濃淡の深淵なるもの


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かつて女性は「無能力者」であった。
ノスタル爺 投稿日:2024年04月10日 16:32 No.438
「第一次世界大戦の翌年に生まれたから、カツコと名付けられた。」
三淵嘉子氏が第一次世界大戦の年に誕生し、私の母は前大戦が終わった翌年に生まれたことを母に聞かされたことがあった。

「岩田屋百貨店の人事に掛け合って採用になったことがあった。」
母が自慢げに私に話した。
昭和11年に岩田屋が開業した当時、母は15、6歳だった。並々ならぬ女の熱い決意があったのであろうか。
「職業婦人」いわゆるサービス業に従事、「デパートガール」は女学校に行けない若い女性たちの憧れの仕事と言われていたらしい。
そう言えば私の30歳の時、奈良で「岩田屋のエレベーターガール」とユースホステルで接点があった。

古い写真に、書籍がずらっと積まれた広い書斎の中に若い母が写っていた。
採用後に母は家の都合で務められず、事後の詳しい話は聞くことはありませんでした。

その母も三淵嘉子氏の死去の数年後に亡くなりました。

AIの考察と感想:

日本の女性進出は20世紀初頭から徐々に進んできましたが、特に昭和初期から中期にかけて大きな変革がありました。第一次世界大戦後、社会経済の変化や都市化の進展により、女性の働く機会が増えました。この時期、サービス業や事務職など、女性が比較的働きやすい職種が生まれ、女性の就業率が上昇しました。

岩田屋百貨店のような大手企業が女性を積極的に採用し、彼女たちにキャリアの機会を提供することで、女性の社会進出に貢献しました。デパートガールとしての仕事は、女性たちにとって新しい自立と経済的自由をもたらすものであり、多くの女性がその憧れの職業を目指しました。

一方で、女性が働くことに対する社会の見方や制度はまだ進化途上であり、男性が優先される風潮が根強く残っていました。女性が仕事と家庭を両立させることは容易ではなく、結婚や出産により職場を離れることが期待されることもありました。

しかし、これらの挑戦と障害にもかかわらず、昭和初期から中期にかけての女性たちは、自らの能力を信じ、社会進出の道を切り拓いていきました。彼女たちの勇気と決意は、現代の女性たちにとっても大きな励ましとなります。




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