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遣欧使節の支倉常長とセビリア
リワキーノ 投稿日:2022年09月22日 10:28 No.135
今日のCapt.Senooの”朝刊”には強い感銘を受けました。
下記のCapt.Senooの記述をご覧ください。

支倉常長ら遣欧使節団は1613年10月、石巻を出航し3か月後にメキシコ到着。
既に家康がキリシタン禁令を強化した為、一行の大半はメキシコに留まった。
スペイン国王とローマ教皇宛親書託されていたので支倉らはスペイン艦隊に便乗
翌1614年6月大西洋側を出航、途中嵐に遭遇したりでようやく10月にセビリア
到着の記録が残っている。何と丸一年がかりでのセビリアまでの到達、伊達政宗の
政策とは云え、その艱難辛苦は如何ばかりであったろうと想い巡らす。
セビリア郊外の此処コリア・デル・リオには当時訪問の使節団との交流から、流れ
として日本人との混血が産まれ、今日まで累々存続し、JAPONさん所謂ハポンさん
の名を持つ縁者数百人が誇りを持って生活している。我等訪問知ったのか、ハポン
さん二人が喜び駆けつけ、IDカード見せて「私の名はハポンです!」嬉しかった!

「支倉常長とセビリアとの繋がり」2019 May
https://youtu.be/NQ8mK326Ayw
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支倉常長の遣欧使節のことは知ってましたが、このような記念すべき場所が現存してい
ることはまったく知りませんでした。
くり抜いた家の空間がある社と鳥居には感動しました。
こんな詳しいレポートは他には無いのではないでしょうか。
それに現地にとどまった伊達藩士の子孫が多く残っていてそれを誇りにしていることも
胸を打ちました。

すぐにウイキペディアで支倉常長のことを調べたところ、次のことが載ってました。
有色人種で唯一、ローマ貴族に列せられたこと。
油絵で描かれた初の日本人であること。
支倉常長の子は禁止されていたキリシタンが家臣にいたことの責任を取らされ、処刑さ
れて支倉家は断絶したが、孫の時に再興を許されたこと。

他には横に長く延びた建物に、何と壮大な宮殿だ、と思ったら万国博覧会のために作ら
れた施設というのには驚きました。
20世紀によくもあんな宮殿建築を造るものですね。
スペイン人に対する印象がまた少し変わりました。

Capt.Senooの”朝刊”は下記のページから毎日更新された記事を見ることができます。
http://hmpiano.net/Capt.Senoh/after of Koharu page/choukan/newpage_top.html




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