私がやることにしました。
まずは場所探しですが、持参したモバイルパソコンで検索、数件の候補の中から招待客にとって来やすいタクロバン市のレイテリゾートパークホテルに決定、ホームページにはオプションで披露宴+宿泊というのがありましたが、現在はそのセットは無いとの事でしたので、ウエイトレスを5人、会場のセット、料理は大きなものは出来ないと言うノデ、ポット3品のみ、、を頼み、5部屋あるコテージを借り、そのベランダで行うことにしました、ここまで出宿泊入れて3万ペソ。部屋にはカーテン付の王様ベッドがあり日本はおろか海外でもこんなベッドで寝たことが無かったのでとても楽しみにしていました。
会場のセットが出来たので次は追加の料理の手配、レチョン(子豚の丸焼き、こちらではお祝いには欠かせない、日本のイセエビ、鯛のようなもの)、何軒か周り1頭7,000ペソを2頭届けてもらうようにした。招待は30人ほどだったので後2品ほどホテルの厨房を借りて自分で料理。これで5ポットと2頭。後ケーキの注文これも街を探し配達手配。後は送迎用のバンの手配だが彼女がやるというのでお任せしたが、なんとルートを走るバンと交渉してジャングル入り口と往復で2,000ペソで契約してきた、片道約3時間の距離で貸切だからバス代を払って往復するよりは安いのだけど、、、、
宿泊のほうは彼女の家族には1泊してもらうことにした、特におばあちゃんはジャングル暮らしでこんなホテルに泊まったことが無いので特に私からも勧めた。彼女は別部屋を用意したとの事だったので安心していたのだが、おばあちゃんと彼女の妹たちが、王様ベッドを占領、まあ自分もこんなベッドで寝てみたかったけど、老い先短いおばあちゃんにはこれが最後で最初だろうと思えば好きにさせようと私は隣の部屋の床で寝ることに決心。彼女の言う別部屋とはこのことだったのか、初夜はかくしてプライバシーも無く、何事も起こらず平和に世がふけていったのでした。
次の日はホテルから歩いて近くのバルコという海上レストランに招待。
あまりお金をかけたくないという彼女の意向で(こちらとしては大賛成)披露宴総額およそ12万円成りで完了。
次回はシビルウエデイングについて書きます。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8430 )
日時: 2013年08月24日 05:26
名前: Cavite [ 返信 ]
参照: http://philippin.net/
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アイコン何年前だったですか、タクロバン市港脇に旧バスターミナルがありましたが、現在は郊外に新しく立派なターミナル建設がなされ、中心域と郊外のバン・バスTM間が4km程離れており、軽トラがその間を巡回する様になりましたね。

現在こそサマール島・レイテ島は時代と共に陸を走る乗り合いが多くなりましたが、その昔はタクロバン港からレイテ湾間では船で行き来するのが当たり前だったと聞いてます。
その為ビリラン島へ渡る橋は半分は海を埋め立てた海上道路で中間は島を抜け半分は橋で中型フェリー位なら通り抜けが可能な様になってます。

道路の発達は故マルコス政権下時代、妻のイメルダ夫人が同島出身だった事等から、サマール島とレイテ島間を橋で結んだと噂されております、この橋の名はサンファーニコ名前の由来は解かりません、建設費は日本のODAが使われたと聞いています。 

ルソン本島首都圏~最南端のマトノグ港迄の道路を整備、連絡船を設置、更にサマール島のアレン港~レイテ島のタクロバン市迄を重点的に道路整備、現在はタクロバン市からレイテ島最南端のリロアン港間での道路整備も終わり、ミナダナオ本島最北部のリパタ岬間を連絡船で結び、最終地ダヴァオ市エコランドバスTM迄総延長1400kmの道路を拡充してますが、これだけに終わらずダヴァオ市からジェネラルサントス市のバラウンバスTM間やコタバト市のアバ南バスTM間、更にコタバト市からパガデアン市のインテグラテッドバスTM経由でサンボアンガ市迄半島先へと急ピッチで国道工事が進められている状況です。


ところでこのバンとは、日本で言うワンボックスカーの事を指しますが、日本では何故か? フィリピン人妻を持つ日本人夫の所有率が極めて高い様に見受けられます。 フィリピンでのワンボックスカーは営業以外で所有することは先ず持ってありません。

つまりワンボックスカーは乗り合いタクシーを意味いたすと謂っても過言ではなく、各地方によって呼び名違うので覚えるだけでも一苦労、国内を移動する手段としては避けて通れない乗り物の一つに上げられます。

ミンダナオ本島では、バンと呼ぶ場所が多く、セブ・ネグロスやパナイ島ではヴィファイル、パラワン本島ではバン 

日本で売られているワンボックスカーが仮に9人乗りだとして、運転席、中間部、後部と三等分に切断、中間部に更にプラスして6人乗車出来る様に継ぎ増し、3人かける4列=12人定員 1列3人の席に4人乗せるのが普通となるため、実際は12人+4人=16人(運転手も含む)となります。

基本呼び名は違っても、出発地で満定員まで発車せず、満定員なり次第即出発したら、基本トイレか食事のみ停車で目的地まで暴走するのが一般的です。 もちろん途中下車はOKなんですが、最終目的地からの延長営業行為は厳しく取り締まっており、

例をあげれば、ミンダナオ本島内の北サンボアンガ州都デポログ市~東ミサミス州都のカガヤンデオロ市までいく場合、西ミサミス州オサミズ市のA1バスTM迄しかバンの営業許可は持ち合わせていない、それを知らずして、A1バスTMへ行く前にオザミズ港で降ろしてとお願いしても断れる事が殆ど、その理由は近年乗り合い大手バス会社が次々と合併吸収されるなかで、小さなバン経営で4台~10台くらいの所有は基盤が薄い為LTOへ挿される為、厳しい罰金徴収があるからです。

ジプニーとて同じで出発の州都内エリアでは車内にギュウギュウ積めか、それが嫌ならジプニー後ろのサイドステップに棒立ちしたまま走り、エリアを出たら男は屋根に移動、女は座席とこれが一般的でした。

路線バスが平行走行している地区ならばエアコンバスに乗ればあれでもシート幅は広い方なんです。つまり、安さと速度を重視したバン(AC故障)に3人席に4人で乗る空靴差を我慢するか、AC快適、シート幅快適な路線バスに乗るか、ACバスは通常バスより幾分高いのでミニマム乗車(近距離乗車)が少なく、割高、その為乗り降りは非常に少なく結果早いはずなのですが、

フィリピンの事情柄、運転手と車掌が売り上げ泥棒が絶えない為、抜き打ち検査官がやたらと路線内に待ち構え乗り降りするのが時間後退のネックです。 大手のバス会社ほと運転手と車掌よりも検査官の方が多い会社もある程です、

代表的な会社名で謂えば、バラッカトランジェスト社 配下にバッチロール ルーラル セレスライナー フォーチュンなどが代表的と謂われております。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8431 )
日時: 2013年08月26日 07:06
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコンCavite様
 おっしゃると降り、現在タクロバンのTMは郊外に移転していますね、TMは入場料を取るので入るときはシクロ、ジープニーは入場料込になっています。港の旧ターミナルは露天が並び、ジープニーのターミナルになっているような風景でした。サンファニコ橋は日本のODAで戦後補償の一環として造られたと聞いていますが、その性格からかどうか知りませんが日本が作った云々はどこにも見つけられませんでした。イメルダブリッジと呼ぶ人もいるようです。バス、バンはいつもギュウギュウ詰めで、大きな荷物は気が引けますね。
 さてシビルウエデイング、私たちはセミナーと婚姻許可を同日に受け取れましたので結婚式まで済ませてしまいました。セミナーは3枚程度の質問書に答えるところから始まりました、例えばSEXは何回ぐらいしたいですかとか、相手が拒んだ時はどうしますかみたいな内容でした、回答が終わると雑談を交えて内容についての話し合いといった感じで担当の女性も形式だけ済ませれば良いといううような態度でした。ほかには受講者もなく逆に担当者の方はSEXどうしてますか?と私から質問したりして、ほとんど雑談でした。
 で、セミナーの証明をもらいその足で地方長(町長でもないし村長でもない、この後入管への書類翻訳でも悩みました)の事務所へ向かいシビルウエデイング、私たちの前にカップルが挙式している最中でした。
これには親族以外の2名の証人の署名が必要です。彼女は親戚でも良いと言い張りおばあちゃんを連れてきましたが(私は20年来のタクロバンの友人、男を連れて行きました)結局ダメで職員のおばさんに無理言ってサインしてもらうことに。式の内容はといいますとこれまた雑談混じりで、正式な式は5分ほどでした、全てにイエスサーです。
式の権威者はジャッジと聞いていたので心配になり地方長は権威者ですかと訪ねましたところ問題ないとの返事でした、事実NSO登録も問題なく出来ました。賄賂ではないという証に日本の祝儀袋に1、000ペソ入れ地方長へ、サインしてくれたりいろいろ世話を焼いてくれた職員のおばさんに500p渡しました、このおばさんにNSOへのインドーズメントをお願いし、地方長発行の婚姻証明をいただきました。後に日本の役所に婚姻届を出すのにこの証明を使いましたが受け付けてもらいました(役所によりきていが違うと思われますので注意が必要です)。
シビルウエデイングの費用、飯代まで入れて約5、000ペソ。
丸々1日仕事でした。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8432 )
日時: 2013年08月27日 06:08
名前: Cavite [ 返信 ]
参照: http://philippin.net/
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アイコンここで読者にポイントとなるのが、婚姻許可がおりた後、

結婚式と思って仕舞う方がいるかなと思うのですが、フィリピン共和国では婚姻許可が出た後に行わなければいけないのが、挙式と謂います。

挙式と結婚式の違いがあります、日本では結婚式と結婚披露パーテーがある様に、フィリピンでは挙式を行って正式に結婚後、披露パーテーを行う形になります。 日本は互いが決められた婚姻届に署名いたし役場へ届けでますが、フィリピンでも決められた婚姻届は御座いますが、挙式を行える資格を持った挙行官(市町村長、裁判官、神父等)にお願いいたし、2名以上の署名を保証人(親兄弟・従兄弟を省く)として貰った上で、原則同席の上執り行っています。

教会で行われる場合は挙式に沢山の人が訪れますが、中には日曜あたりですと挙式とは関係なく礼拝に来た人も重なるので、如何にも多くの人が祝福に来た様な錯覚を起す場合もあります。

ちなみに私が挙式を行ったのは市役所の市長室で、フィリピンで放浪生活を送っていた私の生活力からいえば、挙行官は市長以外に申込みできる状況にありませんでした、10~15分くらいだったと思いますが、費用は一律30ペソを市長室長へ収めるだけで、祝儀禁止かどうかは解かりませんがこれが市で決められた正規料金でした。

しかし、挙式と披露宴も合わせてメトロ圏パサイ市日本大使館側の旧ハヤットホテルで180万円(日本からの親族招待費用は別途)も支払って結婚した人もおりますし、賭けようですが、 賭ける事の難しさよりもフィリピンと謂う暗殺国域を頭に入れなくてよい者かと、唯でさえもお金に纏わる殺害が多い国故に、180万円の市中両替すらよくやったと思います。

その後にしてもいろんな意味で金に纏わる弊害は付き者、婚姻生活持続さえすれば良い事なのですが、現実として身が持つかどうかなぁ~と謂う一言に尽きるかと感じます。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8433 )
日時: 2013年08月27日 08:28
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコンCavite様のご意見は全く的を得ており同感、共感です。
 カビテ様と同じ考えから、近隣の部落(徒歩1~2時間)から呼びもしないのにたくさん集まってくるジャングルでのパーテイはせず、わざわざ市内で親族30人弱を招待してささやかでも内容のある披露宴を行いました。彼女にも日頃から私は円を持ってここにいるけど、日本ではごく普通の貧乏人であるから、信頼できる親族以外には日本人と結婚したことは誰にも言わぬように固く口止めしました。
事実日本で結婚式をすれば大きな出費となるわけですが、フィリピンだと1/10で済むわけです、逆にゆうと10倍かかる式費用をポンポンと出す日本人は大金持に見えることでしょう、我々日本人はレートによる価格差をついつい、錯覚して安いからと彼らにとって大金を気安く使ってしまいがちですが、彼らの目にどう映るのか考えれば薄ら寒いですね。マニラの歓楽街でよく見かける光景に、後ろポケットに見えるように突っ込んだ財布から、これまた財布の中身が見えるように支払いをしている日本人をたまに見かけますが、恐ろしい光景ですね、襲ってくださいと体全体で叫んでるように見えました。
 さて、結婚のNSO登録依頼まで済ませた私は何もやることはなくなりました、彼女にこれからやるべきこと、注意点などを説明し、帰国するわけですが、フィリピンサイドの手続きはマニラにいたほうが何かと便利なので、私の友人の家にステイするように勧めましたが、気を使うからと同じ村出身の家庭(といってもバラック)に居候することになりました。
レイテにいるうちに、洗礼証明書、学校に確かに在籍していた証明を取らせました、これらは入管申請時に申請人の生年月日、特に申請人が生まれた時から現在まで実際存在しているという証明になるのかな?(申請人が真に本人である証明、すべての書類が真正である証明)。
 私は最近ジェットスターをよく使います、深夜に到着する同価格のセブパシに比べてこちらは比較的危険の少ない夜8時ころの到着なので気に入っています、往復3万円前後の価格も魅力ですね。
また最近旅には小さなパソコンも携帯します、国内線の安値検索、予約購入、旅館の検索予約、時刻表、、、、とたいそう便利です。通信機器はUSBに差し込むだけのT@TTOを使っています、プリペイドです、電話機能を使用しない限り300p(だったと思います)十分旅のあいだ使えるので重宝しています。エルミタのロビンソンで買いました、価格は忘れましたが1、000pちょいだったと思います。
 次回は日本サイドの手続きについて書きます。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8434 )
日時: 2013年08月28日 08:13
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコンここからは日本サイド、フィリピンサイドの手続きについて書いていきます、カビて様、補足、修正等ありましたらどうぞよろしくお願いします。
 帰国してまず最初に行ったのは、婚姻届(報告)です。持ち帰った村発行の婚姻証明を翻訳し、市役所に出向きます。翻訳文とは別紙に以下のような文章を添えました。
1:翻訳者名、住所、電話番号。印鑑。
2:翻訳は可能な限り原文に忠実に訳しましたが、地名、人名等は日本語にない音も含まれることがありますので()内に原文を付記しました。
3:その他、役所名等、日本にない組織については、最も近い意味の日本語に訳しました、これらについても()内に原文を付記しました。
 上の注文はこのあとすべての翻訳文に添付しました。
役所の書類の翻訳にはコツがあります、概ね、法律の原書にある表現を参考にすると良いのかなとおもいます、要は内容を簡潔明瞭に少ない字数で矛盾なく全てを説明できていれば良いかと思います。
 というわけで市役所の戸籍係に書類を提出するのですが、何しろ田舎で、国際結婚の受付は数年に一度くらいの頻度らしく、その度にマニュアルと検討しながらの作業でした。彼女には日本国籍がないので当然入籍という形ではなく、フィリピンの方式により結婚、私の妻という表現でした。また子供に関しては妻の子という身分です、こちらの方は同様の理由から戸籍には反映されません。
1週間ほどで、戸籍謄本に変更の事実が反映されるとのことでした。
フィリピンサイドの方はNSOに反映されるまで時間がかかりますので、彼女は休憩、私の方はそれまでにすべてのフィリピン側の書類を翻訳しました。また、すべての記録写真をA4普通紙3枚程度にまとめ、内容を付記しました。最後の紙に、写真は小さいので不鮮明なら電子書類を添付する用意があります、お申し出いただければ送付致します、、、という内容を書き加えました。実際私の仕事では関係役所への写真報告は電子書類でできるようになっています。

次回はいよいよ入管申請のあたりを書きます、一連の流れの中で重要な部分です。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8435 )
日時: 2013年08月29日 07:31
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコン入管への在留許可申請。
 先の戸籍謄本ですが、フィリピンサイドの書類には新しい姓での彼女の名前が記載されていないので、旧姓のままの記載です、また、住民票は当然来日してないので、住民登録はできません、ここで心配になったのが、彼女の連れ子の名前が、戸籍にも登場しないので、入管申請の添付書類がないということです。そのことを入管へ問い合わせたところ、母子の関係がわかれば問題ないとの返事で安心しました。このあとも不明点はどんどん入管へ問い合せたのですが、係官は嫌な顔もせずとても丁寧に答えてくれました。
入管へはNSO登録の婚姻証明が必要なのですが反映されるまでおよそ1ヶ月弱かかりました(早い方なのか遅い方なのかわかりません)。婚姻証明の他にもパスポートも必要でしたので、パスポート取得の前にCFOへセミナー受講に行かせ、受講修了証明を持たせて、パスポート申請に行かせますが、役所側に不具合が発生したらしくエクスプレス料金を払ったにもかかわらず1ヶ月用しました。現在パスポートの申請は事前にネットから予約を取るシステムになっているのですが、これが曲者で入力するも、何回やっても受け付けられず、結局ツーリストに代行を依頼しました、今考えれば予約のシステムも含めて不具合が発生していたのかもしれません。フィリピン人はおとなしいですね、私は1週間過ぎたあたりから、3日おきに催促の電話をツーリストに入れるよう彼女に言いましたが、あまりひつこく電話qすると怖いみたいなことを言ってました、こちらは金を払っているのだから状況を知る権利があるし何も遠慮する必要はないのだからと言ってもなかなか問い合わせの電話はしてくれませんでした。
 さて、入管申請ですが、提出書類はごくわずかです、これは入管のホームページを訪れれば説明されています。この必要書類のうち預金残高証明は不要とのことでした。ホームページに書かれている基本書類を揃え、次はこの基本書類に書いた内容を客観的に証明するための参考資料を集めます、こちらの方はかなりの量になりました。一番気にしたのが我々の結婚が通常の結婚であり、すべての過程において合法的に行われた正式なものであるといううことを証明することでした、そのために経書には表面的なことだけにとどまらずそのとき時の内面の様子も書きました、少し意地悪して(このへんから私のイタズラ心がムクムクと、、、)、最初に知り合ったのはいつの何日ではなく、00月頃と書きました、思ったとうり質問の電話がきましたが逆に係官に”知り合う”の定義はなんですか?何を持って知り合ったといえば良いのですか?どの程度知った時点で知り合うというのでしょうか?と冗談交じりで言うと係官もそう言われてみればそうですねと苦笑いしてました。多分これで私を印象づけるのに成功かな?
参考書類に私は身分証明書(破産していない証明、市役所でもらえます)、善良な市民であることを調査した上で交付されるある免許証を添付の理由をつけて提出しました。当時の私は両親の介護のために4年ほど無職でしたので収入が全くなく、以前経営していた頃の蓄えも4年間でほとんどなくなり、ほとんど貧乏でしたが、その事実も包み隠しなく申告し、証明のために前職業の税務署申告の写も添付しました。
続きはまた書きます。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8436 )
日時: 2013年08月31日 08:19
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコンさて、妻の連れ子の在留資格申請ですが、これも必要な書類をすべて整え、理由書には(自主的に添付)妻がどうしても連れてきたかった、、云々ではなく、一緒に連れてくることが、子にとっても母親にとってもいかに大事なことであるかといううことを、切々と長文にわたり訴えました、最後に母子が別離になるようなら、在留資格は放棄いたします、母子同時に来日できるまでは何回でも再申請いたします、、、、というう文章も付け加えました。
 途中確認と質問の電話が入管から、私宛に1回、フィリピンにいる妻あてに1回、私の妹あてに1回、それぞれ1回のみの電話でした。
かくして、きっかり1ヶ月後に在留資格認定書が送られてきました。
早速、パソコンに保存するとともにEMSにてフィリピンへ送付。
マニラに待機する彼女はこれを元にビザ申請を行います、あらかじめ必要な書類は揃えたてありましたので、早速代理機関でアテイックツアーに持ち込みました(現在特例を除き直接のビザ申請は受け付けていない)、この会社は日本にも有り、大使館すぐ横にあるマニラ支社には日本人も常駐しておりますので何かと便利かなと思ったからです。日本からの書類には申請書(こちらでパソコンからダウンロードしてそのままパソコンで書き込んだ)、在留資格認定書、私のパスポートの全ページコピー、参考として婚姻の流れを記録した写真のまとめ普通紙に印刷しました、この写真には各書類も入っています。そのほかには申立書(なぜビザが必要か云々)、役場発行の身分証明者を添えました。最低必要な書類は大使館のホームページに紹介されています、ここでも私の預金残高証明は必要ありませんでした。
 ビザが降りたのはきっかり4週間目でした。
これで来日の手続きは終わりましたのでネットからチケットを購入、2人分で約3万円(片道)、妹も旅行ついでに行きたいと申しますので2人分の往復チケットを購入。
我々が渡比するまで彼女はジャングルで待機。
 次回来日後の手続きについて書きます。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8440 )
日時: 2013年09月01日 07:07
名前: Cavite [ 返信 ]
参照: http://philippin.net/
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アイコン郁々フィリピン人妻の連れ子さんを来日させるのであれば、養子縁組をなされる方向なのでしょうか?

他にも掲載されているように、来日後の養子縁組を行う場合で一番気をつけなければいけないのは、一定の年齢に達したときに帰化? と謂う問題を本人が考えるかも知れません。

別の掲載でも取り上げて御座いますが、日本で裁判後に養子縁組が認められているから、帰化についても問題ないはずと当事者は考えていますが、帰化するには両親や兄弟すべての公の書類がすべて合致していなければ、先ずもって帰化などできません。

一様に決まって養子縁組裁判を開いているから全く問題ないと思っていますが、様は裁判後の判決文がフィリピン側の公に掲載されていなければ、中途な半端な手続きと謂う事です。

特に昔行った養子縁組裁判は偽造出生証明書を用いて日本側へ提出、裁判所側では偽造かどうかのチェックはできないですから、偽造のまま認められています。
知らずして育った当事者は、タガログも英語も話せない等からフィリピン人いる違和感が増すにつれて日本人になりたい、こう思うのであります。

そこで帰化申請を管轄法務局から起す事になるのですが、日本と比国の両方の記録が繋がっていない現実に直面、

日本で暮らせさえすればそれで良い 結果これでは連れ子さんの将来を遮断してることになります、日本人夫はフィリピン人妻を攻める前にフィリピン妻が取るだろう行動を事前察知できない部分(知らなかったでは済みません)が、一番の汚点かも知れません、

連れ子さんへの責務、連れて来た保証人として、呼んだ責任者として、将来手続きを踏むかもしれない、この様な部分まで見据えて取り掛かかられると良いですね。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8441 )
日時: 2013年09月01日 07:19
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコンここまでで留意したことは、すべての書類が真正であり、なおかつ書類相互間に矛盾が生じていないこと、係官の立場になって、彼らが何をしりたいのか推察して参考の書類を整えました。また、処理が遅いとか、融通が利かないとか、文句を言うのは、お門違いで彼らは指針に従って仕事をしているわけですから、彼らの仕事には敬意を払いました、と同時に申請者側も規定にのとっり申請をするわけですので、卑屈になる必要もなく、不審箇所は淡々と指摘させていただきました。
参考書類につきましては、本申請書に書いた各項目を参考書類で証明するという形をとりました、係官も申請書の内容だけでは表面的な事がらしか読めないので、例えば申請者がどこの某で、実在の人物である証明とか、、です。重要な箇所と思われるものについては、証明の書類のまた証明をする書類といった感じで3次証明までつけた部分もありました。そのおかげか、質問の問合せは1度もありませんでした。さりげなく係官に聞きましたところ、完璧ですとの答えがありました。
 さて母子、来日して最初に役場に出向き、戸籍謄本に記載された旧姓の変更、転入届、健康保険、年金等の手続きをしました、必要書類は印鑑と新しい姓でのパスポート、在留カードのみです。子に関しては母親の旧姓のままです。
前例が少ないので、係りの方は資料を調べながらの作業となり、時間がかかりました(それでも流石は日本、1時間ほどで済みました)。
住民登録では通名で記載してもらいました。係りの方は通名については承知していないらしくあらかじめ調べておいた条項のコピーをお見せしました。結果通名での登録となりました。不思議に思ったのは子供が私の性で登録されていたことです、私たちにとって都合の良いことなのであえて質問はしませんでした。なぜなのかよくわかりません。
これで、フィリピンで結婚し、その結果を日本の役所に反映し、私どもは両国において婚姻関係にあるといううことになりました。

管理人様の快諾を得て長々と書きましたが、ここまでが全てです。
また手続きを進めるにあたって、この板に質問もいたしましたし、関連記事を全て読ませていただき、この掲示板がおおいに助けになりましたことを心より感謝申し上げます。
また、私の書いた1連の内容はいくつもあるパターンの中の1例です、役所によってはそれぞれの条例で取り扱いが微妙に違うことが予想されますので、ご理解の上お読み頂けましたら幸いです。
これから日比結婚なさる方の参考になりましたらと思い長文ながら掲載させていただきました、ありがとうございました。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8442 )
日時: 2013年09月01日 07:31
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコンカビて様
ご心配いただきましてありがとうございます。ご指摘の通り連れ子につきましては妻の子であると同時に1人の独立した人格なので彼の将来には責任があることを承知いたしております。ただ、お恥ずかしながら、結婚の手続きで精一杯で、まだ帰化の条件とか、手続きの仕方とかまだなにも調べていないのが現状です。
子供にとって何が幸せなのかよく考え、将来成人した時に子供が自分で判断して、可能な限り選択肢を1つでも多く残してあげたいと考えています、これからもこの掲示板や先輩方の経験を参考にさせていただき、選択を誤らないようにしていきたいと考えています、これからもどうぞよろしくお願いいたします。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8443 )
日時: 2013年09月03日 06:40
名前: Cavite [ 返信 ]
参照: http://philippin.net/
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アイコンこれから、行うと謂う方には大いに参考となるはずです、っと同時に参考にしたくとも、初めから公文が合致しない、あるいは不正がある為合致できない、この様な方がいるのも確かで、その相違はフィリピン人の感覚、意識感も含め、比国登録の公文にミス記載、あるいは来日をする為にあえて偽造を用いて作成し日本国を騙し登録、

公正証書原本不実記載罪 偽造証明書で日本国へ登録すること、言い換えれば騙して登録をさせること 

電磁的公正証書原本不実記載罪 登録をかけた後に、公人を騙して登録した公文を引き出して入管や法務局等(特定の公文を提出いたす場)に提出すること 

日本人夫はフィリピン共和国からフィリピン人妻が持参いたし、提出した公文に間違いはない、これが前提で登録がなされています。

しかし、母国フィリピン共和国で住んだ者から言わせば実態はどうでしょうか。 街中に普通に見かける偽造証明書の受注、運転免許証、パスポート、毒身証明書、婚姻、出生、セドラー、スクールレコード、都合の良い証明書は即日作成の便利さ、しかも、偽造だろうとも、比国内であれば普通に役場へ提出受理されている実態、当然舞台が比国から日本国へ変わろうとも、上手く行く感覚でしかありません。

これを日本人夫が知らない部分、フィリピン人妻の持ち合わせた公文がすべて正しい元に動いていることです。 
フィリピン人妻を帰して解からない事も、連れ子を帰して数十年後に出てくる事も、しばしば御座います。

例 2年前に比国で結婚、比人妻には比人との間に2人の子 自身との間に一人 比国出産につきフィリピン国籍胎児、出世後認知なしだが、比国出生証明書上には日本人父の署名あり、婚姻後前婚との子2人は残比状態で、妻子のみ来日、日本側では老婆、日本人夫、日本人夫の解かれた日本人妻との間の子2人と同居開始、

再婚前に出産した実子は比国籍のまま、近く日本国籍取得を考えていたが、比人妻の前婚の子2人が比国残留なため、生活費送金が急務なため、日本人夫への要求が月数を跨ぐ毎に激化、一方結婚前に月々いくらと事前通告するフィリピン人って殆ど聞きませんから、
日本人夫は、老婆や離婚前の前妻との子2人を養い、住宅ローンも返済、精々がんばって送金援助をしても足りず、比人妻との間はぎくしゃく、ついにフィリピンパブで働くと言い出し田舎から首都圏まで行って別居開始、別居ついでに離婚、

ところが最近の改正入管法を比人妻は知り、再び日本人前夫と再婚を迫って来たが、再婚するには比国内での離婚承認裁判しなければ比国日本大使館は認めない、在留ビザ期限はドンドン迫る、簡単に別の日本人とも再婚もできない、

最後の砦をぶった切る行為 ここまで、これ以上してはいけない行為、互いが困るから、元に戻るにも戻れない現実まで到達してしまった時、

まさに、他所の不幸な家族を見て己を再認識するしかありません。

元に戻す作業は複雑で長期化、多額、残念ですが自身で起せるでしょうか、


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8444 )
日時: 2013年09月03日 07:06
名前: Cavite [ 返信 ]
参照: http://philippin.net/
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アイコン上記記載が(桜島さん)の掲載も含めて、極端な事例とは思えません。

やるべきことは大変でもやって置かないと、必ずひび大きくなり仕舞いに修習できなくなってしまいます。 そして幸せを摘む為に努力している訳で誰も(日比)不幸を望む人などいないはずです。

無理すべき難関はどうしても取り除くか、取り除く事ができないときは回避、それすらできずして走れば破綻もあり得る訳で、難しいと思う結婚相手と感ずるならば急ぐよりもお付き合い期間を十分に取るべきです。 十分すぎてゴールが出来ずとしてもそれが運命だとあきらめてください、一時の幸せを掴む代償の方がもっと大きいということです。

桜島さんの様な見つけ方は、今の日本で会社勤めをしている方には無理でしょうけれど、会社は永遠に、フィリピン人妻も永遠に、この両者を常に追従するのではなく、家庭の基礎であるフィリピン人妻を永遠に見るべきです、一歩まちがうと気付いた時は両方失っていますから、

円と結婚、日本国の仕事と結婚、日本ビザと結婚、日本永住ビザと結婚、このような結婚だれが望みますか、もちろんフィリピン人との性生活だけで婚姻生活迄上手く行くはずもありません。

わがままな都会育ちのフィリピン人よりも、電気がなくともよいですから土田舎育ちのフィリピン人を限りなく求めてください、よ~~く見て、時間をかけてください、倹約家のフィリピン人は幾らでもおります、是非捜し求めて下さい。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8446 )
日時: 2013年09月05日 06:28
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコンCavite様
 貴重なコメントをありがとうございます。私も仕事で、フィリピン、インドネシア、、、と数ヶ月から1年程度の滞在を繰り返してきましたが、ちょっとした言葉でも沸騰してしまう血液、長期の計画せず、とりあえず目先のことを考えがちな国民性、それゆえに安直に事業を起こし、当然失敗、ここでなぜ失敗したのか反省シ考察できる人は稀で、多くのフィリピン人はしょうがないで終わらせてしまう。
ですが、そのような思考回路が普通で育ち、身にしみこんだ常識は簡単に変えうるものでもなく、我々日本人に染み込んだ行動パターン似合わせろといってももちろん争いしか残さないのが落ちです。
じゃ、英語思考ですべての言葉を感情抜きに、論理的な話をすれば良いのかと申しましても、今度は彼らがの学歴ゆえ、論理思考の何かも理解してくれない。
これが、文化習慣の違いの1部と理解は出来ても、なんだかイライラだけが残ってしまう。フィリピンのスタイルで生活するとどうなるか?確かに、日本人感覚で生活するより、精神的に楽なのですが、金銭破綻は間違いないでしょう。やはりイライラしながらもすり合わせる努力しかないのかなあと考えます。
 <<<わがままな都会育ちのフィリピン人よりも、電気がなくともよいですから土田舎育ちの>>>>とカビテ様もおっしゃってますが、それは本当だと思います、全てではないですが、ほとんど多くの都会に住むフィリピン人は情報に溢れ外国人にも接触する機会が多く、いわゆる外人=カネモチみたいな感覚があるのは確かだと思います。
 私の妻もフィリピン人としての常識は身にしみこんでおり、他のフィリピン人と同じだなあと感じているのですが,カビテ様の言われるとうり、ほとんど現金収入のないジャングルで暮らしてきた彼女は、お金よりも助け合って生きることのほうがはるかに生きるために大事だと認識しているようで、お金は入ってきても使わず、服も未だに夏物で我慢して勧めても買おうとしない、そんなところが確かにありますね。
私自身田舎育ちですのでそのような考え方はよく理解できますし、私たち田舎人にも染み付いた感覚です。
都市部にお住まいの日本人からすれば、日本の片田舎に旅しただけで人の親切に感激したりされるようですが、私たちにすれば空気のように普通のことなのです。
ですので私からも、このような感覚が普通に染み込んだ人たちが多く住む、田舎の道もないような所も例え1週間でも旅されることをおすすめします、エルミタには生息していない、素晴らしい方と知り合いになれるかもしれません。(私はそれが目的で旅してきたわけではありませんが、、、)


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8447 )
日時: 2013年09月06日 05:14
名前: Cavite [ 返信 ]
参照: http://philippin.net/
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アイコン桜島さんのコメントで、>>旧薩摩藩主が頻繁にフィリピンに蜜出入国していたことから、きっとこの国にいるに違いないと思い、3回目にして幸運にもレイテ島のジャングルに発見できました。

比国と言えば、何処へ行こうとも鶏だらけの王国と言えますが、その様な歴史を知っていたのも驚きですし、それを探しに入られたのもすごいです。 私には何故あれだけの喧嘩鳥がいるのか想像もつきませんが、多分相当な長~い歴史があっての事だと思っております。

フィリピンならば首都圏だろうと土田舎だろうと十分過ぎる位見かける喧嘩鳥、興味を持ちは始めたら奥が深そうですね。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8448 )
日時: 2013年09月06日 06:11
名前: 桜島 [ 返信 ]
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アイコン興味深いことには、フィリピンにおける闘鶏のルールとかやり方が、旧薩摩藩が兵士の士気を高めるために出陣前にやっていた闘鶏とよく似ていることです。フィリピンの闘鶏を見て私はますます確信を高めました。
当時藩主島津氏は、フィリピン、タイ、インドネシア、琉球、台湾、、、と新しいもの、技術を求めて南方へ部下を密入国させていました、ルソン、アユタヤがお気に入りだったようです、多分ヨーロッパからの船が集まるこの辺で情報、物の交換を行っていたのでしょうか?
 鶏はフィリピンでもポピュラーですが、野生の原種がジャングルで自活していることはあまり知られていません、完全な野鳥です。
で、この原種、こちらの地鶏である薩摩鶏と容姿が全く同じということです、別名薩摩鶏のことを浜鳥と呼びますが、当時薩摩藩の船が祇園の洲という浜についていたことからも、南方から連れてきた鶏を浜に陸揚げしたのかと思うとますます信ぴょう性が出てきたというわけです。
 この闘鶏、言葉、その他の文化が薩摩から北上する黒潮の流れる日本の各地に広がっていったことも見逃せないところです。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8450 )
日時: 2013年09月06日 19:19
名前: Cavite [ 返信 ]
参照: http://philippin.net/
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アイコンフィリピン以外殆ど解からない私ですが、闘鶏の歴史について詳しいですね。 初めて耳に致すことばかりです。

フィリピンでほぼ野生化した地鶏ですか? 私が最後まで探し求めていたのが裸族でしたが、一概に裸族と謂っても噂を聞きつけて行って見ると単なるお金がなくて着る洋服を拒む裸人で、殆どが子供、

比国再南部に拠点を持つ海洋民族のバジャウの新派がフィリピン中南部一帯の港付近で多く見かけ、中大型フェリーの出入りする港で見る事も多かろうと思いますが、あの種の裸族ではなく、一定の山中に暮らし、二十歳前後でも下着姿の裸族がいると謂う情報を元に追っていましたが、殆どが出鱈目情報でもっか確認した事例はありません。

万一、山中で暮らす裸族を見つける事ができれば共に暮らす地鶏が入る可能性は極めて高いと考えます。 確立の高い場所は東西ミンドロ州境界付近で中南一帯の山中に噂の影ある様です、オフロードバイク等を調達して入っていかないと、通常交通だけでは自由が利かず行き着けない感じです。 他に濃厚なのがパラワン本島です、こちらは更に未開発地区が非常に多く残っています。パラワンの場合誰もが知る北部域は観光立地なので何もないですが、南に下がれば下がるほど原生林になっております、しかし裸族の噂が最も高いのはサバンのアンダーグランド(河川型地底鍾乳洞)港から南東に7~8kmで道がない為陸から向かうことは不可能らしく、海上から進入するしかないとの噂です、探していた裸族の基準は20歳前後の通常様相が下着姿の女性がいればと言うことですが、その様な場には高い確立で地鶏と共に暮らしていると思えてなりません。 

また、野生の原種がジャングルで自活していたとしても、そこそこどんな山中でも暮らしていまして、涼しいのと水、そして僅かでも食する事ができれば高い確立で暮らしており、その民族が食されていることが多いので中々残っているかは厳しいかも知れませんね。

現状で謂えばハロ(オオトカゲ)大きいもので体長3m前後、殆ど食されて絶滅に近い感じです。 先ず最近観光程度では見た事がありません。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8455 )
日時: 2013年09月11日 06:24
名前: 桜島 [ 返信 ]
[ 編集 ]
アイコンcavite様
 残念ながら私、裸族についての知識は、文献で知る程度ですが多島国家であるフィリピンはスペインが入植するまでは国家というう概念はなく、どこそこの島に暮らす部族というう感覚だったと思います、そのような意味では南ミンダナオあたりの人々はインドネシアに接する島々に暮らす人たちも、”部族”であったろうし交流もあったのだろうと思います。
海に暮らす海洋民族は確かに裸に近い生活をしていますが、おっしゃるように、海での生活というう性格から裸に近い格好の方が生活しやすいからに違いありません。
 オフロードバイクか、自転車に簡単な自炊道具を積んで気軽に立ち止れる旅をしたいものだと前から考えていたものですが、カミさんが許してくれるのか作戦を練っています。
特に部分的にしか訪れていないミンダナオ島、北部ルソン島を数回に分けて回りたいですね、特にダバオ周辺は大戦以前に入植し、アバカを栽培していた古川家の末裔はどのように現地に溶け込み、もし可能なら、子孫が現在どうなってるのか調べてみたいです。
噂の多いフィリピンですがダバオの奥地に帰国しなかった旧日本兵が複数いらっしゃるとのことです(10年ほど前に聞いた話)。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8458 )
日時: 2013年09月20日 22:47
名前: Cavite [ 返信 ]
参照: http://philippin.net/
[ 編集 ]
アイコン裸族に近いバジャウは陸地よりも海中浅瀬の水深5m前後にやぐらを組んだ家に住むことも多く、昔は小型のバンカーでのみ暮らし、フィリピン国内ですとネグロス島から南部はインドネシアのスラウエシ島に及ぶ広範囲の海にくらすようです。 年に一度満月の夜を使ってスルー島へ戻る習慣は今でもあるようです。

桜島さん、奥さんに聞いてから旅をするのは難しいのではないでしょうか、聞かれる前から答えは用意されているようなものに感じてなりません。
私の家内もフィリピン人ですが、カトリックの妻に聞いてもモスリムはまったく知りませんし、危ないとか、生きて帰れないとか、まるで水と油とよくいったものです。

ルソン島北のバシー海峡に浮かぶ島々は大自然があって魅了しますよ、特に何と謂ってもお勧めはカラヤン諸島や更に最北州のバタネスですね。 日本に置き換えるならば大東島に似ていている部分もあって、台湾文化が交じり合っています。 次期をみはらかっていけば、むらさきウニの宝庫(バタネス州サブタン島)、持ち出し禁止ですが珍しいヤシ蟹、kg級のイセエビ、台風銀座の通り道から守る為に石造りの家並み、海に素もぐりして盛で魚をつける程豊富なのもフィリピンとは謂えどもここくらいかと思います。

一方ミンダナオですか、ダヴァオ近辺は日系開拓の歴史探りもあるんでしょうけれど、中央部を縦に縦断し、横にも横断しましたが、景色で美しいのは南サンボアンガ州都のパガデアン市の眺めはフィリピン一を誇るのではないでしょうか? 特に早朝夜明けと同時に市中央通りの坂の頂上から見る眺めですね。
それから謎の旧日本兵、もしも見つけられたら凄いですね、生きていれば90歳過ぎと考えられます。
殆ど南北コタバト州からスルタンクダラト州一帯山岳まで、声さえかければお金欲しさに即反応はすると思いますが、殆どガサネタばかりですね、それとやはりこの付近はレイテやサマール島程なつき易く優しくありません、人柄だけじゃなくモスリム圏でもあることから異習慣・異文化なので切り替えが必要です。 

桜島さんの様な方なら十分探せる気が致します、残す箇所として殆ど踏み入れていない箇所は、イスラン市の西部地帯の山岳一帯、海産物が出回るので逃げて行くには困りにくい場所の一つと見ています。 或いは時も過ぎて流れに流れてスルー海に浮かぶボンゴ島、コタバト市から見て北北西に位置いたす島、私もまだ立ち入っていない一つです、他ジェネラルサントスから南南東へバンカーで約4時間半の位置に浮ぶ、サランガニ海峡内のバラット島とサランガニ島、ここは開発もソコソコ進んでいるので旧日本への気配は殆ど薄い気がします。

サランガニ半島はジェネラルサントス市内のブラウンバスターミナルから半島先端の港へバン(1BOX)が出てもいるようです。 ただし、南ダヴァオ州都のデゴス市側から半島へ伸びる道路は途中で切れ陸路交通は寸断しているようです。
従ってこの付近もあまり歩けていない一帯です。

更に可能性的にどうか不明ですが、南ラナオ州やブキドノン州の州境界も含むエリアも殆ど立ち入っていない一つです。
これら各々の場所が探す場所のポイントとなる様です。
南ラナオへ入るには、イリガンから容易に入ることはできますが、私が攻めていた頃、州内での宿泊は非常に難しかったですね、モロ湾側のマラパング側から入るルートも御座います。

州内の大半はラナオ湖となりミンダナオ島内で一番大きな湖、おそらく標高750m前後あったと思います、人口は湖を取り囲む様に形成されており、着ている服からして目にする物が普通のフィリピンとはともかくかけ離れてきます。地形はその昔、近くの山が大噴火によって形成され中小の池までいれるとかなりの数が散乱しています。 一年中を通して適度に涼しく水量豊富で住みやすい気候ですが、99%のモスリム圏でおそらくミンダナオ島内一色濃く感じました。


Re: 全て自分の手で行った日比結婚の顛末 ( No.8548 )
日時: 2013年10月26日 06:21
名前: 桜島 [ 返信 ]
[ 編集 ]
アイコンCavite様
 インドネシアのサバ集の対岸の人々は船で生活する人たちでパスポートなしでインドネシアと行き来しペソ紙幣で取引しているのを見たのは20年以上前のことでしょうか、今では船そのもので暮らす人々はいなくなったのかもしれませんね。
それにしてもCAVITEさんの上げられた地名は私のたび心をくすぐるところばかりですね、もはや私も観光旅行では興奮できない体になってしまいました(笑)、バシー海峡ですがここも20年ほど前にヨットで通過しています、台北を出航してから5日ほどだったでしょうか、そろそろ陸が恋しくなるころで、どれほど島に上陸したかったでしょうか、フィリピンの入国を終えてなかったので涙を飲んで島々を横目に通過したことを鮮明に覚えています、ここの島々最後の楽しみに再びヨットで訪れたい場所に残しておきます。
マニラヨットハーバーで隣り合わせたヨーロッパからのヨットのりの話では小さい島なら入国前でもその島の首長の許可があれば上陸してきたそうですが、もちろん正式な入管へは内緒でといううことでした。
ヨットのたびは、宿泊料が要らない、交通費が要らない、どこでも好きなところにいけるのがメリットですね、ただ時間が限りなくかかるので仕事がある自分には今のところ長期の航海は無理ですねそのうち昔やった時間切れで現地に船を置いて飛行機で帰国とか考え中です(アメリカ人がよくやってます)
といううわけで私のたび心の灯は消えないどころかますます大きくなっていきます、次回の長期休みには嫁さんを里帰りさせて、婆さんのパスポートが取れビザが下りれば婆さんともどもこちらに来る予定なので私はその間台湾の山登りでも行こうかと画策中です。

たくさんのおいしい情報をどうもありがとうございましたこれからもどうぞよろしくお願いいたします。


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