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秦・漢から発送された封泥の印面は?
粗忽屋 投稿日:2018年01月28日 20:47 No.2094
オヤジッチさん、
テーマが変わったので、別スレにしました。

> 開封は邪馬臺國であれば、邪馬臺國で(封泥が)出土する可能性がありますが、どんな印文でしょうか。
>「皇帝」印でしょうか。玉璽とは別に封印用の印があったのでしょうか。

とても面白い疑問ですね。私も興味津々です。

根拠はありませんが、玉璽は何らかの証紙に押したか、ひょっとすると純粋に象徴的な存在で実際に使われることはなかったかもしれません。
実務にかかわる封泥用の印は別にあったような気がします。
それはどんな印面であったのか・・・・・?

「封泥 出土」などでググってみると、実際に出土した封泥の画像がいろいろ出てきますね。
でも郡や県など地方の管理役人レベルのものがほとんどのようで、中央官庁から地方へ送ったと思われるもの、まして皇帝直属の機関からと見えるものは見つかりませんでした。
実際に存在した数からいっても、圧倒的に地方発の方が多いでしょうね。

東京国立博物館の所蔵品の中に、宮廷の財政・物品管理などを行う「少府」の封泥や、皇室の軽食?を担当する「湯官」付属の「湯官飲監」の封泥があり、これが一番“中央寄り”でしょうか。

ただ卑弥呼さんのような蛮族の長に物を送る際に、皇帝印が押されたのかというと、疑問です。。。。
物を与える指示を出したのが皇帝であっても、押された印はそれを担当する官庁の印であったように思えます。
中国での封泥研究書もかなりあるようですので、きっとその中にはいわゆる“王爾”に相当する送付印について書かれたものもあるでしょう。
こういうテーマは、蔚山人さんがいろいろご存じではないかと思うのですが、いかがでしょうか?



Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 蔚山人 投稿日:2018年01月29日 21:18 No.2096
粗忽屋さん

お元気で何よりです。

古代中国は旅立つにも印、金を引き出すのも印が必要で、印で官庁の仕事が処理されていたようですね。残念ながら、その印や封泥については十分な知識がありません。


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年01月30日 11:22 No.2098
> 玉璽は何らかの証紙に押したか、ひょっとすると純粋に象徴的な存在で実際に使われることはなかったかもしれません。
↑Wikipediaに以下の記事がありました。
 伝国璽(でんこくじ)は、中国の歴代王朝および皇帝に代々受け継がれてきた玉璽(皇帝用の印)のこと。
秦の始皇帝より以前は、周王朝37代にわたって保持されてきた九鼎が帝権の象徴であり、それをもつものがすなわち天子とされた。周が秦に滅ぼされたとき、秦は九鼎を持ち帰ろうとしたが、混乱のさなか泗水の底に沈んで失われたという。秦朝は新たに玉璽を刻し、これを帝権の象徴とした。
やはり象徴的なものだったようですね。

いずれにしても、この時代の印は封泥用の印で、
書類は木簡を結えた(冊=束ねた木簡)紐の結び目を粘土で固めた(封=四角(寸)い粘土(土土))に押した(封印)もの(→柵封)ですネ。
ということで、『王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送“文書賜遺之物”詣女王、不得差錯』とありますが、文書(送状)と賜遺之物(贈物)に相違がないかを搜露(確認)したと言うことですが、そのために、送状(木簡)と行李(送箱)を開けたのか、封泥が改竄されていないか、開封されていないかを確認しただけなのか。
いろいろ疑問がわいてきて、キリがないですネ。(-_-;)



Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 蔚山人 投稿日:2018年01月30日 18:00 No.2099
ここでは送り状と賜遺の物との関係を述べられていますが、実は文書には「伝書」と呼ばれるものも含まれていたと思われます。

当時役所からの公用旅行の場合、「伝信」と呼ばれるある種の旅券のようなものが発行され、それが行く先々で示され、これにより身分に応じた乗り物や宿泊、食事の提供を保証されます。

この伝信には、公用旅行をする人物の身分、姓名、発給の年月日、用務、車馬(船)や従者などの交通手段と条件、伝信の番号、発給した人物名、相手先への命令等が示されています。帯方郡からの使者は、伊都国において荷物の検査を受ける際これを示し、贈り物を含む用件を相手先に示し、その確認を行ったことは、間違いないでしょうね。

伊都国の役人は、直ちに各地に連絡の使者を出し、使者の旅行に差支えがないような処置がとられたと思われます。何となくその時の風景が目に浮かぶようです。使者は、間違いなく卑弥呼の都には行っています。


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 粗忽屋 投稿日:2018年01月31日 10:20 No.2100
いやいや、さすが蔚山人さん、いろんなことをご存知ですね。

「伝信」をググってみたら、汲古書院というマニアックなところから「中国古代国家と情報伝達―秦漢簡牘の研究―(藤田 勝久)」という専門研究書がヒットしました。
目次を見ると、間違いなく通行証~旅券のような存在であったことが分かりました。

最近の伊都国での石製「硯」の出土を見ると、弥生後期になった時には、「伝信」を理解する役人が伊都国側にもいたのは間違いないでしょうね。
研究心旺盛な柳田康雄さんが、同様の石製硯を朝倉郡筑前町で2例みつけたことから、文字を解する人のネットワークが甘木に向けて伸びていたのも見えてきますね。
こういうものが、魏の使者の行路を示してくれると面白くなりそうです。


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月01日 09:10 No.2101
蔚山人さん、粗忽屋さん、こん○○は。

「伝信」初めて知りました。勉強になります。
私は、「伝信」で以下の「伝信」氏か引っかかりませんでした。
琉球の研究資料として知られる、中山伝信録:《「中山」は琉球の異称》中国の地誌。6巻。徐葆光(じょほうこう)著。1721年成立。前年に清の外交使節として訪れた琉球の見聞を、皇帝への報告書としてまとめたもの。
仰る「伝信」は通行手形ですか、帯方郡使が持っていたのは当然、太守劉夏が発行したものですよね。
『郡使往來』する時に、諸所でこれを示すわけですか。とすると、“冊”ではなく“札”で封泥はありませんネ。それと、帰りにも使うでしょうから、倭国には残りませんのでしょうか。


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 蔚山人 投稿日:2018年02月02日 16:09 No.2102
粗忽屋さん、オヤジッチさん

筑前町で硯が2個発見されたことは、非常に重要なことでしょうね。

伊都国でチェックされた贈り物は、伊都国歴史博物館にあるようなランドセルのような背負子で運ばれたと思います。弥生時代には一般的な運搬手段でした。伊都国の役人は、直ぐに運搬に必要な人間を揃えると同時に、途中のどの国で使者の一行に食事を提供することができるか、計画したと思います。というのは、人が担いで持参できる食料は最大5日間分しかありません。これに贈り物の負担が来るのですから、3日間程度分の食料しか担ぐことが出来ないと思われます。

私は、使者は伊都国から奴国を通った後は、烏奴国(おなくに、大野城)、支惟国(きいこく、基山)、巴利国(はぎこく、把木)、躬臣国(くしこく、玖珠(日田))という順序で南に下って行ったと考えます。そうすると、奴国で食事をした後は、巴利国あたりで次の食料を手に入れる必要が出てくる可能性があります。その意味では、筑前町のあたりにある程度の役所的な施設が置かれていた可能性がありそうですね。それで手続き等が出来る役人がいて、硯が使われていた可能性があるかも知れません。

伝書は、1枚の木札に裏表に必要事項が記載されたものです。これは中国では出土していますが、日本では出土していないので、使者が最後まで持っていて帯方郡までそれを持ち帰ったと思われます。そこに書かれたものは現在の日本のパスポートの記載にも通じるものです。

「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係諸官に要請する。日本国外務大臣」


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月03日 10:12 No.2104
蔚山人さん、粗忽屋さん、こん○○は。

> 筑前町で硯が2個発見されたことは、非常に重要なことでしょうね。
↑1月30日から冬季企画展(三雲・井原、国史跡指定記念展)があっているそうで(今日の西本新聞掲載ー正式サイトには載っていないー)筑前町の2個のすずりも展示されたいるそうです。月曜は休館なので火曜日に行ってきます。

> 伊都国歴史博物館にあるようなランドセルのような背負子
↑何処にありました?数十回(資料館時代から)行ってますが、見落としてます。(-_-;)

> 烏奴国(おなくに、大野城)
↑大野城は白村江の後、665年に大野山に造られた山城、大野城市になるまえは、奴国の丘(春日市)と同じ筑紫郡でした。律令国としては筑前国夜須郡大野村です。國名とするにはチョッと苦しい。

> 支惟国(きいこく、基山)、巴利国(はぎこく、把木)、躬臣国(くしこく、玖珠(日田))という順序で南に下って行った
↑基山→杷木→玖珠(≠日田)は南ではなく、東ですが?


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 蔚山人 投稿日:2018年02月04日 21:18 No.2105
オヤジッチ様

伊都国歴史博物館には、背負子が2個納められています。この2個は以前公開されていた時に拝見しましたが、通常は痛みの問題があり倉庫内に保管し、公開は殆どされていないようです。見れない方が多いと思います。パンフレットか何かには載っていると思いますが。

当時の国というのは、現在での町あるいは村程度のものであったと思います。地名とは小さなものから、少しずつ広がって行くもので、烏奴国(おなくに、大野城)のその一つではなかったかと考えています。

躬臣国(くしこく、玖珠(日田))は、仰られるように東側ですが、次の邪馬国(やめこく、八女)には筑後川を下って降りてきますのでルートは南側に戻ります。そして鬼奴国(きなこく、玉杵奴国は玉名の旧名)などに至ります。最終的にシマ国(都城の旧名)に到達しますが、全体の行程は九州を南に下ります。

当時の旅行記録では、途中のあれやこれやをまとめて、出発地から最終到着地までの行程、方向を最後に記述することになっていました。陳寿は、魏志倭人伝の中でこれを記述しています。当然南の方向ですし、水行10日(帯方郡~マツラ国)、陸行1月(マツラ国~都城)となる訳です。



Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月06日 10:23 No.2106
> 次の邪馬国(やめこく、八女)には筑後川を下って・・・南側に
↑方向としては“西南西”ですし、八女は邪馬臺國。§^。^§

> そして鬼奴国(きなこく、玉杵奴国は玉名の旧名)などに至ります。
↑『三国史記』新羅本紀にある多婆那国を玉名とする説があるそうですが、鬼奴国(きなこく)というのは?

> シマ国都城の旧名)に到達します。
↑シマの地名は、万寿3年(1026年) に大宰大監の平季基が日本最大の荘園となる「島津荘」を開発空だと思います。それ以前の地名は?
 私は『斯馬(シマ)國』は後の志摩郡だと思います。

今日、伊都国歴史博物館(冬季企画展)に行こうと思っていたんですが、雪で日向峠、糸島峠が全面通行止めだそうです。西区辺りも渋滞しそうなので、止めときます。


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月06日 10:28 No.2107
> 「島津荘」を開発空だと思います。
↑「「島津荘」からだと思います。」の間違い。m(__)m


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 蔚山人 投稿日:2018年02月06日 13:10 No.2108
オヤジッチさん

日向峠を越えるのは大変そうですね。私もここ数日凍えて過ごしています。早くこの季節が過ぎると良いですね。

まず玉名は、日本書紀には「玉杵奴(たまきな)」と書かれています。それで、鬼奴国(きなこく)として良いのではないかと考えています。

島津についてですが、「延喜式」兵部省の諸国駅伝馬条には、日向国に「島津駅」があり、最近の研究では都城郡元町付近に比定されています。このことから、この付近の地名が「島津」と呼ばれていたことが確認されています。10世紀のことです。

万寿年間(1024~27)に大宰府の役人だった平季基(たいらのすえもと)が、島津の地を開発し、関白藤原頼道(ふじわらのよりみち)に寄進して、島津荘が成立します。これは上記の時期より3世紀後のことです。

この斯馬(しま)国から九州の北部に向かって、下記のような国々が順番通りにならんでいます。「魏志倭人伝」の記述は正確です。上記や下記の地名からも魏の使者が通ったルートが分かります。
 
巳百支(いわし)国 = 岩瀬
伊邪(いや)国 = 宮崎(イザナギ、イザナミの根拠地、伊勢の地名から発生)
都支(たし)国  = 佐土原町田島(たじま)(「延喜式」当磨(たいま)駅、間は港という意味)

斯馬(しま)国は糸島ではないと思います。


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月07日 11:10 No.2109
> 斯馬(しま)国は糸島ではないと思います。
↑はい、糸島は1896年4月1日、元は怡土郡と志摩郡、郡制に基づき両郡を合併させて糸島郡となった野で、『斯馬(シマ)國』は後の志摩郡と思います。
 ただ、『自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳』とあって、“其餘旁國”は邪馬臺國の北ではないことになるんですよね。
 “自女王國以北”を「“末盧國”から女王國(邪馬臺國)までの行程で通過した」意味に解釈することもできると(*^_^*)

> 魏の使者が通ったルートが分かります。
↑従って、使者が通ったのは『末盧國→伊都國→奴國→不彌國』となります。


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 蔚山人 投稿日:2018年02月07日 16:02 No.2110
「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」の文は、まず「自女王國以北其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶不可得詳」に分けられることは皆さん認めておられるようです。

これによると、「戸数や道里を略載した国々は、女王国の北側にあります」と読めます。そうすると末羅国、伊都国、奴国、不弥国は、女王国の北にあり、その南に女王国があると簡単に理解できます。

次の文章は、その4ヶ国と女王国以外の国(旁國)は、良く分からないという意味です。遠い国なのでしょう。次にで始まる21ヶ国については国名が分かっているので、この旁國には当然入らないということになります。そうするとこの21ヶ国は女王国の範囲内にあります。「魏志倭人伝」では、奴国が女王国の尽きる境界であると、はっきり書かれています。

この文章は、非常に分かりやすいものです。そこでオヤジッチさんの「 “自女王國以北”を「“末盧國”から女王國(邪馬臺國)までの行程で通過した」意味に解釈することもできると」いう解釈が生きてくる訳です。しかし女王国の中にある邪馬台国は、この奴国の南側にあることになります。そこから延々と歩いて、やっと九州を南に下がり到達できるところに探るしかないと思います。このことを忘れては、魏使者のルートは永遠に見つからないと思います。

「魏志倭人伝」は、初心者でも分かるように文章が構成されています。シンプルに見るということが重要です。


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月08日 16:37 No.2111
蔚山人さん、こん○○は。

> 奴国から南へ延々と歩いて、やっと九州を南に下がり到達できるところ
↑だと、西都市が高確率、考古学的(遺跡)にみると西都原古墳群、文献的(倭人条)には『此女王境界所盡其南有狗奴國』も熊(球磨)襲(曽於)が南にありますしネ。§^。^§


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月09日 17:14 No.2113
> 奴国が女王国の尽きる境界であると、はっきり書かれています。
> しかし女王国の中にある邪馬台国は、この奴国の南側にあることになります。
↑上述二つの奴国が同じ国だとすると、邪馬台国は女王国の南外にあることになり、悩ましいところです。

“自女王國以北”を「“末盧國”から女王國(邪馬臺國)までの行程で通過した」意味に解釈すれば、『其餘旁國』は通らなかった國ということで、行路の東西(or左右)に有る又は離れた國になり、行路の“奴國”と最後の“奴國”は別國となります。
例『華奴蘇奴國』=神崎國(郡・国邑は吉野ヶ里)、『斯馬國』=志摩國(郡・国邑は一の町遺跡)、最後の『奴國』=玉名國(郡・国邑は前田遺跡)苦しい(-_-;)

※板付遺跡でちょっと一服


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 蔚山人 投稿日:2018年02月10日 10:06 No.2114
華奴蘇奴國が神崎あるいは吉野ケ里遺跡ではないかと、オヤジッチさん初め多くの方が持たれているようですが。これは違うと思います。吉野ケ里遺跡の地は、倭の面土国あるいは「米多国」が良いと思います。

この面土国については、『後漢書東夷伝』に西暦107年に、倭国王師升が、中国に使者を送りますが、それが「安帝永初元年、倭国王師升等生口百六十人を献じ、請見を願う。」の記事があります。もう一つは『翰苑』の「後漢書曰く、安帝永初元年、倭面上国王帥升至るあり」というものです。

これは倭国の師升という国王が、奴隷や戦争での捕虜などを160人も中国まで輸送し献じるという非常に重要な記事です。奴隷は当然脱走しようとしますから、同数近くの護衛と官吏を含めて、最低300人の人々が幾艘もの船に乗り、中国に向かったものと思われます。大変な規模の事業でした。

ここで重要なことは、生口が奴隷を意味するもので、戦いの戦利品としての捕虜が中心になっていたと思われることです。それでは、戦いの後これらの捕虜はどこに収容されて移送される時を待っていたのでしょう。私は、これは吉野ヶ里遺跡の環濠にみえるような、内郭内の施設ではなかったかと思います。

吉野ヶ里遺跡の内郭の堀(濠)と板柵の関係をみると、堀の外側に板柵があります。これは明らかに外から内部の人間が脱出しないように監視する収容所の役割を果たしていると見られることです。門はそれを厳しくチェックするものでしょう。中に捕虜を収容し、青銅器やいろいろなものを製作させ、武器を持った兵士が四六時中見張りをするというものです。そのため堀の外側に他の人々の住居などがあります。

この国王は「倭の面土」というところにいました。この「面土」というのは、上古音や中古音では「メタ」と発音するのが一般的です。ではこれはどこにあったのでしょうか。代表的な箇所は、次の2ヶ所です。

● 佐賀県神埼郡吉野ヶ里吉田目達原(めたばる:現在自衛隊の目達原駐屯地があります。)
● 佐賀県三養基郡米多(めた)郷

どちらも佐賀県にあり、吉野ヶ里遺跡に近い場所です。数日前自衛隊の攻撃ヘリが墜落したのもこの地域です。ここが本拠地だったと思われます。吉野ヶ里遺跡では、先ほど述べた防御柵が壕の外側に設けられるという異常な環濠がありますので、ここを面土国として良いと思います。

筑志米多国造は、この佐賀県の三養基郡米多郷付近を支配していて、『先代旧事本紀』では、第13代成務天皇の時代から都紀女加命(つきめかのみこと)が国造を代々この地で継いでいったと言われています。目達原古墳群にはこの都紀女加命の墓があり、吉野ヶ里そのものが滅びた後、この地を支配していったようです。この命は男性であるが、名前に「女」という字を含んでおり、ちょっと考えさせられるところがあります。

華奴蘇奴國は、私は「金の蘇の国」という意味で、阿蘇山の北側の外輪山の内部の平野であったと考えています。ここには「阿蘇黄土」というベンガラを産出する場所で、弥生時代の鉄が素掘りで豊富に取れた場所です。


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月12日 10:39 No.2115
蔚山人さん、こん○○は。

詳しいレス、勉強になります。m(__)m
> この面土国については、『後漢書東夷伝』に西暦107年に、倭国王師升が、中国に使者を送りますが、それが「安帝永初元年、倭国王師升等生口百六十人を献じ、請見を願う。」の記事があります。もう一つは『翰苑』の「後漢書曰く、安帝永初元年、倭面上国王帥升至るあり」というものです。
↑“面土”=“邪馬臺”=“ヤマト”と単純に考える学者も多くいますネ。

> これは倭国の師升という国王が、奴隷や戦争での捕虜などを160人も中国まで輸送し献じるという非常に重要な記事です。
↑福岡の多くの学者は、この時の戦争は伊都國vs奴国の戦いで、伊都國が覇権を得たと考えています。私もそう思います。伊都国には『世有王』ですから。§^。^§
 「敗れた奴国の首長層が金印を志賀島に隠して、近畿に亡命政権を創った」と言うのはオヤジッチ面白話。(*^_^*)

> 吉野ヶ里遺跡では、先ほど述べた防御柵が壕の外側に設けられるという異常な環濠がありますので、ここを面土国として良いと思います。
↑面土国かどうかは別にして、何十回も見ています(年パス持ってます)が異常だとは感じませんでした。防御柵と言うか土塁の内側に環濠があるのは普通だと思っていました。

> 『先代旧事本紀』では、第13代成務天皇の時代から都紀女加命(つきめかのみこと)が国造を代々この地で継いでいったと言われています。
↑都紀女加(つきめか、都紀女加王)は、“第15代応神天皇の曾孫(三世孫)”で、筑志米多国造の始祖とされる。『日本書紀』『古事記』に記載はない。(ウィキペディア)と言うことで、だとすると“5世紀”以後ですが。

> 目達原古墳群にはこの都紀女加命の墓があり、吉野ヶ里そのものが滅びた後、この地を支配していったようです。
↑考古学名「上のびゅう塚古墳(かみのびゅうづかこふん)」ですね。昭和18年(1943年)に宮内省(現・宮内庁)によって都紀女加王の墓に治定されたそうですネ。前方後円墳で、前方部を西に向ける。墳丘長は49メートルで“5世紀”の築造と推定される、墳丘表面からは埴輪・葺石が見つかっているほか、丘周囲に周溝が巡らされたことが明らかとなっている、とのことですネ。(ウィキペディア)
 それと、吉野ヶ里が滅びた後、5基の「前方後方墳」(九州最大を含む)が造られたことをどう思われますか。私は、以前(北墳丘墓)からこの地域(華奴蘇奴國)の奥都城だったのではないかと。(その可能性もある、程度ですが)

> 華奴蘇奴國は、私は「金の蘇の国」という意味で、阿蘇山の北側の外輪山の内部の平野であったと考えています。ここには「阿蘇黄土」というベンガラを産出する場所で、弥生時代の鉄が素掘りで豊富に取れた場所です。
↑なるほど、そういうのも面白いですネ。
 私は、その鉄が“狗奴國(狗古智卑狗=菊池彦)”の武器だったと思います。

写真は、今朝の奴国の丘です。




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