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夜の王と昼の王ー隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文についてー ( No.53 )
日時: 2021年04月13日 15:32
名前: 白石南花 [ 返信 ]
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1.はじめに

隅田八幡神社人物画像鏡銘文について石和田秀幸氏の解釈が大変に面白い。

https://doshisha.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=12442&file_id=28&file_no=1

私はこの解釈は、日本書紀や日本の古代天皇のあり方を考えるうえで、大変に重要なものであると考えている。
この研究については、一時は歴史雑誌などにも紹介されたが、その後あまり聞かれない。
その理由は石和田氏自身が論文の中でも語っている通り、国語学者からの反論があったためと思われる。

論文では銘文中の「日十大王」を、「曰十大王」(曰はイワク)であるとし、「曰」を「ヲ」と読み、「十」を「計」の略字として、「曰十大王」を「ヲケ」(ケは乙類)と呼んでいる。
石和田氏は、「曰佐」の例を挙げている。
しかし有力な日本語学者が、「曰」の読みは「ヲチ」のようになり、「曰」を「ヲ」と読むのは、略音仮名的な読みであり、時代的には新しいものであるとした。

正直最初にこの論に触れたときには、私も同じような印象を受けた。
しかし、その後魏志韓伝や三国史記の地名や人名表記を見ているうちに、次第に略音仮名は新しいとする見解に疑問を持つようになった。
すなはち韓語は日本語と違い、音節構造が複雑なため、漢字の音で固有名詞を表現するのが難しい。
必然的に漢字をあてる際には、多少の無理は仕方がなかった可能性がある。

石和田氏は魏志倭人伝の、「一支」を「イチキ」ではなく「イキ」と読む例を挙げているが、魏志倭人伝の表音表記には、私見では古韓音と呼ばれる、古い半島系の漢字音に類似した特徴がある。
例えば魏志倭人伝には、「載斯烏越」のような人名も出てくるが、これを日本語を表したものとすると、末尾の「越」は「ヲ」とでも読むしかない。
「一支」は隋書にも表れ、隋時代の標準的な音価では「イキ」とは読めないことから、これも外交に百済系の人物が関与した結果とみることもできる。
また古韓音系の読みで読む必要があると思われる、稲荷山鉄剣銘文にも「半弖比」のような人名も登場し、これも「ハンテヒ」ではなく「ハテヒ」と読むべきであろう。
人物画像鏡銘文には「穢人今州利」のように、半島系の人物が絡んだことは間違いないのである。

これらのことから、私見では石和田氏によるこの読みは正しいとみる。
現在有力な説は、「男弟王」を継体とし、「斯麻」を百済の武寧王とするものであるが、論文に述べられている通り、「男弟王」を継体とするのは無理であり、武寧王が送り主であるとすると、あまりにも鏡の出来が粗雑であるとの指摘が以前からあるのだ。

石和田説がなかなか広まらないもう一つの理由は、石和田氏は「曰十大王」を「ヲケ」すなはち日本書紀の顕宗天皇としている点であろう。
これは顕宗天皇の治世が「癸未」年、つまり503年まであったことになり、日本書紀をたてる立場では、継体即位のわずか三年前のまで顕宗治世となって合わない。
また日本書紀に批判的な立場では、顕宗や仁賢の実在自体を認めないので、それとも合わない。
しかし金石文史料は、文献史料とは独自の資料として、本来文献史料の検証に役立てるべきもので、合わないことはそれほど問題であるとは思われない。
そこで石和田解釈を正として、日本書紀記述を検討してみたい。


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Re: 夜の王と昼の王ー隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文についてー ( No.54 )
日時: 2021年04月13日 15:33
名前: 白石南花 [ 返信 ]
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2.武烈紀の検証

日本書紀と石和田解釈とのずれが最も端的に表れるのが、武烈紀である。
そこには即位四年のこととして、百済新選を引いて、百済の末多王に代わって斯麻王、すなはち武寧王が立った記事がある。
日本書紀では顕宗帝末年から十五年後のことになるが、 武寧王の即位は502年である。

ところがこれを注意深く見るとおかしなことに気づく。
この前年即位三年十一月の記事に、大伴室屋大連に対して指示する話が出てくるのである。

森博達氏によれば、日本書紀の中でも巻十四から巻二十一および巻二十三から巻二十七までは、α群と呼ばれ中国系渡来人が記述したとされている。
その中でも雄略紀から崇峻紀までは用語や記述形式が一貫しており、内容を比較しやすい。
そこで即位直後の記事で任命された重臣が、誰であったかを各天皇についてみてみると下記のようになる。

雄略:平群眞鳥大臣、大伴室谷大連、物部目大連
清寧:平群眞鳥大臣、大伴室屋大連
顯宗:
仁賢:
武烈:大伴金村大連、物部麁鹿火大連
継体:大伴金村大連、物部麁鹿火大連
安閑:大伴金村大連、物部麁鹿火大連
宣化:大伴金村大連、物部麁鹿火大連、蘇我稻目宿禰大臣、阿倍大麻呂臣大夫
欽明:大伴金村大連、物部尾輿大連、蘇我稻目宿禰大臣
敏達:物部弓削守屋大連、蘇我馬子宿禰大臣
用明:蘇我馬子宿禰大臣、物部弓削守屋大連
崇峻:蘇我馬子宿禰大臣

各氏族が大連や大臣となっているが、きれいに世代交代していることが分かる。
途中平群氏が消えているのは、武烈即位前紀に大伴氏により註されているからであるし、大伴氏が消えているのは欽明朝での失脚、物部氏が消えているのは用明朝での仏教をめぐる争での失脚によるものである
これをみると武烈即位時にすでに大伴の大連は、金村になっており、武烈三年条に大伴室屋大連が出てくるのは不自然である。

武烈紀は即位前紀を除くと、その内容のほとんどが武烈の悪行の記述で埋められていて、これは続く継体が血統的に繋がっていないための易姓革命的な脚色であるとの見解がある。
そのような悪行の記述を除くと、百済関連記事と前述の大伴室屋大連の出てくる記事のみが残る。
この記事は本来武烈以前の誰かの記事であったものが、ここに移されていると考えられる。
石和田説によれば、武寧王即位年の502年は、顕宗治世であったことになるのである。
すなはち、武烈三年以降の記事のうち悪行を除いたものは、本来は顕宗紀の記事だったのではないか。


Re: 夜の王と昼の王ー隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文についてー ( No.55 )
日時: 2021年04月13日 15:33
名前: 白石南花 [ 返信 ]
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3.顕宗紀の検証

ここで顕宗の末年をみてみると、顕宗三年四月の記事に続いて、実に不思議な記事が見える。
紀生磐宿禰が任那から高麗(高句麗)に通じ、三韓の王になろうとして官府を整え、神と自称したとの記事である。
この記事によれば、さらに任那の左魯と那奇他甲背たちの策を用いて、百済の適莫爾解を爾林で殺し、帶山城を築いたところ、港からの兵糧が絶えて(百済の)軍隊が飢えたとある。
これは尋常な事態ではない。

まず帶山とは現泰任で、百済時代の古沙夫里、現井邑市古阜面の東方に位置する。
古沙夫里は百済南部の要衝で、神功紀49年条において、古沙の山に誓いを立て、倭と百済の勢力分界点の百済側となった地域にあたる。
これが倭の意志によるものなら、百済との同盟の破棄になる、由々しき事態である。
紀生磐宿禰はまさに倭王権の後ろ盾なしに、百済の敵国である高句麗に通じ、百済勢力圏に侵入して城を作ったのである。

彼は雄略紀に見える、紀大磐宿禰と同一人物とみられ、雄略9年に新羅戦のさなかに病死した大将軍の父に代わって戦場に立ち、兵の統制権を奪って同僚に妬まれ、殺されかけた人物であるが、結局刺客を返り討ちにしている。
おそらく若いころから相当の軍事的才能と、人を動かすカリスマを持っていたのであろうが、それにしても百済乗っ取りはあまりにも大胆であり、平時では考え難い。

この時殺された適莫爾解は、百済王が怒って派遣した、古爾解や內頭莫古解に名前が類似していて、百済の軍事官僚と思われる。
紀生磐宿禰は百済王権に逆らう人々、言わば反乱軍と通じたと思われる。
しかも百済王が軍を派遣する前に軍が飢えたとあるが、もしも平時であれば駐屯地にはそれなりの蓄えがあるはずで、簡単に飢えるはずがなく、すでに百済は軍隊を動員していたと思われる。
つまり百済国内は軍事的緊張状態にあり、紀生磐宿禰はそれに乗じて百済乗っ取りをたくらんだのだ。

この記事は左魯や那奇他甲背などの人名からして、おそらく百済系史料をもとにしたものであろう。
日本書紀編纂者の勝手な想像ではあるまい。
であれば三国史記にもそれなりの記事があってもよさそうである。
しかし現日本書紀の紀年では、この事件は東城王の八年で、前後を見てもそのような気配がないのである。

そこで石和田説に従って、503年が顕宗の在位年であったとすると、東城王の末年501年に、部下が刺客を差し向けて王を暗殺し、王都熊川の至近の地である、加林城に立てこもった記事が見えるのである。
もしもこの事件が501年であれば、あり得ない話ではない。
そうすると、顕宗三年は501年となる。
502年に東城王に代わって武寧王が立って混乱を収束するが、それは武烈紀の四年のことである。
このことから、武烈三年十月条の大伴室屋大連の出てくる記述は、本来顕宗三年四月条に続くものであったとみることができる。
そうすると顕宗紀は本来八年続いたことになり、古事記の在位年と一致してくるのである。

いったいなぜ顕宗紀三年の途中からの記述を武烈紀に移したのだろうか。


Re: 夜の王と昼の王ー隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文についてー ( No.56 )
日時: 2021年04月13日 15:33
名前: 白石南花 [ 返信 ]
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4.継体紀の検証

この改変の事情を調べるために引き続く継体紀を調べてみる。
まず驚くべきことに、前節でみたように顕宗三年を501年とし、八年継続したとすると、顕宗の崩年は506年となる。
現日本書紀の継体即位年の前年である。
つまり改変前の顕宗紀と継体紀はつながっていたのである。

では仁賢紀や武烈紀はどうなるのか。
そこでひとまず改変前の顕宗紀に続けて仁賢紀を置き、継体紀に並行させてみよう。
すると仁賢の没年の仁賢11年は、継体11年に並行するが、驚くことに現継体紀では継体12年に、弟国に遷都している。
顕宗仁賢の崩御と、継体の即位遷都が連動しているのだ。

さらに続く武烈紀を、仁賢紀に引き続き継体紀に並列させると、武烈崩御年の武烈八年は、継体十九年と並行し、その翌年形態は磐余玉穂の宮に遷都しているのである。
武烈の崩御もまた継体の遷都と連動していることになる。

この連動はさらに細かいところまで確認することができる。
仁賢4年に的臣蚊嶋と穗瓮君に罪があり獄死する記事が見え、何らかの政変を思わせるが、翌継体五年に山背の筒城への遷都の記事が見えるのである。
このような連動はただ事ではない。
永らくなぜ継体は即位後20年も大和入りできなかったのかが問われていたが、その時期に大和には別の天皇がいたのであれば不思議でも何でもない。

ではこのような並列は何を意味していたのか。
日本書紀が律令天皇の書として編纂されている以上、二朝並立などがあからさまに書けるわけはない。
実際継体紀での重臣の名と、武烈紀での重臣の名は重複しており、二者が同一の政権内にあったことをうかがわせる。
おそらく現在の日本書紀に編纂される前に、継体紀と仁賢紀、武烈紀が並行するような形で編纂された後、何らかの理由があって再編纂されたものであろう。
継体は最後に磐余の玉穂の宮に即位しているのだから、それ以前は即位前紀であったということになる。
律令天皇制の秩序観からすれば、それは摂政ということになるだろう。
つまり再編纂前の継体紀では、継体19年までの記事は、継体の摂政時代の話とされていたと考えるのが妥当である。

顕宗紀から継体紀は、中国人の手により、かなりの一体感を持って書かれている。
再編纂を行ったときに、うまくやれば顕宗三年の記事や、武烈三年の記事に、このような復元を可能にするような手掛かりは残らなかったと思われる。
うがった見方かもしれないが、歴史書の編纂にあたった人物の葛藤が、このやうな再建の手掛かりを、ひそかに残す行為につながったのであろう。
その原因を調べるためにも、もう少し日本書紀の中に再編纂の痕跡を探してみよう。


Re: 夜の王と昼の王ー隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文についてー ( No.57 )
日時: 2021年04月13日 15:34
名前: 白石南花 [ 返信 ]
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5.安閑、宣化紀の検証

実は安閑、宣化紀にも、重要な手がかりが残されている。
それは安閑即位一年に、物部尾輿大連の記事が現れ、宣化即位一年に物部麁鹿火大連の死亡記事が現れることである。
先の重臣表をみればわかるように、安閑、宣化の即位後の重臣の任命では、物部麁鹿火が大連になっている。
それはいいのであるが、本来先に来るはずの安閑紀の即位元年閏12月に、先に物部尾輿大連の記事が現れ、そのあとに来る宣化即位元年7月に物部麁鹿火大連の死亡記事が現れるのはいかにもおかしなことである。
つまりここにも編纂の痕跡が残してあるのであり、安閑即位元年と宣化即位元年が、再編纂の前には同じ年であったことを示している。
両者が同じ年に即位しているということは、継体紀の例からすると、両者のどちらかは本来摂政として即位したことを示しているのであろう。

安閑即位に関しては、継体よりの譲位があったとされる。
再編纂前には安閑はおそらく継体を次いで天皇となったと書かれていたのであろう。
であれば宣化は摂政となったと考えられる。
再編纂により、摂政時代の継体が天皇とされることになったように、宣化は再編纂の結果天皇として即位したことになったと考えられる。

日本書紀の雄略から崇峻までが、一体感の高い区分であることは説明した。
おそらく中国人によって一貫して編纂された後、何らかの理由があって再編纂を求められのだが、編纂姿勢はかなり真摯なものであったと思われる。
継体の末年を、百済系文書によって決めたとこと、複数の矛盾する記述があって、どれを取るか苦慮したことなどが述べられている。
継体の崩御年を辛亥としたのは、百済系文書によったのだが、そこには辛亥年に、天皇と二人の皇子が同じ年に亡くなったと書かれているという。
であればおそらく再編纂前には、継体と安閑、宣化は同時に亡くなったような作りになっていたはずである。

継体は安閑に譲位した後すぐに亡くなったことになっているが、そもそも不自然な印象がある。
おそらく継体は譲位後も、子供たちの時代には、生きていたのであろう。
この時代には上皇などという制度はないが、譲位によって継承を安定させ、自分は後ろ盾になることで、政変を避ける意図があったお考える。
それは編纂前の継体紀では、磐余の玉穂の宮に即位直後に、磐井の乱が起こることになるからである。
つまり磐井の乱の背景には、継体即位に関する不満もあったのではないだろうか。

継体は地方の出で血統的に遠く、古事記には手白髪に合わせることで、天下を授けたとある。
安閑、宣化も継体同様血筋の点で不安がある存在で、継体にしてみれば継承が覆される心配があったと考える。
再編纂前の日本書紀では、このような歴史的事実をある程度反映して、譲位後は継体が後ろ盾になり、安閑、宣化が天皇と摂政となったと書いてあったのではないだろうか。
現日本書紀では宣化紀四年続くので、安閑の治世も四年続いていたことになっていたはずである。

継体の譲位年は何時であろうか。
古事記には継体の崩御年を丁未としているが、これは527年となり、日本書紀の玉穂の宮遷都の翌年である。
現日本書紀でも、譲位の後すぐに亡くなったように書かれているが、これは譲位と崩御の混乱があったのではないだろうか。
つまり再編纂前の日本書紀では、継体の安閑への譲位は257年で、継体が天皇であったのはわずか二年であったのであろう。

さて再編纂前には、継体はまず摂政となり、その後天皇として即位したことになっていたとした。
であれば安閑は再編纂前に摂政となっていたと考えるのが自然である。
すなはち継体の即位と共に安閑は摂政となったのであろう。
ということは安閑の摂政時代もまたわずか二年のこととなる。

ここで再編纂前の日本書紀による、継体の玉穂の宮即位以後の状況を整理してみよう。

526年ー527年:天皇=継体、摂政=安閑
528年ー531年:後見=継体、天皇=安閑、摂政=宣化

現日本書紀は、安閑の摂政時代の二年間と、宣化の摂政時代の四年間をを在位期間としたものだはないかと思われる。

ここで継体崩御時の年齢について考えてみたい。
古事記では43才、日本書紀では82才である。
古事記の崩年は527年であるが、これは譲位の年で、実際の崩御は531年であり、42才という年齢が実際の崩御年の年であるとすると。
磐余玉穂の宮即位は37才となる。
私はこの即位年の年齢が、不詳な状況で伝わっていたと考える。

日本書紀編纂者は、37才を摂政になった年であると考え、再編纂前には樟葉の宮で摂政になった年の、506年に37才であったと考えたのであろう。
実際にはその時継体はまだ18才であった。
当然そこから20年たった玉穂の宮の即位時には57才になり、没年は62才になる。
これが再編纂前の没年だったのであろう。

ところがこの57才が独り歩きし、再編纂後は506年に樟葉の宮で即位したときが57才となったと考える。
そうすると531年の没年齢は82才になるのである。


Re: 夜の王と昼の王ー隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文についてー ( No.58 )
日時: 2021年04月13日 15:35
名前: 白石南花 [ 返信 ]
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6.欽明紀の検証

継体紀以降の紀年および古事記の崩年干支では、下記のような混乱がみられる。

日本書紀
継体没年:本文531年(在位25年辛亥)、或本534年(在位28年甲寅)
安閑即位:531年(継体25年辛亥)
安閑元年:534年(甲寅)
安閑没年:535年(在位2年)
宣化即位:535年(安閑2年)
宣化元年:536年(丙辰)
宣化没年:539年(在位4年)
欽明即位:539年(宣化4年)
欽明元年:540年(庚申)

継体没年は三説あり、本文の説では安閑元年までに空きができ、譲位により即位直後に継体が無くなったという記述に矛盾する。
また或本の没年では安閑元年が一年ずれる。

古事記
継体没年:527年(丁未)
安閑没年:535年(乙卯)

古事記の継体没年は日本書紀よりだいぶ早い。
一方安閑没年=宣化即位年は日本書紀と一致している。
さらに仏教伝来に関して、上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起には戊午とあるが、現在の紀年では宣化3年になり、欽明朝に仏教伝来の記述に合わない。
とくに元興寺伽藍縁起ではその年が欽明7年としているのである。
このあたりの戊午は538年で、紀年では宣化3年になる。
また日本書紀紀年によれば、欽明在位年数は32年であるが、上宮聖徳法王帝説では41年となっている。

何らかの事実の改変がなされているとして、二朝並立説や継体欽明朝の内乱説などの論がなされてきた。
しかしいずれも記紀の記述のみを根拠としているため、憶測の域を出ないものであった。
しかし石和田説によって、記紀とは独立な根拠が示されることになった。

ここまで見ていて明らかになったことは、日本書紀は再編纂されており、元の記述では摂政などとして、天皇と並立していた期間を、天皇在位期に繰り入れ、常に天皇が政務の中心にいたような記述に変更されていることが明らかになってきた。
継体末年から欽明即位にかけての紀年の混乱は、継体朝末年の三者並立を解消する際の混乱が原因であると考えてよいであろう。
古事記の継体没年は継体の譲位年を誤ったものであるし、日本書紀の安閑と宣化の在位年は、摂政としての在位年を誤ったものである。
欽明即位年については本稿では531年であるとする。
これで上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起の記述のうち、上宮聖徳法王帝説の在位年数が一年長いことを除いて、矛盾もほぼなくなる。
上宮聖徳法王帝説の在位年数は即位年と即位元年の錯誤であろう。

これでほとんどの混乱はなくなるが、問題は古事記安閑の没年がどこから出てきたかである。
日本書紀の安閑元年の干支は、古事記安閑没年の干支からの逆算であると考えられるし、日本書紀或本の継体没年は、やはり古事記安閑没年の干支からの逆算を誤ったものであろう。
ここに欽明即位前紀の記述が意味を持ってくる。
欽明は自分は幼いので、安閑皇后に天皇即位を依頼している。
おそらく安閑皇后は神功紀における神功のように欽明を補佐したのであろう。
実質天皇の地位を代行していたと考えられる。
そしてその没年、もしくは欽明への実質的な天皇位譲位年が、535年(乙卯)なのであろうと思う。
これによって継体紀から欽明紀にまつわる紀年の問題は全て解消した。

それでは一部で唱えられていた、継体欽明朝の内乱説はどうだろうか。
特に辛亥年の継体とその二人の死は、何らかの政変によるものなのだろか。
少なくとも記紀にはそのような記述はなく、変事による死なのか、疫病などによるものか分からない。
これを再び重臣でみると下記のようになる。

安閑:大伴金村大連、物部麁鹿火大連
宣化:大伴金村大連、物部麁鹿火大連、蘇我稻目宿禰大臣、阿倍大麻呂臣大夫
欽明:大伴金村大連、物部尾輿大連、蘇我稻目宿禰大臣

物部麁鹿火大連は宣化紀で亡くなっているので、重臣は完全に引き継いでいる。
少なくともこれでみる限りは、大規模な政変はなかったように見える。


Re: 夜の王と昼の王ー隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文についてー ( No.59 )
日時: 2021年04月13日 15:35
名前: 白石南花 [ 返信 ]
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7.夜の王と昼の王

ではなぜ日本書紀α群は再編纂を要求されたのであろうか。
摂政が立って、職務を代行すること自体は、神功紀にみるように問題にされているようには思えない。
日本書紀α群は、巻14~21と巻24~26であるが、後者のグループは祖先を意味する語がβ群と共通する。
森博達氏によれば、日本書紀はβ群に先立って、α群の巻14から編纂され始めたという。
しかし後者のグループの用語がβ群と共通するということは、後者の巻24~26の編纂の時期には、β群の編纂が始まっていた可能性がある。
このことから、まずα群の巻14から編纂が始まった後おそらく巻21の編纂の段階で再編纂が始まり、22巻23巻や14巻以前のβ群の編纂を挟んで、その後巻24~26の編纂が始まったと考える。

ではなぜ22巻の手前で再編纂が起こったのか。
結果から見ると、継体から宣化にいたる摂政政治に対する記述が問題になっているようである。
また継体から宣化にいたる摂政政治は、後に即位することから、ある意味太子時代に摂政政治を行っていたことになる。
このことから、継体朝において太子が摂政政治を行うという記述が、巻22の推古紀において何らかの差しさわりがあったのであろう。

推古紀、そして太子、摂政とくれば思い浮かぶのは、聖徳太子である。
それがいったい何の差しさわりがあったのだろうか。
推古紀は最初α群の作者により編纂されたのかもしれない。
中国人の編纂者は、天皇の書としての日本書紀記述を行っていたのでしょうが、垣間見える編纂姿勢は、制約の中で誠実であると思われる。
その結果律令政権にとって思わしくない事実が明るみに出てしまったのではないか。

おそらく再編纂ではどうにもならなかったため、現推古紀はβ群作者によって新たに編纂され、問題の事実は伺い知れない。
しかし推古紀の時代に行われた遣隋使によって、中国史料によってその一片が浮かび上がる。
推古紀では無かったことになっている、開皇二十年(600年)の使者についての隋書の記録である。

隋書の記録には倭国の政治に関して不可思議な記述が見える。

「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

拙訳

「開皇二十年、倭王の姓はアメ、字はタリシヒコでオホキミと号する。(倭王は)使者を遣わして帝に詣らせた。上は役人を通じそのありようを聞いた。使者の言葉によると「倭王は天が兄であり日が弟である。まだ夜が明けない時に、跏趺して坐り訴えを聴く。日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねる。」。高祖は「それは甚だ義理にかなっていないから改めるように命じる。」と言った。」

すなはち、倭王とは夜に神殿に有って訴えについて神意を聞く存在で、昼間は政務を行わないというのである。
軍事も外交も、様々な行政も昼間に動いているのであるから、倭王は政治の実務を行わず、問題に対する最高決済として神意を聞く存在だったのであろう。
つまり古代天皇制は、祭祀を司る夜の王と、俗事を司る昼の王で行われていたのである。
これは魏志倭人伝にみる卑弥呼の政治形態を思わせるのである。
これがその当時の国際情勢の中で、理にかなわない奇習とみなされたのである。
この後倭王権はこの制度を改めていったのであろう。

推古紀の隠ぺいしたものは、現推古紀の内容から、皇太子が実際の政務を行い、重大な案件については推古天皇が夜、宮殿で神意を問うという形態であったのであろう。
この事件は律令政権にとって、恥ずべき事件としてトラウマになっていたと考える。

α群作者が史料に基づきあぶり出したのは、封印したはずの古い政治習慣であったのだろう。
それを見た宮廷人は困惑し、推古期をあらためて日本人に編纂させた。
同時に過去にさかのぼり、その痕跡が現れていると思われる記事を改めさせた。
そのとき特に摂政として長期にわたって実務を行っていて、二十年たって即位した継体紀が、長大な即位前紀を持つことが問題になったのであろう。
それに続く安閑、宣化の時代には、継体を合わせて三人の権力者が並列していたのであるから、許容しがたかったのであろう。

朝鮮半島では、524年と思われる蔚珍鳳坪碑に、寐錦王と葛文王の二人の王名が刻まれており、六世紀新羅王権が複数の王によって治められていたことが分かっている。
日本においては七世紀初頭に至るまで、そのような政治習慣があったことが分かるのである。

このようなことは律令制の確立した時期に、その時代の価値観を反映して書かれた書物では、このような奇習ともいうべき政治形態は明らかにならない。
まさに金石文の力というべきであり、そうであるからこそ石和田氏の業績はもっと高く評価されるべきである。

私は石和田氏による、隅田八萬神社人物画像鏡銘文の解読は、日本書紀と日本の古代史研究に対する貢献という意味では、稲荷山鉄剣銘文の発見を上回る、歴史的大発見であると考える。

本稿で対象としたのは、日本書紀α群の巻15から巻19までである。
しかし巻14の雄略紀も同じグループに属する。
実は雄略紀の再編纂の痕跡をたどることで、日本書紀における積年の大問題である倭の五王に、全く新しい光を当てることができることが分かっている。
本稿の目的からやや外れるので、これは別稿にまとめたい。


Re: 夜の王と昼の王ー隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文についてー ( No.69 )
日時: 2021年04月14日 10:36
名前: 米田喜彦 [ 返信 ]
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│(No.53)日時:2021年04月13日 15:32 名前:白石南花

│隅田八幡神社人物画像鏡銘文について石和田秀幸氏の解釈が大変に面白い。

│私はこの解釈は、日本書紀や日本の古代天皇のあり方を考えるうえで、
│大変に重要なものであると考えている。
│この研究については、一時は歴史雑誌などにも紹介されたが、その後あまり聞かれない。
│その理由は石和田氏自身が論文の中でも語っている通り、国語学者からの反論があったためと思われる。

│論文では銘文中の「日十大王」を、「曰十大王」(曰はイワク)であるとし、「曰」を「ヲ」と読み、
│「十」を「計」の略字として、「曰十大王」を「ヲケ」(ケは乙類)と呼んでいる。
│石和田氏は、「曰佐」の例を挙げている。
│しかし有力な日本語学者が、「曰」の読みは「ヲチ」のようになり、「曰」を「ヲ」と読むのは、
│略音仮名的な読みであり、時代的には新しいものであるとした。

│正直最初にこの論に触れたときには、私も同じような印象を受けた。
│しかし、その後魏志韓伝や三国史記の地名や人名表記を見ているうちに、
│次第に略音仮名は新しいとする見解に疑問を持つようになった。
│すなはち韓語は日本語と違い、音節構造が複雑なため、漢字の音で固有名詞を表現するのが難しい。
│必然的に漢字をあてる際には、多少の無理は仕方がなかった可能性がある。

※:「曰十大王」については、私も興味があります。
_:資料としては、『古代豪族系図集覧』に、「日奉部」が載っているものですから、
_:紹介します。「曰十大王」と「日奉部」の関係は、不明です。前から疑問に思っていました。
_:(私は、)討論をするほどの材料は、持ってはいませんですので、
_:白石南花さんの投稿を読んで、勉強したいと思います。

※:石和田秀幸氏の解釈についても、過去ログの作業が一段落したら、
_:勉強したいと思います。

PS:日本書紀(天武天皇紀)に、「財日奉造(たからのひまつり)」が、載っています。


Re: 夜の王と昼の王ー隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文についてー ( No.72 )
日時: 2021年04月15日 00:09
名前: 石見介 [ 返信 ]
[ 削除 ]
 本日、ご引用の石和田秀幸氏の論文を、やっと読み終えました。
 金石文の字形については、中国や半島の金石文の字形を踏まえなければならない、という井上秀雄氏(東北大学)の指摘があり、確かにそうだと思っても、半島の資料にアクセスできない素人では、手が出せないのが実情です。

 石和田氏のこの論考は、それをかなり埋めて、私の妄想を刺激しました。
 何れ談話室の方に、妄想を少し書いてみたいと考えています。
 白石南花さんの、稲荷山鉄剣銘のご解釈を、その前に、お伺いしておきたいのですが、何処に発表されておられるのでしょうか?


Re: 夜の王と昼の王ー隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文についてー ( No.73 )
日時: 2021年04月15日 09:06
名前: 白石南花 [ 返信 ]
[ 削除 ]
石見介様

>白石南花さんの、稲荷山鉄剣銘のご解釈を、その前に、お伺いしておきたいのですが、何処に発表されておられるのでしょうか?<

下記があります。

https://shiroi.shakunage.net/home/kodaishi/wakatakeru.htm
https://shiroi.shakunage.net/home/kodaishi/outoufu.htm
https://shiroi.shakunage.net/zatsuron/owake.htm


Re: 夜の王と昼の王ー隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文についてー ( No.104 )
日時: 2021年04月18日 10:08
名前: 白石南花 [ 返信 ]
[ 削除 ]
隅田八幡神社人物画像鏡銘文のについては癸未年を503年ではなく、443年とする説があるが、川西宏幸氏の「同型鏡とワカタケル」などにより、五世紀後半の国産鏡であることが有力になっています。
したがって443年説は不成立でしょう。
また百済鏡説も否定され、斯麻を武寧王とすることもできません。

意紫沙加については、そのような宮は記紀には登場せず、記紀の允恭と結びつける根拠がそもそも薄弱です。
稲荷山鉄剣に見るように、五世紀代の大王記録は即位した王名だけで、宮などは記録されていなかったでしょうし、後世をみれば天皇は宮を変えることが多かったので、宮と天皇の紐づけは後ずけであると考えられます。
そもそも意紫沙加の宮にいるときといった表現は、時代を限定しているようにも見えます。

また意紫沙加(オシサカ)や斯鬼(シキ)はヤマト政権の基盤になった、奈良盆地東南部で、多くの宮があったという顕宗がそこに宮を構えても不思議ではありません。

そもそも忍坂大中姫は安康を飛び越えて、雄略紀にも皇太后として登場するように、允恭雄略朝の本拠地のひとつが忍坂であったとも考えられ、継承した顕宗がそこにいてもなにも不思議ではありません。


Re: 夜の王と昼の王ー隅田八幡神社人物画像鏡銘文についての石和田論文についてー ( No.105 )
日時: 2021年04月18日 12:02
名前: 白石南花 [ 返信 ]
[ 削除 ]
隅田八幡神社人物画像鏡銘文のについては癸未年を503年ではなく、443年とする説があるが、川西宏幸氏の「同型鏡とワカタケル」などにより、五世紀後半の国産鏡であることが有力になっています。
したがって443年説は不成立でしょう。
また百済鏡説も否定され、斯麻を武寧王とすることもできません。

意紫沙加については、そのような宮は記紀には登場せず、記紀の允恭と結びつける根拠がそもそも薄弱です。
稲荷山鉄剣に見るように、五世紀代の大王記録は即位した王名だけで、宮などは記録されていなかったでしょうし、後世をみれば天皇は宮を変えることが多かったので、宮と天皇の紐づけは後ずけであると考えられます。
そもそも意紫沙加の宮にいるときといった表現は、時代を限定しているようにも見えます。

また意紫沙加(オシサカ)や斯鬼(シキ)はヤマト政権の基盤になった、奈良盆地東南部で、多くの宮があったという顕宗がそこに宮を構えても不思議ではありません。

そもそも忍坂大中姫は安康を飛び越えて、雄略紀にも皇太后として登場するように、允恭雄略朝の本拠地のひとつが忍坂であったとも考えられ、継承した顕宗がそこにいてもなにも不思議ではありません。


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