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投稿者:オヤジッチ
蔚山人さん、ご報告ありがとうございました。 今朝の西日本新聞に「文字文化の始まりを討論」と言う記事で、フォーラムがあったことを紹介していましたが、詳しい内容ではありませんし、蔚山人さんのご報告のような雰囲気を感じるようなものではありません。 元々は「三雲・井原(いわら)遺跡」の国史跡指定を記念する伊都国フォーラムだったのですが、硯と金印、「海民」とか「海村」で盛り上がったのでしょうか。 硯については、西日本新聞では『武末教授は「外交交渉を行っていた伊都国ですずりが出るのは当然だと思っていた」と述べた。』と記してました。 金印については、結構昔から「委奴」をイトと読む説がありますが、伊都国が貰った金印が奴国領の志賀島から出土した理由が説明されていません。 私は「漢委奴國王」=「王朝(漢)+民族(倭)+部族(奴)+爵位(國王)」説ですけど、むかし面白いと思ったのは、「倭奴」=「アイ(ワイ)ヌ」です。(^^♪ 「海民」とか「海村」については別スレッドを立てた方が良いかもしれませんが、私は縄文人(在地海人)が半島からの難民を渡海させ、縄文人には何の価値もない海浜後背地の湿原に住まわせた(水田農耕地を与えた)のではないか、渡来人はそれに感謝しと、首長として尊敬した、それが支石墓の被葬者が縄文人である理由ではないか、などと夢想しています。§^。^§ 写真は、昨日(19日)の北内閣です。冷たい霧雨が降ってました。
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