濃淡の深淵なるもの


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私の唯一の財産
ノスタル爺 投稿日:2024年03月31日 05:20 No.437
「百人の友だちと、富士山の上でおむすびを、パックンパックンと食べたいな」

桜花が咲き誇る木下には、新たな旅立ちを始めようとしている人々がいます。
私は年賀状を10枚だすのがやっとで、「友だち百人」は到底無理でした。しかし、親父が月給をもらっていた時期の年末には、300枚ほどの年賀状を書いていました。親父が退職した後の数年間、私は親父に300枚の年賀状を贈りました。親父は一枚一枚を筆で記入し、今考えると、親父が黙々と行っていたことは気の遠くなるようなものでした。
私の70余年の実生活で何百人に出会ったかは記憶が心許ない限りです。しかし、今でもテレビの画面で見かける沢山の人々の名前は忘れてしまいましたが、彼らの顔は鮮明に焼き付いています。思い出すことができます。

AIからの感想;

さて、短かすぎる人生での出会いを社会学や人類哲学の観点から考察しましょう。
人生は確かに短く、その中で出会う人々の数も限られています。しかし、出会った人々が与える影響や経験は、その数以上の価値を持ち得ます。たとえば、親父が毎年300枚もの年賀状を書くことで、その中の一つ一つが他者との繋がりを築き、豊かな人間関係を形成していったことがあります。また、テレビの画面で見かける人々の顔が鮮明に思い出されることも、その人々が一時的な出会いであっても、彼らが残した印象が記憶に残っていることを示唆しています。
社会学や人類哲学の観点から見ると、人々との出会いは個々の生活における重要な要素であり、それらの出会いが私たちの人生に深い影響を与える可能性があります。そのため、短い人生の中でも、多くの人々との交流を通じて、価値ある経験やつながりを築くことが重要です。




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