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8 1/2
グイド・アンセルミ 投稿日:2018年01月22日 20:28 No.19



8 1/2 (伊国) 1963年 全世界興行収入 28位

監督 フェデリコ・フェリーニ
脚本 フェデリコ・フェリーニ、トゥリオ・ピネッリ、エンニオ・フライアーノ、ブルネッロ・ロンディ
音楽 ニーノ・ロータ
主演 マルチェロ・マストロヤンニ(グイド・アンセルミ)

登場人物

グイド・アンセルミ :著名な映画監督
ルイーズ・アンセルミ :グイドの妻
カーラ - サンドラ・ミーロ :グイドの愛人
クラウディア :グイドが理想とする女性



【起】
出口間近のトンネルで車が渋滞中。その中の1台に主人公グイドが乗っています。閉じ込められることに耐えられなくなった彼は車から外へ。するとその体がなぜか軽々と空中に浮かび、そのまま空を飛んでゆこうとします。しかし、海辺に寝そべった中年の男がグイドの足に結ばれたロープを引っ張るため、彼はそのまま落下。そこでグイドは目覚めました。彼は映画監督です。次の映画を製作中ですが、スランプに陥って新しいアイデアが出ません。そこで温泉地に来て構想を練ろうとしているのです。映画評論家に来てもらって自分のアイデアを検討してもらいますがこっぴどく叩かれ、さらに気分は落ち込んでしまいます。おまけに愛人が勝手に訪ねてきたため、彼女の機嫌もとらなければなりません。

【承】
やがて製作スタッフやマスコミが温泉地に押し寄せ、グイドに無理矢理仕事にかからせようとします。しかし、すっかり厭世的になった彼はその要求から逃げ回ります。神経衰弱のせいか、彼は何度も白昼夢を見ます。それは小さい頃の体験ばかりで、海辺での太った売春婦のダンスや、カトリックの学校で神父に叱られたことなど。それを映画に取り入れようと考えても、そこにいた映画評論家は「感傷的すぎる」と批判します。宗教に頼ろうと、カトリックの枢機卿とも面会。しかし彼も幸せではないと知って、気鬱は深まるばかりでした。

【転】
喧嘩中の妻を呼び出して一緒にダンスをし、一旦は夫婦仲も修復するかと思われましたが、結局は仕事のことが原因で彼女を放ったらかしに。製作スタッフは浜辺に大きな鉄骨組のロケットを作って撮影開始を待っています。愛人はついにグイドの妻の前に姿を現し、さらにトラブルの種を作ります。グイドは以前にも増して幻想に浸り始め、自分がハーレムの主になった夢を見ます。最初は意のままに女性たちを扱っていましたが、すぐに彼女たちは叛乱を起こしてグイドを支配。夢に逃げ込むこともままなりません。

【結】
グイドはセット現場で催された記者会見を途中で逃げ出し、映画は製作中止と決まります。グイドは取り壊されるセットを見ながら急に悟ります。混沌とした人生をそのまま受け入れることこそが大事なのだと。改心して妻にやり直しを懇願すると、彼女もそれを受け入れます。セットに突然、彼がそれまで関わった過去現在の人々が登場し、円をつくって踊り始めます。その動きを指示するグイド。やがて人々が消えると、そこには少年時代のグイドだけが残っていました。

The End 映画ウォッチ

解説

タイトルは、本作がフェリーニ「単独」による8作目の作品であり、さらにフェリーニの処女作「寄席の脚光」でアルベルト・ラットゥアーダが共同監督をしたのでそれを「半分(1/2)」として加えると「8 1/2本目」の作品となることにちなんでつけられたものである。

オッス!俺グイド。映画監督。
そろそろ次の映画撮らなきゃならなくてさ、
プロデューサーやら外野はグチャグチャうるさいし、
デタラメにロケ地選定や俳優オーディションは進めてるんだけど
実際何のアイデアも浮かんでないんだよね、ここだけの話。

まぁあくせくしても始まらないんで
幸いロケ地には温泉もあるし、浮気女とのんびりしようと思った矢先、
ロケ地に奥さんまで来ちゃったからさぁ大変!
やばいですマジ。
あーあ、、
俺の頭グチャグチャ。

もっと何かこう、、優しい女達に囲まれてさぁ、面白おかしく暮らしたいッス。
みんなが俺のために甲斐甲斐しく働いてくれてさ、
きっと楽しいだろうなぁ。。。
全員若い子がいいから、年食った女は3階に幽閉な。
その辺はいくら仲良かった女でもビシッと!
俺の国のルールだからさ。

いけねぇ、また夢想しちまった。
仕事仕事。。。

でも
本当の俺の理想は、いつも近くで励ましてくれる女なんだ。
すっげぇ美人が絶対条件!
クラウディア・カルディナーレみたいな。
クラウディア・カルディナーレみたいな!

2度言わなくていいよ。

明日からクランクイン?
出来るわけネーだろ何も考えてないのに。
もうやだもうやだもうやだ!

仕方ねぇ、何か撮るか。。

以上のような事柄がシリアスに描かれているらしい。 ヤフー知恵袋より

GYAO! 無料配信中 2018年1月22日現在




Re: 8 1/2 グイド・アンセルミ 投稿日:2018年01月22日 23:20 No.20

解説2


 「81/2」は、「フェリーニがあらゆる人間に対してアイロニー(皮肉)をぶつけた野心的作品」である。

 まず、この映画が、「映画を作れない映画監督を映画化した映画」ということ自体が、極めてアイロニーである。特に、主人公グイドは、大人でありながら、子供であり、詩人の魂を持ちながら、極めて俗人である。また、少年時代の入浴シーンで出てくる呪文「ASA NISIMASA」は、種村季弘によれば、「ANIMA」(「すべての男性がもともとうちに抱いている女性像」)を意味する。つまり、グイドは男であり女であるという側面をも示唆している。

 フェリーニは、「81/2」で、大人であり、職業人であり、男でありといった、あらゆる定義から解放された、自由な人間を造形しようとした。(冒頭のグイドが車から飛んでいくシーンなどは、もっとも象徴的だ。)あえていえば、グイドは、道化に一番近い。
 そのグイドを束縛しようとする人々として、プロデューサーを始め、妻のルイザ、愛人のカルラ、評論家、マスコミなどなどさまざまな人物が目まぐるしく登場する。プロデューサーは金や映画の完成のこと、女優たちは自分たちの役のこと、評論家はその映画が芸術であるかどうかということ、女達は自分が愛されているのかどうかということ、それぞれが、まったく違った、エゴでグイドを悩まし、混乱に導く。フェリーニ自身、こういう経験があったのだろうか。この映画の中では、毒々しいぐらい彼らのエゴがしつこく皮肉られている。

 しかし、その束縛は、不思議に同時に解放でもある。フェリーニ映画の原点とされる『道』でのジュリエッタ・マシーナが、卑しい白痴であると同時に聖女であるように、鎖にしばられるアンソニー・クインは、拘束であり、解放であるように、淀川長治が「道」について、「残酷」で「暖かい」と評価するように、フェリーニは元来、映画に類型を与えず、多様なニュアンスをもたせる監督だったというべきなのかもしれない。
 にもかかわらず、多くの映画評論家たちは、やれ「巨女憧憬」だの「母性の欠乏」だの「自伝的映画」だの、この作品の中でのフェリーニを、「型」にはめようとした。監督自らのコメントからも分かるように、フェリーニのようにセンスで映画を撮るひとは、巨女憧憬だの、自伝的映画だの細かいことに、全く関心がない。そういった批評は、どれもこれも、あとから他人が付け加えたことで、彼の映画の一面を語っているに過ぎず、本質(ここでは仮に「多様性」と呼ぶことにする)をとらえてはいないのである。クラウディアもサラギーナもルイザも、単なる道具立てで、グイドがフェリーニと同じ監督という職業であるということも、まったく設定上の都合に過ぎない。(何せ、当初の予定ではグイドの仕事を弁護士にしようかとも考えていたほどだから。)

 また、フェリーニにとって「81/2」は、リセット(=死と再生 なんとアイロニカルか)的な役割を果たしたことがわかる。つまり、もう一度、原点の「多様性」に帰って、新たな方法で映画を作りだすことができたのだ。フェリーニのコメントやグイドのせりふから、映画を作ることは自己実現であることが読み取れる。フェリーニにとって映画は自分の原点である「多様性」を表現するための手段である。そのため、彼は過去のことを思いだしたり(ぶどう酒の風呂に入る)、現状を見つめ直したり(ルイザとの夫婦仲)、空想にふけったり(ハーレム)、あらゆる手段を用いて作品の構想を捻出しようとする。自分の過去を振り返ろうとするのは芸術家が行き詰まったときに、よくやる手だが、たいていうまくいかない。現状を見つめ直せば、もっと残酷で、空想にふければ現実とのギャップが大きすぎて、余計にショックが大きい。そして何よりも、有名映画監督であるグイドを取り巻く、あらゆるエゴから来る妨害。混とんとした状況を、整理しきれなくなって、ついにリセットするため、ピストルの引き金を引く。
とたんに、頭の中が真っ白になって、グイドは目が覚めたように映画撮影に乗り出す。
おそらく実感したのだろう。
もっと自由に映画を作ればよいのだということを。
もっと自分を素直に表現すればよいのだということを。

 ここに到達するまで、フェリーニが費やしたエネルギーは計り知れない。しかし、この映画を作ったことで得た満足感や功績も計り知れないのだ。事実、この「81/2」以降は、カラーの作品になり、きらびやかな色彩や奇抜な美術でフェリーニのイメージを映像化し、そのためにはチネチッタの様な大掛かりなものまで作り上げた。フェリーニはますます自由になったのだ。
「インテルビスタ」(1987)では「81/2」(1963)のころの時代を懐かしむシーンが随所にあるが、20年以上たってもその時の満足感は消えないのだ。
「81/2」はフェリーニの新たなステップを踏むうえで、フェリーニの「多様性」を貫くための強固な土台になったのである。
 フェリーニが巨匠と言われるゆえんは、この「多様性」を最後まで表現し続けたからであり、そのための「81/2」が存在したからである。また、人間という人間を、『市場での競争の担い手』(=『機能』)ととしてしか理解しないかのように見える昨今の風潮のもとで、グイドやフェリーニのような『人間そのもの』、『実体としての人間』との出会いは、それ自体強い衝撃力を持つ。

フェリーニ、アイロニーと自己実現 宮井秀人





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