投稿者:とら
浩泉丸様も収集で天保銭を入手なされ、あまり人前にお出にならぬ関東のAさんも登場となると本格的な春も近いのでしょうか。
嵌郭・一手間余計で、一連の嵌郭は作品と疑われています。
その一方、間違いなく当時作られたものも存在します。
実際、本座でさえ広郭や中郭は嵌郭されたものですので。
その一つに、斜珎手嵌郭があります。
比較の為、斜珎の3枚を良くご覧ください。尓は斜めになっておらず、確かに離貝宝なのですが、斜珎が浸透し離貝宝と呼ぶ人はいないようです。3枚を比較すると特徴が分かります。
4枚目はあまり使用されていない斜珎手嵌郭、嵌郭の度合いが少なく分かりづらいのですが、背の穿や面背の郭をよくご覧になれば分かります。
どこで入手したか失念しましたが、斜珎として売りに出ており、銭文や郭等が異なるので、頑張って手に入れたと記憶しています。目立った銭文の相違は、通のマや当の田、郭には嵌郭の痕跡。
サイズは、49.44mm、32.73mm、41.1mm、18.64g。
5枚目は使用感のある、これぞ斜珎手嵌郭という品ですが、文字が潰れ離貝していません。
サイズは、49.17mm、32.49mm、41.0mm、20.22g。
6枚目は、背を比較するため、斜珎と同様の細郭手削頭天を掲載。
これら一連の貼り合わせ手の鋳造地は同一なのか私にはわかりません。
ただ、私見ですが、天保銭の密造はよっぽど大規模にやらない限り利益は出ません。
利益を出そうと思ったら二分金です。
天保時代なら利益が出たかもしれないが、そのころは幕府の力が残っており、リスクが高すぎ作れなかったはずです。維新前後では、大量に作った、薩摩の広郭でもあまり利益は出なかったのではないかと思います。
天保銭の密造地など限られていると思うので、同じところで作ったような気もします。
鋳造地がわからず、あれこれと想像するのも天保銭の魅力です。