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たいこんじんば
南條MH 投稿日:2024年01月27日 15:25 No.650 (0回)
これ何?って感じでしょ?
山木の祖父の家は屋号が「お茶屋」。京都で言う「お茶屋」ではなくて、日本茶の生産、そして加工。勿論「手もみ」。直接の販売もしてたかな。広く流通するほどの量は無かったと思うけど。
山やあちこちに広い茶畑があって、八十八夜から一か月位は忙しかった。当時、山木ではイチゴが盛んになっていたけど、祖父はイチゴはやらず、現金収入はお茶に特化していたんじゃないかな。
我々子供は休みにはお茶摘みの手伝いや、家では毎日夕方集まってくる生葉の計量や仕分け、早朝からの「蒸し」の仕事の手伝いがあった。自分の畑のお茶だけでなく、持ち込まれたお茶の加工もしてたから。学校に行く前に朝早く起こされての作業は楽じゃなかったな。よく文句も言わずやってたもんだ!
今、振り返ると、あの手もみの光景、なんで写真に残しておかなかったんだろうと後悔。「ホイロ」と呼んでた台の前に、屈強なオジサン達が背中に汗をにじませてお茶を揉んでる姿、残すべきだった。
その茶畑の中に、一時間位山に登った所に「たいこんじんば」と呼ばれる畑があった。意味は分からずただそう呼んでた。その畑に行った時は、まず私たちは谷間に行って水くみ、そこが気持ち良い所で行くのが楽しみだった。
ずっと大人になって、そこは「太閤陣馬」だと知った。豊臣秀吉が小田原北条氏(
=後北条、義時の北条とは違う)を攻める時、その支城である韮山城を俯瞰する場所に陣を張った跡とのこと。「たいこんじんば」や「だいこんじんば」ではなくて「タイコウじんば」だった。
今は山木の家もお茶はやってないし、あの辺りはどうなってしまったか全く見当もつかないけど、そういう「陣跡」を探すマニアがいるらしく、藪になっているという写真がネットに掲載されているのを見て驚いた。


ウッチー 投稿日:2024年01月27日 17:20 No.651 (回)
【太閤陣場】でネット検索したらいきなりヒット 山木や韮山など無しで!!!!。
二枚目の写真にはその案内板とおぼしきものが写っている 日通富士見ランド道路から南に入ったあたりだろうか ここを
更に南に進むと香山寺のところに出ると思ったけど。僕たち私たちは歴史のある町に生まれて鼻が高いね。


南條MH 投稿日:2024年01月27日 17:46 No.652 (回)
そう、山木の家から、上がっていくと最初に「お宮さん」、そこからまもなく「香山寺」の横に出る。さらに上がると左右に分かれ、このY字の所に水場があって、まずそこで牛や馬に水を飲ませた。「太閤陣馬」は左手に上がっていく。しばらく行くと、一本松という場所があってそこでまた休憩。そこからはまもなくだったような記憶。この道も残ってはいるんだね?そうか、今はその新しい道から入って行くような感じなんだ。
山の畑の話のついでに、この「太閤陣馬」からさらに一時間くらい遠い所・東側にも畑があった。「おきあらく」って言ってたけど。そこには小さな小屋もあって煮炊きができるようになってた。近くに「おおさわさん」という家族が住んでた。グラジオラスを作ってた。(ポツンと一軒家だ!)少し上の女の人がいたような気がするけど、学校なんかどうしていたんだろう?
この一番遠い山の畑に行く時も上りは歩いて行った。帰りは牛車の上で、早く駆け下りようとする牛にブレーキをかけるために、ブレーキとなる木の棒にしがみついていた。




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