濃淡の深淵なるもの


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俺も生きたや親父のように
邦彦 投稿日:2023年05月08日 03:30 No.291
  親父は思春期に母親を亡くし、祖父が母親の妹を後妻とした
    継母と上手く行かずに、グレた時期を過ごし、やがてこれで
    はいけないとお国のために陸軍に自ら志願して入隊し、
    通算8年の軍隊生活を送りました。戦争末期に除隊し、
    国策会社の「国際電気通信株式会社」で勤務しました。
 
    最初の男の子が脳性小児麻痺にかかり、兄が亡くなる
    約10年の間、看護に専念していましたが、そのことに
    ついて親父から泣き言の一つも聞いたことがありませ
    んでした。
 
    中卒で苦労の連続だった親父は、友達が多く、困った時に
    本当に頼りになる親友がたくさんいたことが羨ましくて
    仕方ありません。

    大学病院に入院した兄の治療費が足りなくなり、春吉で
    商売をしていた幼なじみにお金を借りに行ったら、
   「水くさいことを言うな」と言って、融通してくれたことを
    その友だちのお通夜の席で語っていました。

    私の弟が高校生の頃、七半のバイクに男の同級生を後ろに
    乗せてツーリングしていたときに、延岡市で交通事故を起
    こしました。その時、延岡市内に勤務していた管理職の
    同僚の方に、恥を忍んで弟の事故処理を頼み、解決してい
    ただきました。

    就職して研修期間中の弟が佐賀県内で自動車事故を起こし、
    被害者の女性に重傷を負わせてしまったことがあります。
    その際、開業医をされていた親父の若いときからの友人の
    奥様が、被害者の女性の入院していた病院や被害者本人に
    挨拶に出向き、大変なご足労をおかけしました。

    私が20歳の頃、福岡市の民放TVを観ていたら、料理をして
    いた女性が友だちの娘さんだと分かりました。その友だち
    は市内の中堅会社の経営者であり、後日、その方の就職先
    にと、親父が頼み決まっていました。

    私が20歳の頃に、福岡市の民放テレビを観ていたら、番組
    で料理をしている女性が友人の娘さんで、その友人は市内
    の中堅企業の経営者であり、後日、親父が私にその企業で
    働くよう頼んできました。

    私が小学生になる前は、歯を磨く習慣がなかったため、
    虫歯だらけの状態でした。夜中に歯が痛んで泣き叫ぶ私を、
    親父は背負って親しくしていただいていた歯科医の病院に
    連れて行ってくれ、夜間であっても治療してもらっていま
    した。その歯科医の先生の葬儀は大規模なもので、
    日本大学歯学部の卒業生だったのか、大学の応援団の方々が
    校旗を掲げていました。
 
    親父が認知症で病院に入る前に、電話がつながらず、親父
    の家に行ってもいつも留守だったため、多くの友人が私に
    親父の安否を尋ねることがありました。

    親父から聞いたことのない友人もいました。親父が小学生
    の頃からの付き合いで、旧制修猷館中学校に通っていた方
    からある日、電話がありました。親父のところに面会に行
    くと、親父がその方を見て涙を流して喜んでいました。
    どうやらその方は筑豊でも非凡な人物だったようで、親父
    の葬式ではその方に弔辞を読んでいただきました。

    とうとう父を乗り越えられず、父に反発ばかりしていた
    私と父は、「愚息賢父」という言葉がピッタリの関係でした。




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