近畿植物同好会 掲示板
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牧野富太郎関連の実在の人物の経歴など
藤井俊夫 投稿日:2023年08月05日 09:55 No.776
NHKの「らんまん」は、当時の日本の植物学の発展に寄与した人物の人間模様を劇的に演出する架空のドラマです。
●NHK連続テレビ小説「らんまん」概要
https://www.nhk.jp/p/ranman/ts/G5PRV72JMR/
上記siteの、「この番組について」を参照。

実在の学会誌名や、架空の新種記載の論文を用いるから、どこまでが事実で、どこまでが虚構なのか、曖昧になっています。
人物関係や行動がすべて日記などで残っているわけでもなく、再現ドラマでもありません。
このことを踏まえたうえで、観賞するべきでしょう。

************●以下は、各種文献等から抜粋した、実在の人物の経歴です●***************************

●科博のsiteに、矢田部良吉の紹介がありました。
以下に、矢田部亮吉、松村任三、大久保三郎、牧野富太郎、マキシモヴィッチの経歴を記述します。

●矢田部亮吉デジタルアーカイブより
以下のsite
https://dex.kahaku.go.jp/yatabe
このsiteも以前の掲示板に掲載したはず?

「らんまん」の登場人物と実在の人物との関係は?。コオロギラン、ムジナモの原記載・植物画など 藤井俊夫
投稿日: 2023年07月28日 15:30:55 No.768 【返信】に、載せています。
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①トップ:文明開化の科学者・矢田部良吉の生涯
 第1章 洋学修行
 第2章 アメリカ留学
②第3章 植物学教室の立ち上げ
 第4章 新体詩とローマ字運動
 第5章 女子教育
③第6章 植物学研究
 第7章 教育と学問
④第8章 波瀾の生涯
上記、①から④が、植物学教室関係だと思います。

上記の文章に、矢田部教授の功績(第1章から第7章)と、「1899年の不慮の水難事故、激烈な性質(第8章)」について記述されています。
これも以前の掲示板にsiteを引用していたはずです。
1891年に非職となる。
この前後、1890年に松村任三が教授になっていました。下記、人物年表を参照。

掲載資料一覧のsite
https://dex.kahaku.go.jp/yatabe/archives
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●矢田部良吉:(1851年10月13日(嘉永4年9月19日) - 1899年(明治32年8月7日)

明治10年(1877年):東大が設立される。理学部教授に就任。
明治15年(1882年)2月25日、東京植物学会(現・日本植物学会)を設立し、会長に就任。
明治23年(1890年)11月、東京大学に出入りして研究をしていた牧野富太郎に対し、大学の書籍・標本を使って自著を編纂することを止めさせる。
【牧野が、ムジナモ発見の報告】
明治24年(1891年)3月、教授職を非職となる。
(●藤井注:この後は、植物学教室の文献や標本資料を自由に使えなくなり、牧野とも会う機会がないので、ムジナモの細密画の発表(1893年)に
 ついては、知らなかったと考えるのが自然です)
明治27年(1894年)3月、非職満期により免官。
明治32年(1899年)8月7日、鎌倉沖で遊泳中に溺死。
 ※:以上、日本語版Wikipediaより
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●松村任三(1856年2月14日〔安政3年1月9日〕- 1928年5月4日)

東京帝国大学理学部植物学教室教授、附属小石川植物園の初代園長。
1877年、東京大学小石川植物園に奉職し、矢田部良吉教授の助手となる。
1890年、帝国大学理学部植物学科の教授に就任。【牧野がムジナモ発見の報告を学会誌に発表】
1891年 (●矢田部が教授職を非職となる)
1893年 牧野を助手として採用。【牧野がムジナモの細密画を学会誌に掲載】【牧野:31才】
1897年、東京帝国大学理科大学附属植物園に園長職が設けられ初代園長に就任。
1922年、東京帝国大学退官。
1928年、脳溢血のため、東京の自宅にて死去。
※:以上、日本語版Wikipediaより
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●大久保三郎(1857年6月14日(安政4年5月23日) - 1914年(大正3年)5月23日)は、日本の植物学者。

1878年(明治11年)に内務省に務めた後、東京大学御用掛、小石川植物園の植物取調に任じられた。
1883年(明治16年)助教授に昇進し、矢田部良吉を補佐し、標本施設拡充に貢献した。
1889年(明治22年)に『植物学雑誌』に牧野富太郎と連名でヤマトグサを日本で初めて学名をつけて発表した。
1895年(明治28年)三好学がドイツ留学から帰国すると、大学を非職となる。
※:以上、日本語版Wikipediaより
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●牧野 富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日〈文久2年4月24日〉 - 1957年〈昭和32年〉1月18日)

1884年(明治17年)22歳で東京大学理学部(後の帝国大学理科大学)植物学教室の矢田部良吉教授を訪ねる。
1887年(明治20年) 25歳で、同教室の大久保三郎や田中延次郎・染谷徳五郎らと共同で『植物学雑誌』を創刊。
1888年(明治21年)26歳で『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。一目ぼれした小澤壽衛(14歳:母親が営む芸妓置屋や菓子屋で
    貧しい生活を送っていた)と同居生活を始める。
1889年(明治22年)27歳で新種の植物を発見。(ヤマトグサの新種記載)
1890年(明治23年)28歳のときに東京府南葛飾郡の小岩町でムジナモを採集。
   同年、矢田部教授により植物学教室の出入りを禁じられ、『日本植物志図篇』の刊行も六巻で中断してしまう。
1891年にマキシモヴィッチが死去したため、ロシア行きを断念。:矢田部教授が非職に。
1893年(明治26年)31歳。矢田部非職後に東京帝国大学理科大学の主任教授となった松村任三教授に呼び戻される形で助手となった。
         ムジナモの植物画を植物学雑誌に発表。
1900年(明治33年)38歳。未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく『新撰日本植物圖説』を刊行する。
         ●このころ、東大から「大日本植物志」が刊行され始める(1900-1911)
1905年(明治38年) 43歳。牧野の実家「岸屋」が経営難に陥り、「司牡丹」の前身に買収される。
1916年(大正5年) 44歳。個人で『植物研究雑誌』(wikipedia)を創刊。
    生活苦から収集した植物標本10万点を海外の研究所に売ることを決断する。
    池永猛(当時、京都大学の学生)が救済する。父の遺産から3万円で標本を購入し、牧野へ寄贈する形をとり、神戸に池永植物研究所を創設。     
1925年(大正14年)妻、壽衛が渋谷の料亭「いまむら」で稼いだ資金を使って、練馬区東大泉に邸宅を建てる。現在の練馬区立牧野記念庭園になる。
1927年(昭和2年) 65歳で東京帝国大学から理学博士を受ける。論文の題は「日本植物考察(英文)」。同年に発見した新種の笹に、翌年死去する
    妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。
1928年(昭和3年) 66歳。妻、壽衛死去。
1940年(昭和15年)78歳。東京帝国大学を退官後、研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行。
1957年(昭和32年)、死去。享年95(満94歳没)。
1958年(昭和33年)東京都立大学理学部牧野標本館(MAK)開館。高知県立牧野植物園・練馬区立牧野記念庭園開園。

結局牧野は帝大に必要な人材とされ、助手時代(1893年(明治26年)9月11日)から計約46年間、大学に留任している。
 ※:以上、日本語版Wikipediaより
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●都立大 牧野標本館(MAK)。:牧野標本、約40万点を収蔵。
https://www.biol.se.tmu.ac.jp/herbarium/
https://www.biol.se.tmu.ac.jp/herbarium/id-3.html
●高知県立牧野植物園:植物標本庫は2000年から(約30万点を収蔵)
https://www.makino.or.jp/
●練馬区立牧野記念庭園:牧野富太郎の邸宅跡を利用。
https://www.makinoteien.jp/
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●カール・ヨハン・マキシモヴィッチ(Carl Johann Maximowicz または Karl Johann Maximowicz)(1827年 - 1891年)

1853年 東アジア歴訪
1859年 調査結果を「アムール地方植物誌予報」として学会に提出する。
1860年ー1864年2月まで日本に滞在。滞在中に、日本に滞在中のシーボルトと面会している。
1861年 ●須川長之助(すかわ ちょうのすけ、1842年3月17日(天保13年2月6日)- 1925年(大正14年)2月24日)
     マキシモビッチに代わり、日本の植物採集を行った。チョウノスケソウに名を遺す【牧野が長之助を記念し、和名に献命した】。
1891年 マキシモビッチ死去。

※:以上、日本語版・英語版Wikipediaより
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●Komarov Botanical Institute of RAS(LE)
ロシア科学アカデミー:コマロフ植物研究所(サンクトペテルブルグ植物園)

1714年にピヨートル1世の命令でつくられた、薬草園が始まり。
The Institute's LE Herbarium has approximately 200,000-250 000 specimens from Latin America in storage.
マキシモビッチが植物研究をした舞台。

 ※:以上、日本語版・英語版Wikipediaより
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●矢田部良吉が命名にかかわったと思われる植物。(Y-listから作成)

Elaphoglossum tosaense (Yatabe) Makino  ヒロハアツイタ 標準:Makino in Phaner. Pter. Jap. Ic. Ill. 1: t. 53 & 54 (1901)
Elaphoglossum yoshinagae (Yatabe) Makino  アツイタ 標準:Makino in Phaner. Pter. Jap. Ic. Ill. 1: t. 51 & 52 (1901)
Goniophlebium someyae (Yatabe) Ebihara  ミョウギシダ 標準:Ebihara in Bull. Natn. Mus. Nat. Sci. Tokyo 38: 119 (2012).
Micropolypodium okuboi (Yatabe) Hayata  オオクボシダ 標準:Hayata in B.M.T. 42: 341 (1928)
Tricyrtis nana Yatabe チャボホトトギス 標準:B.M.T. 7: (39), t. 3 (1893)
Goodyera hachijoensis Yatabe var. hachijoensis  ハチジョウシュスラン 標準:B.M.T. 5: 1, t. 19 (1891)
Polygonatum amabile Yatabe  ヒメナルコユリ 標準:B.M.T. 6: 279, t. 8 (1892)
Corydalis pallida (Thunb.) Pers. var. tenuis Yatabe  ミヤマキケマン 標準:B.M.T. 6: (99) (1892)
Hylomecon japonica (Thunb.) Prantl et Kündig f. lanceolata (Yatabe) S.Akiyama  ホソバヤマブキソウ 標準:in K.Iwats. et al., Fl. Jap. 2a: 445, in adnot. (2006)
Thalictrum watanabei Yatabe  タマカラマツ 標準:B.M.T. 11: (307), t. 9 (1892)
Peltoboykinia watanabei (Yatabe) H.Hara  ワタナベソウ 標準:B.M.T. 51: 252 (1937)
Syzygium cleyerifolium (Yatabe) Makino  ヒメフトモモ 標準:Makino in B.M.T. 16: 15 (1902)
Maackia tashiroi (Yatabe) Makino  シマエンジュ 標準:Makino in B.M.T. 16: 34 (1902)
Spiraea nipponica Maxim. var. tosaensis (Yatabe) Makino  トサシモツケ 標準:Makino in B.M.T. 20: 28 (1906)
Euonymus lanceolatus Yatabe  ムラサキマユミ 標準:B.M.T. 6: (179) (1892)
Diplomorpha albiflora (Yatabe) Nakai  ミヤマガンピ 標準:in Nakai J.J.B. 13: 881 (1937)
Dianthus shinanensis (Yatabe) Makino  シナノナデシコ 標準:in Makino B.M.T. 17: 58 (1903)
Kirengeshoma palmata Yatabe  キレンゲショウマ 標準:B.M.T.4: 433, t. 18 (1890)
Primula nipponica Yatabe  ヒナザクラ 標準:B.M.T.4: 357, t. 13 (1890)
Primula tosaensis Yatabe var. tosaensis  イワザクラ 標準:B.M.T. 4: 391, t. 14 (1890)
Leptodermis pulchella Yatabe  シチョウゲ 標準:B.M.T. 4: 356, t. 12 (1890)
Physaliastrum echinatum (Yatabe) Makino  イガホオズキ 標準:Makino in B.M.T. 28: 21 (1914)
Miricacalia makinoana (Yatabe) Kitam.  オオモミジガサ 標準:Senecio makinoeanus Yatabe in B.M.T. 6: (115), t. 3 (1892)
Sium suave Walter var. ovatum (Yatabe) H.Hara  ヒロハヌマゼリ 標準: in B.M.T. 5: 73, t. 22 (1891).
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矢田部教授は、1887年に植物学雑誌を創刊し、1899年、鎌倉沖で遊泳中に溺死するまでの12年間で、24種の植物を記載していることになります。
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●蛇足
以下は、植物(薬草)を扱っている関係者がすぐにおかしいと気づく場面

【連続テレビ小説】らんまん 第06週「ドクダミ」: 

ドクダミ:臭い成分はラウリン酸アルデヒドなど。熱を加えると、匂いは消える。
ドラマでは、槙野が盗まれた植物標本を匂いで見つけたとしているが、ドクダミの臭い成分である「デカノイル・アセト・アルデヒド」などは、熱や乾燥に弱く揮発性なので、標本をつくって長期間放置すると臭いは消えてしまいます。
標本をつくって、高知から東京まで運ぶ時間を考慮すると、臭いは消えているはずです。

植物標本で、匂いが長く残るのは、ミカン科(サンショウなど)、クスノキ科(ニッケイなど)、香辛料に使う植物と、オミナエシなどがあります。
オミナエシは中国では「败酱(廃醤)」と呼び、その名の通り、乾燥すると醤油の腐った臭いがします。
植物を収蔵している標本棚で、匂いで標本のありかがわかる数少ない植物のひとつになります。
植物の専門家が監修しているなら、「オミナエシ」を使ってほしかったと思います。
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●牧野富太郎の家族(Wikipediaより)

祖母・浪子
父・佐平
母親は、早くして亡くなる。

妻・壽衛
長女・香代
次女・鶴代(母・壽衛の没後は父の研究と生活をささえた。孫は牧野記念庭園記念館の学芸員・牧野一浡(かずおき)。
長男・春世
次男・百世
三男・勝世
三女・己代
四女・玉代

**********★Wikipediaなどから★************
●逸話
富太郎の金銭感覚の欠如や、周囲の人にたいする彼の振る舞いにまつわる逸話は多い。
植物だけではなく鉱物にも興味をもち、音楽については自ら指揮をとり演奏会も開き、郷里の音楽教育の振興にも尽力した。
妻が始めた料亭の収益も研究につぎ込んだという。その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した出版などが元で大学を追われたこともある。
●発見、命名した植物
命名は1500種以上とされる。
https://www.biol.se.tmu.ac.jp/herbarium/id-3.html
●収集した標本、蔵書
牧野の個人所蔵標本で、40万点と言われる。重複標本を除いた16万点が都立大・牧野標本館(MAK)に収蔵されている。
https://www.biol.se.tmu.ac.jp/herbarium/id.html
蔵書数は6万点と言われる。高知県の牧野富太郎記念館に収蔵されている。
高知県立牧野植物園, 2002.7。牧野富太郎蔵書の世界 : 牧野文庫貴重書解題。
https://www.makino.or.jp/spot/detail.php?id=10


●追伸
今日はこれから植物園案内(熱中症警戒アラート発令なので、室内で)
行事案内にも書いてました。
牧野富太郎関連の人物を調べるのに、2日もかかってしまった。




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