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ご報告お疲れさまでした。黒羽城などは行ったことはあるのですが、基本馴染みのない地域の城郭でしたので、大変興味深く拝聴しました。4つほど質問があるので、お答え頂ければ幸いです。 1:「駐屯部」との評価がありましたが、特に大田原城の江戸堀より南の未整地区域は西股総生氏の『中世城郭研究』第17号掲載論文「城の外にひろがるもの」にて指摘された「遠構え」(駐屯地区や町家等の防御を目的としたものではなく、城郭中心部至近での開戦を嫌ったために離れた要所に築かれた防御遺構)のような印象です。小川さんが「駐屯部」と評価されたものに、多数の兵を収容した実例などはあるのでしょうか? 2:6の「その他の城郭」は改修していないとの結論でしたが、亀山城などは明確に横矢を意識しています。改修の有無や時期差ではなく、築城者が想定した兵数や戦闘等での差が縄張に出た可能性は無いでしょうか? 3:質問というより感想ですが、箒川南岸の諸城郭が街道と渡河点を意識していることは確実だとは思いますが、徳川方の防衛戦として改修されたと結論しています。これらの城郭が実戦で使われるという状況は北方の黒羽城等が上杉氏により落城するような戦況かと思いますが、徳川氏はそこまで想定していたのでしょうか。堀等は規模が大きいですが、大田原や黒羽に見られる巨大な枡形などは存在せず、改修理由と改修にどこまで徳川氏が関与していたのかが気になります。 4:芦野城の図に「根小屋」が表記されてましたが、他に根小屋地名を持つ城がありましたらお教えください。 以上です。何卒宜しくお願い致します。 |
内野と申します。興味深い御報告、とても勉強になりました。 質問がございます、回答いただけると幸いです。 箒川南岸の諸城郭(鳩ヶ森、山田、沢村、佐久山、福原)と金丸氏要害について。 とくに箒川南岸の五城は渡河点に隣接することから、戦略的に重要な選地であったと言えるでしょう。 この五城について小川様は改修されたと判断されておられますが、現地遺構に於いて改修されたと判断できる明確な痕跡は残っているのでしょうか? 福原城に於いて、土塁の高さ及び堀の規模から一部未改修の遺構が残るとされましたが、主郭周りと縁辺部での 違いとも考えられます。 これだけの戦略的要地でありますから、慶長5、6年当時の状況から考えて城郭が整備されることは不思議ではありません。 よって改修ではなく、新期に築城された城郭と判断することも可能ではないでしょうか? また、五城について在地勢力によって改修されたとされますが、ここまでの土木量を持つ改修を在地勢力だけで(もしくは主導して)行うことは可能とお考えなのでしょうか? |
> 田嶌貴久美 さんへ ご質問ありがとうございます。 1:西股総生氏論文の「遠構え」の可能性もあるかもしれません。ここでは徳川家康本隊の大部隊を収容する上での駐屯部の設置と考えました。また徳川方の本隊はこの地域まで到着していませんので「多数の兵を収容した実例」は無いと考えています。 2:まさに想定する兵数の差だと考えています。近世期に大田原城の大田原氏は13000石、黒羽城の大関氏は18000石、その他の那須衆は概ね5000石程度です。金丸氏要害の金丸氏は500石程度で大関氏に包摂されしまう存在です。城の規模と兵力の関係については不案内ですが、「大きすぎないか?」という印象です。 3:慶長5年8月秀忠が西上の後、この地域は宇都宮城の結城秀康、蒲生秀行とともに那須衆など在地勢力で上杉と対峙しなければならない状況が翌年7月まで続きます。その間の防衛態勢としてこれらの城郭の改修が行われたと考えます。 大田原城、黒羽城には徳川の家臣が入っていますので、これら2城は徳川の直接の指揮による改修と考えますが、一方箒川南岸の城郭については、主に在地勢力のものと考えています。那須衆は大田原城に籠城しており、そこで徳川の緒将から何らかの指示を受けこれらの城郭の改修に当たったと考えています。 4:白旗城の近くに根小(古)屋館があり第4節の金丸氏の居館跡とされています。地域は変わりますが宇都宮市岡本の岡本城に根古屋があります。 追加編集 那珂川町馬頭地区の武茂城にも根古屋があります。 よろしくお願いいたします。 |
> 内野和彦 さんへ ご質問ありがとうございます。 >現地遺構に於いて改修されたと判断できる明確な痕跡 沢村城(レジュメ図 7)の観音寺及び曲輪Ⅲの東側の竪堀を境として東西の様相が異なります。実は曲輪Ⅰより曲輪Ⅲのほうが高いのですが、Ⅲと観音寺との間に残る横堀・竪堀は、東側の改修を受けたと考える城域の横堀・竪堀に比べ小規模です。地形的制約を受けつつ、曲輪の広さや横堀の規模を確保するために竪堀東側を増築、あるいは改修したのではないかと考えます。先行研究(栃木県教育委員会1982)による伝承等記述との比較検討で導いた推論ですので明確な痕跡を指摘することはできませんでした。何か指標、あるいは方法等ありまし たら是非ご教示いただきたく存じます。 >主郭周りと縁辺部での違いとも考えられます 曲輪Ⅱの西から南西に回る横堀の大きさが何とも不釣り合いに思います。曲輪二つだけの城郭ですから。あえて解釈いたしました。 >新期に築城された城郭と判断することも可能ではないでしょうか? >ここまでの土木量を持つ改修を在地勢力だけで(もしくは主導して)行うことは可能とお考えなのでしょうか? この城の北西側には箒川に沿う河岸段丘があり、その段丘を利用して、佐久山城の項で触れた福原氏が長く拠点としていた、と先行研究(栃木県……1982)にはあります。千手院跡裏城のような遺構も存在することから、この丘陵上には既に幾つかの小規模な城郭が築かれていたと考えています。 第4節で述べた諸城郭は、大田原城、黒羽城の徳川の武将の指示で作業が行われたと考えています。その際具体的にどこまでの指示が出されていたのはわかりません。推測の範囲ですが、場所の特定程度ではなかったかと考えます。当該地域の那須衆がそれぞれの判断で作業を行ったと考えます。そのような状況が1年近くに渡って続いた結果が現状の遺構だと考えています。これらの城郭を整備・強化することが那須衆にとって上杉に対する防衛態勢を怠りなくしていることを徳川に示す証ではなかったのはないでしょうか。(推測に推測を重ねました。) よろしくお願いいたします。 |
小川様 興味深いご報告どうもありがとうございました。 大変お疲れさまでした。 ご質問は二つです。宜しくお願いします。 1.慶長5年7月には、徳川の諸将の指揮のもと、那須衆が大田原、黒羽の両城に籠城し、対上杉の前線活動をさせさられたということですが、いつまで、この活動は続いたのでしょうか。 9月15日には上杉領内の関山で合戦があり、翌6年7月まで白河口を抑える役割を果たしていたということで、主力が前線で活動している時、かなり南に位置する箒川南岸の諸城の大規模改修を行うのにはかなりの力を割かねばならない気がします。それだけの余力を那須衆は持っていたのか、そのあたり、何か想定されていることがあれば、お聞かせ頂けるとありがたいです。 2.黒羽、大田原、白旗の虎口の構造はかなり工夫されたものになっていて、鳩が森以下の6城に比べると縄張りの違いはあると思います。この違いがあるために、この6城については、場所の選定くらいが徳川の関与と考えられているのでしょうか。1にも関わってきますが、この違いは家康や秀忠が入る城とそうでない城の違いで、実際には徳川方が随分実作業にも関与した可能性は考えられませんか。 |
> 大谷佳史 さんへ ご質問いただきありがとうございます 地元の方からご質問いただき大変うれしく思います。 鋭いご指摘と感じています。報告ではあえて触れず、読者の推測にゆだねる、ちょっとずるい報告となっています。 一歩踏み込んであえてご批判を承知の上で申し上げます。 鳩ヶ森城は大田原氏の関与による整備・改修と考えます。 山田城は泉城の岡本氏の関与による整備・改修と考えます。 沢村城は佐久山の福原氏の関与による整備・改修と考えます。 金丸氏要害は黒羽城の大関氏による整備・改修と考えます。 以上は状況証拠による全くの推測にすぎません。したがって報告本文ではあえて触れませんでしたが、今後文献史料など様々な角度からからのアプローチによって解明されることを願っています。 今後ともよろしくお願いいたします。 |
> 小川 英世 さんへ 小川様、丁寧な回答ありがとうございます。 部位によっては堀の規模に違いのある城郭は珍しくないため、新期築城も視野に入れる必要もあるのではないかと思い質問させていただきました。 また当方、箒川の渡河点が他にあるのかは存じませんが、渡河点を抑える城郭が個々の在地勢力によって元々築かれていたと言うことに疑問を感じた次第でした。 逆に、改修以前に各在地勢力による渡河点掌握の城郭が既に存在していたとするなら、それはそれで興味深い事例であると思います。 このような性格を持った城郭が南岸に並ぶと言う状況が、どの様な背景により成立したのか興味深いですね。 |
> 田崎茂 さんへ ご質問ありがとうございます。 いろいろとご援助などいただきありがとうございました。 1.那須衆の大田原城、黒羽城への籠城は慶長6年7月まで続きます。慶長5年7月から慶長6年7月までの間で実戦は9月15日の関山合戦のみです。伊王野軍が中心とされ、他の那須衆は参加していないようです。なお、上杉領と境を接する芦野氏、伊王野氏は主に上杉方の情報収集に当たっていたようです。これら情報収集活度を指揮していたのは、黒羽城に入城した服部氏です。この情報収集活動によって上杉方の動きもある程度把握しているようで、その動きに合わせて活動(兵の移動など)を行っていますが、概ね戦線は膠着状態といえます。上杉は南下にあまり積極的でない、ということを感じていたのではないでしょうか。 箒川沿岸に拠点を持つ那須衆は防衛ラインを構築することに力を入れることが可能であり、それが彼らの任務であったと考えます。また、この期間司令部は宇都宮城であり、この防衛ラインは宇都宮城のためのもの考えています。 2.大田原城、黒羽城の虎口構造は家康、秀忠の入城を想定するため格式の高い構造にしたことは十分考えられます。鳩ヶ森城以下の6城郭について、内野様への回答では「場所の特定程度」と述べましたが、実際にはご指摘のような状況であったかもしれません。ご指摘を受け、今後の課題としてもう少し深く検討してみたいと思います。 よろしくお願いいたします。 |
> 内野和彦 さんへ ご意見ご指摘ありがとうございます。 当地域の那珂川と箒川の合流点付近は那須国造碑に代表されるように古代那須国の中心地です。古代末期以来那須氏一族が各地に分知されました。それら那須一族が、自立を強めつつ各地に拠点を確保している状況が那珂川沿い、箒川沿いの交通の要所ということになります。これら那須一族の居館跡とされる遺構もいくつか知られていますが、居館跡や城郭跡がどの一族のものかはっきりしていないものが多く今後の課題となると思っています。 今後とも那須地域に興味を持っていただければ嬉しく存じます。 |