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投稿者:旭泉亭
 おはようございます。南部銭、ボウ鋳銭を中心に寛永銭を集めています。僭越ながら、以下のとおり私見等申し上げます。  雑銭のなかから選り出されたものは、仰寶の通用銅銭で良いと思います。南部銭は、同じ銭種でも多種多様です。特に仰寶は、赤いもの、黒いもの、黄色いもの…と、銅色から仕上げまでバラエティに富んでいるようです。  盛岡藩で正式に四文銭の鋳造が始まったのは、慶応2(1866)年とのこと。大迫銭座だけでなく、今の釜石から内陸に入ったあたりに幾つかの銭座(栗林、橋野など)が設けられ、鉄銭を鋳造したそうです(新寛永通寶図会91頁)。そして、複数の銭座で鋳造された事情が、バラエティに富む南部銭の大本になっているように思います。  明治2(1869)年12月、通貨鋳造禁止令が新政府から出され、それら各銭座は鋳銭を停止したとされています。しかし、明治4(1871)年には、橋野銭座で鋳銭を続けていたことが露見し、当時の管轄・江刺県に検挙されたとのことです(南部銭誌第一輯17頁)。  仰寶は、基本的に鉄銭ですが、案外銅銭もみかけます。私の経験ですが、宮城県北から出た銭サシ3200枚中、7枚の仰寶が出てきて、内4枚は仕上げの様子から母銭でなく銅通用と判断しました。岩手県宮古から出た銭サシ780枚から0枚(但し母銭1)。岩手県南から出た400枚からは0枚。岩手県遠野から出た854枚から1枚(通用銅)。青森県南部地方(盛岡ないし八戸藩領の意)で300枚弱から1枚。踏潰よりは少ないと感じていますが、それなりにあるように思います。  慶応2(1866)年以前、鉄銭と銅銭は、少なくとも幕府からみた表向きにおいて、同価値で通用するものとしていたようですが、慶応2(1866)年閏5月以降、明治5(1872)年までの間、段階的に銅銭の価値が鉄銭に対し上昇したようです(明治前期における銭貨流通と銭貨政策:ネットでPDF閲覧可)。  これら条件より、原料調達が可能な場所(金属材や木炭材など)で明治4(1871)年頃まで銅銭が密鋳されたもの思います。  なお、明治2(1869)年は、かなり酷い凶作だったことが諸文献に見えます(近世の飢饉:260頁)ので、これを契機として密鋳が多発したのかもしれません。うろ覚えですが、南部密銭史にもそのような記述があったように記憶しています。宝暦・天明・天保など近世の飢饉は学問的にも研究が進んでいるようですが、明治初頭の凶荒を明らかにしようとする研究は、探してみても無さそうです。  添付の写真は、私の所蔵品(一例)です。右下のものは、明治初年に浄法寺で密鋳されたものと言われていますが、真贋を含め様々な意見があるものように聞いています。少なくとも、このままの状態で通用させることは、出来なかったでしょう。  江刺県の検挙と同じく明治4(1871)年、浄法寺の贋金密鋳露見未遂事件(飛鳥事件)が発生し、慌てて密鋳を中止したため、未仕上げのものが残った…と説明されているようです。飛鳥事件については、月刊収集2020年3月号で詳述されています。  現地取材に同行された方とお話しましたが、地元では古貨幣収集家でない一般住民でも知っている話であり、道を歩いていたおばあさんに声を掛けたらどこから安比川に身を投げたのかという伝承も知っていたとの話でした。  盛岡藩は、奥羽列列藩同盟の一員として新政府に降伏した藩だったため、殊更カオスな社会状況だったものと思います。そんなこんなで、色々なものがあるのだろうと思っています。  以上、ヒマに任せた長文、失礼しました。
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