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振角様 中野城と音羽城は、数年前に訪れたことがあり、興味深く拝聴しました。 早速質問なのですが、音羽城には現在は石垣の痕跡(矢穴の入った石材等)はあるのでしょうか。 数年前に訪れた時には、なかった様におもったのですが、、 もう一つ質問させていただきます。佐久良城などは、主郭部が分厚い土塁で囲われていますが、やはり地域的に近い、甲賀の城の縄張りも影響があるのでしょうか。 |
> 北畠 さんへ ご質問いただきありがとうございます。 まず、音羽城の件ですが、石垣については痕跡を含め全く残存しておらず不明です。なお、北西の出曲輪の縁辺に低い石積が見られますが、これは明治に建立された神社に伴うものです。 次に、佐久良城の件ですが、直接、甲賀の影響があるかは不明です。日野に限らず、近隣の城郭も分厚い土塁を使用したものが見られますので、この一帯の土豪の特徴ととらえた方が良いと考えております。 ただし、蒲生氏と甲賀の土豪の関係は非常に深く、音羽城を築城したと考えられる蒲生貞秀は甲賀の和田氏からの養子ですし、一族の儀俄氏はそもそも本拠が甲賀郡の嶬峨という土豪です。さらに、水口の美濃部氏へ娘を嫁がせていたほか、貞秀の次男で蒲生家を簒奪した高郷の妻は甲賀の佐治氏でした。 |
田嶌様 ありがとうございます。望月城は、中野城の主郭に丸ごと収まる規模なので、一回り大きくすると、中野城と考えると大きさを想像していただけると思います。 さて、ご質問の件ですが、近隣では、天正2年の伊勢長島一向一揆攻めまでは、強い緊張状態が続きます。その後、信長の勢力が安定すると、日野近隣は落ち着きますが、天正10年の本能寺の変以降、天正12年のいわゆる小牧・長久手合戦が行われる時期に再び緊張が高まる。近隣の天正期はそのような様相です。 個人的には、天正12年に氏郷が伊勢松ヶ島に国替えとなるまで、音羽城も使用されたのではないかと考えております。 次に、瓦の件ですが、城跡で瓦が採集・確認されているのは音羽城のみです。中野城でも確認されておりません。 また、その他の遺跡としては、日野町中山の金剛定寺遺跡で中世と考えられる瓦が採集されています。なお、金剛定寺は天台宗の古刹で、蒲生氏郷の曽祖父である高郷が復興したと考えられる寺院です。現時点では以上のような状況です。 |
鎭野様 関氏の企画展にお出でいただいていたとのこと。ありがとうございます。 元亀2年に神戸友盛が信長により日野に幽閉され、天正元年に関盛信もその後日野に幽閉されたと伝わりますので、今回報告された時期とも重なることが興味深いです。 さて、ご質問の件ですが、地形と地質という点は私も検討している点です。 まず、地質ですが、地山が岩盤や粘土層など城郭によって様々ですので、これはあまり関係が無いかと思われます。 次に地形ですが、当初、自然地形が突出したような地形を選んで削り込んだのではないかと考えていたのですが、観察を重ねると、旧地形がそう都合よい形状をしていたとは思えませんでした。地形を選んでというより、やはり竪土塁とする位置を選んでいたというのが実際と思います。 最後に、南近江でよく見られるかというご質問ですが、南近江に限らず見られるというご教示をいただいております。 私自身、これまでも甲賀郡の城郭や、六角氏の家臣の城郭などで、いくつか見ておりましたので、ありふれたものと考えておりました。そうした中で、日野の城郭で使われている位置や形状などに他のものと異なる特徴があるのではないかということに気付いたのが、本報告の為に一昨年から精査を重ねてからですので、お恥ずかしいことですが、甲賀郡を含め、南近江で見られる竪土塁の個別検証を、日野で見られる竪土塁と同様の視点でまだ確認できていないのが実状です。 |
高瀬様 パワポの評価いただき、お恥ずかしい限りです。 庭園についてですが、地誌で紹介させていただいた古写真が紹介されている程度で、先行研究と言えるものは無いのが実状です。 なお、音羽城の築城期の惣領と考えられる蒲生貞秀は、連歌師の宗祇と親交があり、古今伝授がされたと伝わるほか、自身が新撰菟玖波集に採用される文化人でした。また、蒲生賢秀は中野城と考えられる館で里村紹巴を歓待しており、その際、忠三郎(氏郷)も同席し歌を詠み感心されている記録が残っています。こうしたことから、城内に庭園を含めたハレの空間が設けられたとしても不思議はないと考えております。 また、庭園が存在する可能性が高いと考えておりますのが、類例で紹介した「鎌掛城」です。山麓遺構の、図14の曲輪Ⅹの南隅が若干窪み、背後の斜面の岩が露出している状況です。伝承ですが、鎌掛城は蒲生氏郷に家督を譲った賢秀の隠居所と言われており、蒲生惣領家に関わる城郭としてふさわしい遺構が残存しています。 さらに、竪土塁で紹介した佐久良城の主郭北東隅に窪地があり、これも庭園の可能性があると考えられます。 応仁期ですが、小倉氏の惣領である小倉実澄が、応仁の乱を避けて近江に避難してきた相国寺の横川景三ら学僧を永源寺に庇護しており、その際、佐久良城と考えられる別亭で漢詩を詠むなど、やはり一流の文化人でした。よって、状況的には庭園が存在しても不思議はないと考えられます。いずれにしても調査例が無いため、あくまで推測の域を出ません。 |
振角様 この春、音羽城・中野城・鳥居平城・佐久良城などを訪れていましたので、この度のご報告は興味深く拝聴させて頂きました。2件ほど質問させて下さい。①竪土塁のことですが、近隣の甲賀や南近江の城と比べて蒲生では殊に多く採用されているように思われます。もう少し近隣に伝播していても良さそうにも思いますが、蒲生には、或いは近隣には、特殊な事情があったのでしょうか。②蒲生氏は六角氏の重臣でもありました。早い時期/信長以前から六角氏の本城である観音寺城をはじめ、六角氏の重臣の城では石垣が多用されておりましたが、蒲生氏には石垣の城と呼べるほどの城が無さそうであります。これにも何か事情があったのでしょうか。 |
百瀬様 日野の城郭をお廻りであったということ。ありがとうございます。 ご質問の件ですが、あくまで状況的にということで私見をお答えします。 私自身は竪土塁は基本的に築城当初からではなく、改修によると考えております。当初からであれば、特定の方向に集中して使用するのではなく、規則的に(例えば全方位の隅部分など)設けられるのではないかと考えられることがまず挙げられます。さらに、佐久良城などで、元の土塁の上端ラインをカットして設けた形跡が観察できたことよります。 これは隅に竪土塁を設けるために、元の法面を掘削することで、曲輪外壁の切岸の角度を急傾斜に出来、下方に帯曲輪や横堀を設ける。あるいは元々あるものの面積を追加できる、さらに削り残して設けることで、堀切開口部を狭める形状にできるなどを同時に達成できることを狙ったのではないかと推察しております。 無論、あくまで普請の手順としてまず全体的に曲輪を成形し、続いて竪土塁の整形を行ったとも考えられますが、その場合は、桜谷一帯の城郭などが同時期に造られたということを示すこととなり、それは状況的に説明が困難となるからです。 こうした点から考えられる特殊な事情は、レジュメの最後の方で少し書かせていただいたように、元亀騒乱へ対応する必要があった事ではないかと考えております。信長により、桜谷から丘陵を挟んだ北方に広がる市原野などの一揆がおきている地域の制圧を暗に命じた安堵状が発給されており、それらの対応に4年はかかっていることなど、何より、桜谷を蒲生氏が支配したのは名目的には元亀元年以降(実効支配は永禄7年以降)と考えられる点によります。 次に、石垣の件ですが、実は蒲生氏が明確に六角氏に属するのは、16世紀に入ってからです。それまでは、幕府方として行動しており、応仁の乱以降は六角氏と敵対関係にありました。それが大永3年以降の惣領家の交代(簒奪)によって、明確な六角配下となり再スタートでしたので、石垣を築くこと自体許されなかったと考えております。 もっとも、以前、中井均氏にご教示いただいたのですが、六角氏の居城あるいは六角氏自体の拠点となる城郭では石垣が使用されている一方、家臣の城郭では、虎口などの一部を除き、石垣の使用は確認できないという実態があります。私もこれに賛同しており、だからこそ、石積といえども佐久良城での使用実態は、検証を進める必要がると考えております。 |
振角様 ご報告ありがとうございました。 音羽城及び桜谷に存在する縦土塁と音羽城で発見された瓦の存在から、音羽城が元亀年代に修築、再建されたのでは 、というお話、大変興味深くお聞きしました。ありがとうございます。 縦土塁について不勉強なのですが、私が良くいく埼玉付近の城では、竪堀に付随しての縦土塁状の遺構は良く見ますが、郭の出隅のところを縦土塁にしている例はあまり見たことがありません。 軍事的緊張関係の中で出てきた特徴ということですが、蒲生氏がどこか他所の技術を取り入れてきたとか、あるいは独自に編み出してきたのか、なかなか難しいとは思いますが、見解をお聞かせ下さい。 またこの後の蒲生氏の城の中にこの縦土塁の痕跡や影響は見られるものはありませんでしょうか。 宜しくお願い致します。 中世城郭研究会 田崎 |
田崎様 いろいろとお世話になりました。 ご筆問の件ですが、私もこれまで他所で見てきた竪土塁のイメージは、下方の削平地へのスロープとして使われたような小規模なものを除き、田崎さんの言われるように出隅部分というイメージではありませんでした。 これが、蒲生氏独自の技術なのか、他所から持ち込まれたのかという点については、お答えに困ります。 推定される時期であれば、蒲生賢秀・氏郷が信長に従い、伊勢大河内城攻めや越前手筒山城攻め、近江鯰江城攻めなどに転戦している時期なので、他所の城郭あるいは、織田勢の陣城自体を目の当たりにする機会も有れば、合戦の経験から蒲生氏が工夫する場合もあると考えられるからです。まずは、根拠の前提ともなる、各城郭の竪土塁の構築時期について同時期と言えるのかの検証を進めようと思います。 次に、その後の蒲生氏の城郭への影響ですが、日野一帯について、中野城の実態が不明な点は残りますが、一帯の城郭構築が天正12年で止まると考えられる点から、何らかの影響を及ぼした形跡はありません。 ただし、氏郷が、伊勢や会津に移った際に、構築あるいは修築したものに影響を及ぼしたかという点については、検証しておりません。今後、そうした点についても検証してみたいと思いますので、何か事例がありましたらご教示いただきますようにお願いします。 |