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またまた硯発見
オヤジッチ 投稿日:2018年02月17日 09:48 No.2123
古墳時代のすずりが比恵遺跡群で発見されました。
 記事では、「福岡市は16日、比恵遺跡群(博多区博多駅南)から3世紀後半の古墳時代とみられる石製すずりの一部が出土したと発表した。」とありますが、「邪馬台国時代に奴国での文字の使用を示す貴重な発見」としています。
 出土と発見の違いは、「2016年7~8月の事務所建設に伴う発掘で見つかり、専門家に調査を依頼して判明した。」からで、2016年7~8月に出土した石製品が専門家によって硯と判明したので、発見と言うことですネ。
「古墳時代前期(3世紀後半)のすずり出土は国内で初めてという。
市の担当者は「奴国が、文字文化もある重要な場所だったことを示す史料になる」と話した。」とのことです。


Re: またまた硯発見 オヤジッチ 投稿日:2018年02月17日 09:53 No.2124
この「専門家」って、もしかして柳田先生?(^.^)
蔚山人さん、もし聞けたら聞いてみてください。


Re: またまた硯発見 蔚山人 投稿日:2018年02月17日 16:30 No.2125
柳田さんとはまだ文化財課におられた時に一度県庁でお話したことがありますが、向こうは覚えていないでしょう。

もし聞けたら聞いてみます。


Re: またまた硯発見 蔚山人 投稿日:2018年02月19日 09:35 No.2126
昨日、伊都文化会館の第4回伊都国フォーラム「伊都国人(びと)と文字」を見てきました。ホールの5割方が埋まっていましたので、400人位の方が見えられたのでしょう。

17日にオヤジッチさんが紹介された,比恵遺跡で発見された硯の実物がホールの入り口に展示してあり、改めて小さなもの(3~4cm角)だなと確認したしだいです。1辺に溝が平行に掘られており、講師の説明では切る予定でいれたものだろうということでした。

西谷正さん、柳田康雄さん、武末純一さんの3名が基調講演を行い、後4人ほどがシンポジウムからパネラーとして参加されていました。全体の印象としては、統一的なまとまりのあるものではなく、それぞれ好きなことを言っていたという印象です。論点のいくつかを紹介します。

(1)金印の読み方については、糸島市の角さん1名が「漢の倭の奴の国」と呼ばれ、後の方は「漢の委奴(いと)国」と呼ぶ方がふさわしいと主張されていました。

(2)粗忽屋さんが紹介された封泥の写真も示され、紐などを縛った個所に粘土を付け、それにハンコとしての封泥を押しけるもので、どんなものかよく理解できました。竹簡などの中身を見せないためにそうしたとも言われているようです。ただこの出土は楽浪郡の辺りだけに出土し、南朝鮮や倭国には無いようです。

(3)硯が筑前町で発見されたのは、柳田さんが倉庫を調べていて従来砥石と考えたれていたものを、その厚さが薄いことから硯と断定してとのことです。日本全国で砥石と呼ばれているものを再検討すれば、硯がもっと見つかるのではないかと、柳田氏は考えているとのことです。比恵遺跡の硯は、柳田氏はタッチされていないようです。

(4)三雲・井原遺跡が国史跡に指定されたが、指定個所は遺跡の全体からは0.5%にも満たない範囲でしかなく、今後の調査でその範囲が広がる可能性が大きいが、住宅があるためそれが出来ない難しさがある。指定の時期が、その重要性から考えて遅いのではないかということを地元のパネラーの方々は感じておられるようです。それは伊都国から日本の弥生時代がスタートしたと考えられる非常に重要な地であるからです。伊都国は、鏡を見ても分かるように、隣の奴国よりはるかに上の地位にあるものだと考えられる。金印は伊都国の王に対して与えられたものだと考えるのが合理的であると柳田氏は主張されていました。

(5)文字の理解度は、弥生時代は非常に低いもの、あるいは伊都国だけに限定されたもの程度だったのではないかとのことです。その代わり竹簡、筆、削刀等が朝鮮の方で出土しており、伊都国などに楽浪郡の人間が住んでおりそれらを使っていたのではないか。

(6)倭国で「貨泉」や「五シュ銭」が出土するのは、海岸近くであり、交易のなかでそれが使われたのではないかとのことでした。そしてその海村をまとめて海村世界が形成され、これが連合し国が出来上がっていったのではないかとの意見がありました。

他にもいろいろあるでしょうが、こんなものです。ただ柳田氏と他の講師との意見が合わないところがあり、私としては柳田氏を応援したい気持ちにさせれらました。済みません。こんなものでご勘弁下さい。




Re: またまた硯発見 粗忽屋 投稿日:2018年02月19日 13:13 No.2127
蔚山人さん

寒い中、伊都国遠征、ご苦労様でした。
聴講者もけっこう来たのですね。

柳田さんは、橿考研(当時)の寺澤さんと組んで「東遷説」を推すようになってから、
今や「伊都国全権大使」の趣になってますね。
昔は「平原なんて三角縁も持てない田舎大名」と、ヤマトに対して卑下していたのが、
平原の再調査報告書のあたりから豹変?して、伊都国を重視する今の主張は嘘のようです。

> 金印は伊都国の王に対して与えられたものだと考えるのが合理的

・・・とまで言うのはどうなのかなぁ・・・。
あまりに調子よすぎるので、ほかの方と折り合いがつかないのかな・・・(笑)?
伊都国ファンの私としては、いけいけドンドン、と後押しするのですけど!(^^)!。

ところで、初期渡来弥生人などに対して、最近になって「海民」とか「海村」
という表現を見るようになった気がするのですが、これ、昔からありました?
「水田農耕のノウハウも持った漁労従事者」くらいのニュアンスと思うのですが。



Re: またまた硯発見 蔚山人 投稿日:2018年02月20日 09:41 No.2128
シンポジウムで海辺で生活している人の話がありました。武末さんだったと思いますが、内陸部の村と海辺の村から出土する石包丁の数の割合が、5:1であり、海辺の人々のその程度に稲作に従事していたのだろうということでした。粗忽屋さんが言われた「水田農耕のノウハウも持った漁労従事者」という表現がぴったりでした。

海辺の話が出てきたのは、弥生文化は海から伝播されたという当たり前のことが、最近になり再確認されてきた結果だと思います。


Re: またまた硯発見 オヤジッチ 投稿日:2018年02月20日 10:45 No.2129
蔚山人さん、ご報告ありがとうございました。
今朝の西日本新聞に「文字文化の始まりを討論」と言う記事で、フォーラムがあったことを紹介していましたが、詳しい内容ではありませんし、蔚山人さんのご報告のような雰囲気を感じるようなものではありません。
元々は「三雲・井原(いわら)遺跡」の国史跡指定を記念する伊都国フォーラムだったのですが、硯と金印、「海民」とか「海村」で盛り上がったのでしょうか。
硯については、西日本新聞では『武末教授は「外交交渉を行っていた伊都国ですずりが出るのは当然だと思っていた」と述べた。』と記してました。
金印については、結構昔から「委奴」をイトと読む説がありますが、伊都国が貰った金印が奴国領の志賀島から出土した理由が説明されていません。
私は「漢委奴國王」=「王朝(漢)+民族(倭)+部族(奴)+爵位(國王)」説ですけど、むかし面白いと思ったのは、「倭奴」=「アイ(ワイ)ヌ」です。(^^♪
「海民」とか「海村」については別スレッドを立てた方が良いかもしれませんが、私は縄文人(在地海人)が半島からの難民を渡海させ、縄文人には何の価値もない海浜後背地の湿原に住まわせた(水田農耕地を与えた)のではないか、渡来人はそれに感謝しと、首長として尊敬した、それが支石墓の被葬者が縄文人である理由ではないか、などと夢想しています。§^。^§

写真は、昨日(19日)の北内閣です。冷たい霧雨が降ってました。


Re: またまた硯発見 蔚山人 投稿日:2018年02月20日 12:37 No.2130
オヤジッチ様

話された基本的なテーマは「硯」と「金印」で、この2つでシンポジウムが動いていたような感じです。

文字については、土器に「口+見」のような字が書かれており、これが何だという話になり、書かれていた壺が水鏡になっていたものではないかという意見に半分の方がうなずかれていたように思いますが、文字については片隅のテーマにされて余り話の分量としては大したことはなかったようでした。

硯については、武末教授の「外交交渉を行っていた伊都国ですずりが出るのは当然だと思っていた」ということに、パネラー全員が納得されていたようです。それで硯とはどういうものか、中国の例が紹介され、柳田氏が従来砥石として処理されていたものも見直しをすれば、結構見つかるのではないかという話につながった訳です。

金印については志賀島で出土したとなっているが、実は伊都国(前原)出の出土だったのではないかという話も出てきました。しかしこれは、雰囲気的にはそれはないだろうという雰囲気を感じました。何故志賀島での出土かの話はありませんでした。伊都国で「硯」や「大型の後漢鏡」が出土していることから、伊都国が文化の中心であったのではないかとの意見が賛同者が多かったように思います。

縄文人と朝鮮半島からの難民の組み合わせについては、なかったと思います。ただ楽浪郡の人々が玄界灘や日本海側に住みついていて、伊都国を通して交流があったのではとの話はありました。

雰囲気については、議事録的なものを作らないと、表現することは難しいですね。私の能力では、居眠りをコラえること位が、精いっぱいのところでしたので、聞き逃したものもあったかも知れません。最初の西谷さんの話はあまり面白くなかったので、半分以上寝ていました。


Re: またまた硯発見 オヤジッチ 投稿日:2018年02月21日 18:25 No.2132
> 柳田氏が従来砥石として処理されていたものも見直しをすれば、結構見つかるのではないかという話につながった訳です。
↑ちょっと危うい感じもしますね。硯とした物のなかにやっぱり砥石だったてのがあったりして。(-_-メ)

> 実は伊都国(前原)出の出土だったのではないかという話・・・雰囲気的にはそれはないだろうという雰囲気を感じました。
↑でしょうね。§^。^§

> 最初の西谷さんの話はあまり面白くなかったので、半分以上寝ていました。
↑なんかわかる気がします。お疲れ様でした。

写真は、20日の小春日和の平塚川添、初めてハシブトガモがいました。


Re: 伊都国フォーラム 粗忽屋 投稿日:2018年02月24日 00:28 No.2133
> 土器に「口+見」のような字

「1978年に三雲遺跡で出土した壺(3世紀前半)の口縁部近くに文字の線刻が見つかり、98年に「鏡」の異体字である「竟」と解読された」ってやつですね。
2010年には、これを「咊口」と見る説が、大阪芸術大の久米雅雄客員教授(東洋文字学)から出されてました。
「咊」の字は、偏と旁が逆になっているが「和」と同じ意味だとか。
で、「咊口」は「和口」で「和平の壺」を意味する、という主張でした。
シロウトからはなんとも言い様がないのですが、ノ木偏「禾」の裏文字っぽくも見えますよね。


Re: 伊都国フォーラム 粗忽屋 投稿日:2018年02月24日 00:32 No.2134
> 金印については志賀島で出土したとなっているが、実は伊都国(前原)での出土だったのではないかという話も出てきました。

誰が言い出したかというと、やっぱりこれも柳田さんですか?
  > 金印は伊都国の王に対して与えられたものだと考えるのが合理的
と言っていたくらいだから。・・・伊都国全権大使の口が滑ったか(笑)・・・。

井原鑓溝の後漢鏡が金印と同時期のものと考えられるので、
 「金印は、井原鑓溝の鏡などと一括して、同じ朝貢時にもらってきた」
というところまではアリかもしれませんが、出土地までを伊都国(井原鑓溝)とはさすがにね・・・・。
もしそうなら、井原鑓溝の遺物の記録を克明に残していて、なおかつ金印についての著作もある青柳種信が書いていないはずがない。

大六さんは、「伊都国のものが奪われて志賀島に隠匿された」説だったと思いますが、
これをこっそり模倣してるのかいな?


Re: またまた硯発見 蔚山人 投稿日:2018年02月25日 09:13 No.2135
粗忽屋様

土器に書かれていた文字を「口+身」として、昔の順序のように「身+口」と呼べば、仏教の「身+口+意」の三業(さんごう)に通じ、面白いことになります。

この三業は、「身業とは動作や振(ふ)る舞(ま)いに現れること、口業とは言葉に表現されること、意業とは心に思う思(し)慮(りょ)分(ふん)別(べつ)のことをいいます。」のことです。もしそうならば、この時代に仏教の原始的な教えが伝わっていたことになります。ちょっとロマンス的に考えてみました。「身」は軽い、「口」は中にという意味もあり、「軽いものを詰めていますよ」と洒落が分かる人がいたのかどうか。

志賀島の金印が伊都国に出土したものというアイデアは、お見通しの通り柳田氏が言われたものです。こうゆう金印をもらえるのは、伊都国の国王を除いてはありえないと考えるということから、そう主張されているとのことです。確かに貰った鏡の量と質の両方から、伊都国と奴国の地位の違いがはっきり分かります。私も「漢の倭の奴国」と呼ぶのは、無理がるように感じます。

当時の志賀島が後の沖ノ島のように崇高な場所であったのでしょうから、玄界灘を望む海洋民としての国々が、授与した時点でそこに埋蔵してといてもおかしくないように思えます。青柳種信の発掘とは結びつけなくても良いかも知れませんし、出土地を伊都国とすることには反対します。


Re: またまた硯発見 蔚山人 投稿日:2018年02月25日 13:48 No.2136 【Home】
粗忽屋さん

ちょっと脱線しますが、仏教で思い出したのですが、唐古鍵遺跡で見つかった楼閣と呼ばれる建物は、ひょっとしてネパールかインドから来た宗教施設ではないのかなと勝手にロマンスしています。

絵からみると鳥の大きさが部屋の大きさと同じくらいですので、2階部分の部屋が小さく思われます。ネパールなどの地方で良く見かけられる、1階が神様が祭られていて、2階部分が1m程度の幅の部屋になっている建物がありますが、それとそっくりです。屋根がスカートのような具合に作られていて、屋根の端が上にめくられたような状態になっています。

ひょっとしてそのような建物が日本に伝わっていたのではないでしょうか。仏教かも知れませんし、違うかも知れません。端がくるりと回っているのは、雲を表しており、天空にある施設を表しているのかも知れません。勝手に想像しています。


Re: またまた硯発見 オヤジッチ 投稿日:2018年02月27日 18:14 No.2137
> 唐古鍵遺跡で見つかった楼閣と呼ばれる建物
↑「実在の建物ではなく、中国から伝わった葬送に関わる空想の建物」と言ったのは誰でしたかネ。
 本で読んだ覚えがあるんですが、失念してしましました。

 写真は今日(2月27日)の平塚川添、日差しは春ですが、風はまだ冬でした。
 そのためかどうか、初めてアトリを撮れました。


Re: またまた硯発見 蔚山人 投稿日:2018年02月28日 08:46 No.2138
粗忽屋さん、オヤジッチさん

ネパールの建物は、このようなものです。


Re: またまた硯発見 蔚山人 投稿日:2018年02月28日 08:53 No.2139
張り付ける写真を間違えました。申し訳ありません。



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