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投稿者:オヤジッチ
蔚山人さん、こん○○は。 詳しいレス、勉強になります。m(__)m > この面土国については、『後漢書東夷伝』に西暦107年に、倭国王師升が、中国に使者を送りますが、それが「安帝永初元年、倭国王師升等生口百六十人を献じ、請見を願う。」の記事があります。もう一つは『翰苑』の「後漢書曰く、安帝永初元年、倭面上国王帥升至るあり」というものです。 ↑“面土”=“邪馬臺”=“ヤマト”と単純に考える学者も多くいますネ。 > これは倭国の師升という国王が、奴隷や戦争での捕虜などを160人も中国まで輸送し献じるという非常に重要な記事です。 ↑福岡の多くの学者は、この時の戦争は伊都國vs奴国の戦いで、伊都國が覇権を得たと考えています。私もそう思います。伊都国には『世有王』ですから。§^。^§  「敗れた奴国の首長層が金印を志賀島に隠して、近畿に亡命政権を創った」と言うのはオヤジッチ面白話。(*^_^*) > 吉野ヶ里遺跡では、先ほど述べた防御柵が壕の外側に設けられるという異常な環濠がありますので、ここを面土国として良いと思います。 ↑面土国かどうかは別にして、何十回も見ています(年パス持ってます)が異常だとは感じませんでした。防御柵と言うか土塁の内側に環濠があるのは普通だと思っていました。 > 『先代旧事本紀』では、第13代成務天皇の時代から都紀女加命(つきめかのみこと)が国造を代々この地で継いでいったと言われています。 ↑都紀女加(つきめか、都紀女加王)は、“第15代応神天皇の曾孫(三世孫)”で、筑志米多国造の始祖とされる。『日本書紀』『古事記』に記載はない。(ウィキペディア)と言うことで、だとすると“5世紀”以後ですが。 > 目達原古墳群にはこの都紀女加命の墓があり、吉野ヶ里そのものが滅びた後、この地を支配していったようです。 ↑考古学名「上のびゅう塚古墳(かみのびゅうづかこふん)」ですね。昭和18年(1943年)に宮内省(現・宮内庁)によって都紀女加王の墓に治定されたそうですネ。前方後円墳で、前方部を西に向ける。墳丘長は49メートルで“5世紀”の築造と推定される、墳丘表面からは埴輪・葺石が見つかっているほか、丘周囲に周溝が巡らされたことが明らかとなっている、とのことですネ。(ウィキペディア)  それと、吉野ヶ里が滅びた後、5基の「前方後方墳」(九州最大を含む)が造られたことをどう思われますか。私は、以前(北墳丘墓)からこの地域(華奴蘇奴國)の奥都城だったのではないかと。(その可能性もある、程度ですが) > 華奴蘇奴國は、私は「金の蘇の国」という意味で、阿蘇山の北側の外輪山の内部の平野であったと考えています。ここには「阿蘇黄土」というベンガラを産出する場所で、弥生時代の鉄が素掘りで豊富に取れた場所です。 ↑なるほど、そういうのも面白いですネ。  私は、その鉄が“狗奴國(狗古智卑狗=菊池彦)”の武器だったと思います。 写真は、今朝の奴国の丘です。
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