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ハワイ王国
カラカウア王 投稿日:2017年12月17日 19:22 No.30




David Kalākaua

1836年生〜1891年没。ハワイ王国の第7代国王。正式にはDavid La‘amea Kamanakapu‘u Mahinulani Nalaiaehuokalani Lumialani Kalākaua。

カメハメハ5世が跡継ぎを指名しないまま薨去したあと、1872年の国王選挙に臨んだが、族長系統の最高位のルナリロ(カメハメハ1世の異母弟・カライママフの孫)に敗れた。
しかし、ルナリロ王も1874年に後任を指名せず逝去したため、再び国王に立候補し、カメハメハ4世の未亡人・エンマ女王(カメハメハ大王の重臣でハワイ統一に大きく貢献したイギリス人ジョン・ヤングの孫)に圧勝し国王に選出された。しかし、エンマ女王の支持者が暴動を起こしたため、カラカウアはアメリカとイギリスの海軍の力を借りてこの暴動を鎮圧した。

カラカウアは、前任者の轍を踏まないよう、即位後ただちに弟・レレイオホクを後継者 として指名したため、選挙によって国王を選出する時代は終わりを告げた。しかし、1877年にレレイホクが死去したため、今度は妹・リディア(リリウオカラニ)を指名した。

カラカウア王はハワイ経済のためアメリカ合衆国との交渉を積極的に行い、1874年11月には自らワシントンに出向きグラント大統領と会談。1875年3月に、ハワイの主産品である砂糖や米の輸入自由化を認めさせた。
しかし、逆にアメリカ の工業製品を無税輸入することとなり、その影響で、ハワイでは、さとうきびプランテーショ ンを中心にアメリカ系の財閥が急成長した。1887年には条約更新の条件と してアメリカから真珠湾の軍事利用を押し切られ、カラカウアは売国奴という批判を浴びることにもなった。

1881年より10ヶ月にわたる世界旅行を行った。ハワイ人の人口減少に憂慮し、移民について交渉することが主な目的であった。ローマ教皇・レオ13世やイギリス女王・ヴィクトリア女王とも会談している。
カラカウア王の留守のあいだは妹のリリウオカラニが摂政として統治した。
カラカウア王はポリネシア帝国を建設する構想を抱いていた。1886年にはポリネシア連合形成のために3万ドルの予算を確保し、サモアのマリエトア王とポリネシア連合成立の合意に至っている。

カラカウアはその華やかな生活からメリー・モナーク(陽気な君主)とあだ名された。ハワイ人の人口激減とともに、ハワイの伝統文化の衰退を憂慮し、自ら「ハワイの伝説と神話」を著し、秘伝であった創世神話クムリポを公開し、それまで宣教師たちに禁止されていたフラを、正式に復活させた。王直属のフラ・ハラウを作 り、洋楽ではロイヤル・ハワイアンバンドも編成、王みずからが作詞した「ハワイ・ポノイ」という曲はハワイの国歌となった。現在もハワイ島で毎年フラの大会「メリー・モナーク・フェステバル」が開催されている。

1879年には、豪奢なイオラニ宮殿を完成させ、1883年に盛大な戴冠式が挙行、また1885年には生誕50歳を記念した大祝賀会も開かれた。
しかし、1887年にはサンフォード・ドールらアメリカ系移民を中心に、カラカウアの退位もしくは王政廃止とアメリカ合衆国への併合を求める声が高まり、アメリカ系の秘密結社「ハワイアン・リーグ」が結成され、武力を背景として王党派のギブソン首相ほか政府要人を次々と辞職させ、孤立したカラカウアに対し新しい憲法(ベイオネット=銃剣憲法)を受け入れさせた。この憲法は実質的に富裕なアメリカ系移民の参政権を大幅に認めるものであり、カラカウア王は実質的な権力の多くを失った。これに対してハワイ人軍人ロバート・ウィリアム・ウィルコックスら義勇軍による抵抗もあったが失敗に終わった。

1890年にアルコール依存症によって体調を崩し、医者の薦めでサンフランシスコへ移り、1891年1月20日に逝去した。彼の死後は、ハワイ王国最後の女王となる妹のリリウオカラニが跡を継いだ。





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