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生六道地蔵菩薩
しらゆき
投稿日: 2018年08月25日 04:38:11
No.4015
【返信】
京都の嵯峨野にある薬師寺さんの地蔵盆の特別御開帳へ行ってきました。
薬師寺さんは嵯峨釈迦堂こと清涼寺の境内にある小さなお寺ですが、基本的に非公開のお寺です。
しかし、年に1度の8月24日の地蔵盆にのみ本堂を御開帳して一般も拝観出来るのです。
この薬師寺さんには、弘法大師作と言われる御本尊の心経秘鍵薬師如来像や、恵心僧都の作と言われる阿弥陀三尊像があります。
そして、私が一番見たかったのは小野篁作と言われる生六道地蔵菩薩像です。
小野篁と言えば、冥府へ通い閻魔王の副官として働いていたとか、六道珍皇寺の通いの井戸から冥府へ行っていたと伝説されています。
その六道珍皇寺の通いの井戸が冥府へ行く井戸であるなら、冥府から現世へ帰るのは帰りの井戸が、嵯峨野の福生寺にあり、その場所を生の六道と呼ばれていたと伝説されています。
しかし、その福生寺は今は無く、清凉寺にある薬師寺と一緒になり、福生寺の仏像などは薬師寺へ移されました。
その中の生六道地蔵菩薩は、かつて小野篁が地獄へ赴いた折に、地獄の火焔の中を歩く僧を見かけました。
僧の身でありながら、どんな悪事で地獄へ落されたのかと僧に問うと、僧は、この地獄の火焔のに苦しむ亡者を救うために、亡者に代わって苦難を受けているのだと答えました。
小野篁が、驚いて僧を見直すと、それは高貴な僧の姿であり、我が身を犠牲にして庶民を救おうとする大慈悲の生六道地蔵菩薩の姿だったのです。
小野篁は現世に戻ると地獄で見た生六道地蔵菩薩の姿を彫って仏像とし、嵯峨野に福生寺を建てて、仏像を安置したと言う伝説になっています。
先に書いたように、その生六道地蔵菩薩は福生寺から薬師寺へ移されて、年に1度の8月24日の地蔵盆に御開帳されるのでした。
小野篁ファンとして、前からずっと見たかった生六道地蔵菩薩さまは落ち着いた静かな表情の地蔵菩薩様でした。
その、地蔵菩薩さまの横には、小さな小野篁像と閻魔王の像も祀られていました。
ずっと見たかった仏像をやっと見ることが出来て感動してました。
八朔
しらゆき
投稿日: 2018年08月01日 14:44:44
No.4014
【返信】
今日は8月1日で八朔の日ですね。
八朔とは八月の朔日(ついたち)の事ですね。
京都の花街では、芸妓さんや舞妓さんが八朔の日にお店やお世話になってる方に御挨拶して周る習慣があります。
御茶屋さんや先生のお宅には芸妓さんや舞妓さんが来るだろうと、カメラを持った人でいっぱいになります。
私も写真を撮りたくて祇園新町の巽橋の横に陣取って待機しましたが、橋の周辺には多くのカメラマンやテレビの取材もひしめいていました。
近くに井上流のお宅があるのと御茶屋さんもあるので通られるのは確実なんですけどね、でもだいたい10時くらいからが判ってるだけで、いつに何処からどういう風に来るのかは本人次第で判らないですからね。
10時前に1人の芸妓さんが橋を通られたからは、後ろから来るのか、前から橋を渡るのか、四方に気を配りながら、人の動きで予想しながら、何とかたくさん写真を撮れました。
芸妓さんは正装となる黒紋付がきりりとして素敵ですね。
京都はカンカン照りの暑さですけど、その暑さの中で化粧して着物を着こなしてられるのに尊敬してしまいます。
11時過ぎまで粘りましたが、間近で見れたのと写真もいっぱい撮れて楽しかったです。
この長〜い布は(^^;)???(--;)あれじゃ!!
ぼた
投稿日: 2018年07月23日 12:51:05
No.4013
【返信】
こんにちは(^^;)
横綱休場相次ぐ盛り上がりの無い大相撲名古屋場所(^^;)
あちらこちらに相撲部屋の宿舎を見かけます。
本日は名古屋市中区の大須 万松寺の商店街に買い物に出掛けました。
そこで万松寺横の公園の風景です(^^;)
子供用のブランコに垂れ下がっているこの布の正体は???(^^;)
綾戸國中神社
しらゆき
投稿日: 2018年07月18日 16:10:23
No.4012
【返信】
京都は祇園祭の最中ですが、祇園祭は八坂神社のお祭りであると共に、所縁のある社寺として、元祇園梛神社・粟田神社・神泉苑などがありますが、南区にある綾戸國中神社も大きな関わりのある神社です。
綾戸國中神社は、昔は綾戸宮と國中宮の二社でありましたが、現在では合祀されて、左に綾戸宮で右に國中宮が鎮座されています。
社伝によれば、第26代継体天皇の世には大堰川(桂川)七瀬の祓神として大井社でありましたが、第62代村上天皇の天暦9年(965年)に綾戸社に改称されたそうです。
また、國中社は本来蔵王の杜(現光福寺蔵王堂)に社地があり、中世には牛頭天皇社とも呼ばれていました。
古くには久世郷全体の郷社であったようですが、戦国時代に、國中社が綾戸社の境内に移され、以来綾戸國中神社と称するようになったそうです。
さて、初めに書きましたように、綾戸國中神社は祗園祭には欠かせない重要な役割を担う神社であります。
その昔、神代の頃の話ですが、「素盞鳴尊」(スサノオノミコト)が山城の訓世(くぜ)の郷がまだ一面湖水に覆われていた時に天から降臨し、水を切り流し土地を開き、広々とした平野とされたのでした。
そして、その國の中心と思われる所に、「符」(ふ)を遣わし給いました。
その「符」とは素戔嗚尊の愛馬である天幸駒の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海する前に形見として遣わされたのでした。
この形見である「符」が國中社の御神体であり、訓世の郷から祗園祭に供奉する稚児が、胸に御神体である駒の頭の彫刻を棒持することから「駒形稚児」と言われるそうです。
こう言う伝説もあり、この「駒形稚児」と祗園祭との関係は深い物があります。
「國中社は素盞鳴尊の荒御魂なり。八坂郷祗園社は素盞鳴尊の和御魂なり。依って一体にして二神、二神にして一体で神秘の極みなり。」
と古文書に記されているそうです、
そして、「御神幸の七月十七日に訓世の駒形稚児の到着なくば、御神輿は八坂神社から一歩も動かすことならぬ。若し此の駒故なくしてお滞りあるときは、必ず疫病流行し人々大いに悩む。」
とも伝えられていると言います。
つまり、祇園祭の7月17日の山鉾の巡行後に行われる御神幸と呼ばれる八坂神社から神霊を乗せた御神輿を御旅所へお迎えする神事で、駒形稚児が到着するまでは御神輿を一歩も動かすことは出来ません。
もしも、駒形稚児が不在などの不測の事態が事あるときは、疫病が流行るとされています。
そう言う理由から、御神体の駒形を奉持することで駒形稚児は神位であり、神そのものとされ、長刀鉾の稚児も下馬する八坂神社境内を騎馬のままで南楼門より参入し拝殿を三巡の後で、一歩も地を踏むことなく本殿に昇殿し祭典に臨むとされています。
そして神幸祭、還幸祭では中御座神輿(素盞鳴尊)の先導を務める事になるのです。
こうして、綾戸國中神社の久世駒形稚児として、祇園祭に不可欠な大きな関わりがあるのです。
こう言う綾戸國中神社ですが、綾戸國中神社には全国でも唯一とされる事が二つあるのだそうです。
1つは國中社の御神体が駒形であることです。
またもう1つは新幹線開通のため神社が移転を余議なくされた事だそうです。
神社があった敷地に新幹線が通る事になり、移転を余儀なくかなりされたそうで、これも珍しい事と言えるそうです。
守山城址(^^;)
ぼた
投稿日: 2018年06月25日 19:08:06
No.4011
【返信】
今日は仕事場から目と鼻の先!?くらいの近くにある守山城址に行ってきました。(^^;)
姉川の戦いで救出されたお市の方と3人の娘の茶々、初、江が居たこともあったらしいという説がWikiに載っていたので訪れてみました。(^^;)
ここは南側に矢田川、北側に庄内川が流れる土地で昔から水害の多い、所謂、輪中の土地でした。
21世紀になってからもゲリラ豪雨により堤防より水位が増して氾濫したりもしています。(~_~;)
そんなわけで度重なる水害や東南海地震や濃尾地震などで戦国の時代の地形とはずいぶん変わっているものと考えられます。(~_~;)
そして、現在の守山城址はアパートの入口から奥に入って二階建ての家の屋根ほどの高さの丘の上にありました。(~_~;)
アパートの敷地内を通り抜けて行くという、まさかの展開ではありますが、城址というのは、こういった扱いになってることが多いです(^^;)まあ、それも楽しみのひとつかも。
たぶん、開発や自然災害などで周りの崖なども削られてしまったのかもしれませんが、城を建てるにしては余りにも土地が狭いという印象でした。
こんなところに果たしてお市の方と3姉妹が居たのだろうか。(^^;)!?
微妙なところです(^^;)
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