投稿画像

2

投稿者:七時雨山
広郭の天保銭は、弘化4年から慶応4年まで金座により、断続的に浅草橋場において鋳造されていた。 慶応4年3月16日金座の鋳造所は閉鎖され、同4年4月26日からは新政府の貨幣司によって真崎鋳造所において天保銭の鋳造が再開された。 明治2年2月5日造幣局が開設されたことにより貨幣司は廃止された。 明治2年10月18日北海道開発資金捻出のため新たに出納司により天保銭の鋳造が開始され、出銭は北海道に送られ使用された。 出納司は明治3年8月5日に廃止され、天保銭の鋳造は終了した。 このように3度に渡り広郭天保銭が鋳造されていて、その度に質が低下していった様です。職人は金座時代の職人がそのまま従事していたようです。 当然に原料の調達先も変化し、銅質も変化していったと想像できます。母銭も次第に縮小していったことが推測されます。 長径50ミリ、銭文径42ミリ前後が金座によるものと考えて良いのではないでしょうか。 他に幕末に官軍が江戸に入った際に、銭座等を接収し母銭等を持ち出し、関東以北で使用したという説もあります。現に東北地方から変色した母銭が見つかっています。 このような事情により新政府が発行した天保銭を水戸正字と誤認したと考えられています すでに手放してしまった物ですが、参考までに銭文径が41.65ミリの広郭母銭を掲示します。
投稿記事
画像を拡大