投稿者:協調情報管理室長アンナ・アルフベン
さて、ここまでがカールレ一世の権力確立についてですねぇ。
次に登場するのがラプア運動です。
1930年にドイツは戦後の経済復興を推進したティルピッツ首相が在職中に死亡した事により一時的な混乱に陥りました。
ベルリンの株価は36年ほどでないにせよ急落し、ドイツの勢力圏諸国は不況に突入しています。
その影響もあったのでしょうね。
議会制への不信感が高まったポフヤンマーの農村部の自警団と保守的な富裕層はコソラを旗頭に大集会を開き、これをラプア運動と称しました。
彼らは左派勢力の一掃とそれに手をこまねく”惰弱な議会”の解散を国王へと求めました。
カールレ一世はこれを好機としてアカ狩り‥‥【法秩序回復の王令】を発令しました。
現在んは国民軍政府首相であるヴィロライネンもこの時に国外へと逃れています。
そしてその2年後。
勢力を拡大したラプア運動は農村の自警団を糾合してヘルシンキへ行軍。
国王はこれを受け入れて組閣の大命をコソラに下し、国民議会を解散させました。
これにより国王とその側近のドイツ官僚団。ロシア・ドイツへ渡航経験のある者たちが首脳部を為す軍部、ラプア運動とそれを支持する地主達。
この3頭体制によるラプア運動独裁政権が樹立されました。
‥‥現大統領のリュティ閣下は国民進歩党の議員でしたが議会を構成する都市富裕層との妥協の為、フィンランド銀行総裁に就任しています。