|
和田です。動画をご覧いただきありがとうございます。 >一点ご質問させていただきたいのですが、備中高松城周辺の城郭分布が >織田・毛利で異なるのは、双方の組織構造(≒軍事編成)の違いによるものなのか >もしくは地形の制約によるものなのか、どちらの比重が大きいと思われますでしょうか。 大変素晴らしい着眼点です。私が解き明かしたい点はまさにそこなのです。 結論から申しますと、軍事編成と地形の両者が相互に規定しあっており、その相互規定の前提条件が織田方・毛利方で異なっているのだと考えます。 まず、地形についてお答えします。この戦いの発生した足守川流域は大きく3つのエリアに分かれます。まず、足守は吉備高原(標高200から400m)の南縁部にあたっています。一方、高松以南は、瀬戸内丘陵(標高150m以下)と足守川の流域に形成されたデルタ地帯となっています。 従いまして、こうした多様な地勢を背景とし、もともと多様な城郭が築かれうる前提があったのです。 次に軍事編成についてお答えします。まず毛利方はこの地域全体の防衛体制を維持すべく、足守川に沿って縦列陣形をとったため、必然的に多様な縄張りの陣城群が並立することとなりました。先学において指摘されているとおり、これら陣城群には備中の国衆と安芸・備後の国衆が相番しておりました。こうした在城主体の多様性が、縄張りをより多様なものとしたと考えます。 一方、織田方は報告中でも指摘したとおり、こうした縦列陣形をなす毛利方の陣城を各個に分断し、包囲する戦略をとりました。そのため足守と高松周囲の低丘陵上という類似する地形上に、集中的に陣城を配し、包囲網を形成したのです。こうした包囲網形成という一つの戦略目的が組織内部で共有されていたが故に、織田方の陣城は縄張りの共通性が高かったものと推察します。 以上が私からの返答であります。重ねてご質問いただきお礼を申し上げます。 私は城郭の勉強を始めてまだ日が浅く、何かと至らぬ点があると思います。どうぞ今後ともご指導ご鞭撻をよろしくお願いいたします。 |
鎭野誠様 最初のご質問をどうもありがとうございます。実行委員会の私からも御礼を申し上げます。 和田剛様 ご報告いただき誠にありがとうございます。厚く御礼申し上げます。 さて,ご回答に概ね納得いたしました。ただし,次の点はどうでしょうか。 「戦略目的が組織内部で共有されていたが故に、織田方の陣城は縄張りの共通性が高かった」とのご推察ですが,「戦略目的」と「縄張り」との間には,かなりのギャップがありそうに思います。命題「戦略目的が共通 ⇒ 縄張りが共通」が主張(証明)できるでしょうか。毛利側にも「足守川の防衛ラインを守る」という共通の戦略目的があったはずですが,縄張りが共通ではないというのは,それ自体がひとつの反例になっていませんか。 掲示板での議論は,ゆっくり吟味してから書けるので,なかなかよいですね。(自画自賛) |
西村様、ご質問ありがとうございます。 >「戦略目的が組織内部で共有されていたが故に、織田方の陣城は縄張りの共通性が高かった」とのご>推察ですが,「戦略目的」と「縄張り」との間には,かなりのギャップがありそうに思います。 仰られるとおりです。 >命題「戦略目的が共通 ⇒ 縄張りが共通」が主張(証明)できるでしょうか。毛利側にも「足守川の防衛>ラインを守る」という共通の戦略目的があったはずですが,縄張りが共通ではないというのは,それ自体>がひとつの反例になっていませんか。 言葉が足りませんでした。そもそも織田方、毛利方ともこの備前・備中国境目領域にあたる、足守川流域の支配権を獲得するという、「戦略目的」は同じです。 しかし、そのための城郭の用い方ー城郭群形成パタンーが異なっているのです。 もう少し解説します。まず、毛利方の城から見ていきましょう。確かに毛利方の城は「足守川の防衛ラインを守る」という戦略目的は共通しております。しかし、実態はそれぞれ異なる機能を有していたと考えます。 まず、足守にある宮路山城と冠山城は、報告中で述べたとおり、宇喜多方の備中攻略のための橋頭堡であった鍛冶山城に対する付城でした。これら城郭は吉備高原南縁部に位置し、境目の城郭にふさわしく畝状空堀群や土塁、連続堀切が採用されるなど技巧的な縄張りとなっています。 備中高松城は足守川(正確にはその支流ですが)の形成したデルタ地帯に位置します。この城は備中南部地域はおろか、現状、岡山県下最大規模の平地城郭です。報告中で述べたとおり宇喜多氏、あるいは池田氏による改修の手が入っており、戦い当時の縄張りには疑問がありますが。ただし、最も南にあたる(「三の丸」と後に呼ばれる)地点で行われた発掘調査により、戦国期の堀が検出されています。また、本丸とされる地点は標高が最も高く、戦い当時も主郭であった可能性が高いと考えます。従って、もともと全長400m近い大型の城であった可能性が高いと考えます。 すでに先行研究でも指摘されておりますが、備中高松城は山陽道と後の大山道、あるいは松山往来という三つの陸上交通路の結節地点に築かれています。毛利方はこれら陸上交通路を掌握するため、この城を運用したのだと考えます。また、ここでも先行研究によりますと、備中高松城主であった清水宗治は当該地域おける毛利方領主連合の盟主的な地位にあったとされています。こうしたことから、備中高松城は、毛利方がこの足守川流域の防衛ラインを維持する上で、拠点となる城であったと考えます。 備中高松城の南に築かれた加茂城、日畑城、甫崎天神山城は山陽道を挟んで平地、丘陵上、そして足守川沿いにそれぞれ築かれています。これらの城は備前・備中国境に最も近い場所に築かれています。従ってこれら城郭は、山陽道と国境線に近くに兵を入れ、駐屯基地、あるいは監視所として、防衛体制を固めるために運用された城郭群と考えます。 このように、毛利方の城は足守川沿いに築かれ、防衛ラインを維持するという大きな目的は共有していたと考えます。しかし、実態としては、足守、高松の各地点でそれぞれで異なる機能を果たすべく運用されていたのです。こうした機能の違いに立地の多様性が加わることで、毛利方の陣城(ここではこの用語を同時期に戦闘に用いられた城として、やや広い意味で使います)は多様な縄張りを持つに至ったと考えます。 次に織田方ですが、攻撃側であるため、もともと陣城選地の自由度は毛利方に比べて高かったと考えます。しかし、足守、高松ともに、攻略対象となる毛利方の周囲2km以内の低丘陵上(一部を除き、比高100m以下)に陣城群を築いたのでした。つまり、織田方の陣城は、画一的な地形上に築かれているのです。 次に縄張りを見てみましょう。織田方は足守では土塁囲みを採用する単郭式の小城郭を採用していました。一方、高松では主郭付近に土塁が見られるものの、周囲の削平が不明瞭な連郭式の大型城郭が用いられることが多いことを指摘しました。こうした縄張りの違いは足守と高松での戦闘推移の違いにあります。 この戦闘推移については緻密な先行研究があるので詳しく述べませんが、織田方は足守ではおよそ半月で冠山城、すくも塚城を攻め落とし、宮路山城を開城させるなど、電撃的な機動を見せました。この時、足守で織田方が用いた城は概して小型であっただけでなく、土塁以外の防御施設には乏しいものでした。これらはその縄張りと面積から見て監視所、指揮所、駐屯地という機能の違いはありました。しかし、包囲網を構成すると同時に攻撃拠点として特化した城郭群であったという点は、共通していたと考えます。 次に高松において織田方は備中高松城を水攻めにすべく、築堤に大きな土木量を投じました。そのための基地となる陣城は、大兵員が入城するため、最低限の駐屯機能を有する大型で簡易な連郭式が採用されたのだと考えます。ここでも織田方は電撃的な機動を見せ、毛利方の後詰め勢が着陣する5月21日以前に築堤を完成させました。そして備中高松城の包囲網を完成させたのです。 報告の繰り返しになりますが、このように毛利方は足守川流域の南北10kmにわたる広域の防衛ラインを維持するため、縄張りの異なる陣城を分散、連立的に用いたのです。一方、織田方は毛利方の防衛ラインを攻略するため、縄張りの類似する陣城を集中、連接的に用いて包囲網を築いたのでした。 以上、織田方と毛利方は同じ「戦略目的」を共有しながら、異なる城郭群形成パタンを採用していたのでした。 こうした違いは第一に織田方が攻撃側、毛利方が守備側であったという立場の差異により生じたと考えます。第二に両勢力の軍事的結合のあり方の差異に起因している可能性があります。ですがこれについては私の勉強不足により、十分なお答えを準備できません。 もし詳しい方がご覧になり、ご意見などいただくことができましたら、恐悦の至りです。 長文、お目汚し失礼しました。 和田拝 |
和田様 早速の御回答ありがとうございます。色々御教示いただき大変勉強になりました。 西村様 拙問を深耕していただきありがとうございます。 毛利、織田の戦略がそれぞれ「防衛」と「攻略」とすれば、毛利:高松城救援を境目防衛戦の延長上に位置づけ→既存の城郭を利用、 織田:主目的が高松城攻略→最善の城郭配置、は戦術的に理に適っていると思います。 先日読んだ書籍に毛利は本国と認識する安芸・備後より東の経略に熱心で無いとの記述があり、左記を踏まえると 毛利は「負けなければよい」、織田は「勝たなければならない」という熱量が投入兵力や土木量にも影響してる様にも感じました。 また、備中高松城を巡る城郭の配置や構造を鳥取城攻めや三木城攻めの場合と比較する事で、両勢力の支配構造や軍事編成の 変遷等も考察出来そうな気がします。 駄文にて恐縮ですが今後とも宜しくお願い致します。 |
和田です。動画のご視聴ありがとうございます。 >ご報告の中では、岡山県内では主に西側に分布の偏りが認められるということ >でしたが、さらに西側の備後・安芸など、毛利領国全体の中で考えた場合、 >この分布のあり方について、どのような傾向を認めることができるのか 昨今の情勢下もあり、近頃は他県の城の調査には出かけておりませんので、私のわかる岡山県下での事例についてお答えします。備後、安芸国については詳しい方のフォローをお願いします。 まず、岡山県西部に分布が偏るとは言え、県下全域に見られる(土塁囲みもですが・・・)ことから、畝状空堀群の分布域=毛利領国、あるいは毛利氏の軍事的影響下にある地域と見ることはやや短絡かと考えます。 実態として、毛利氏と他勢力(庄氏・藤井氏・浦上氏・三村氏、特に宇喜多氏など)との交戦記録のある地域に多い、ということは間違いないようです。しかし、毛利氏が全く関わっていない城でも、その採用は見られます。 例えば、天正3年に備前国の宇喜多直家は主家にあたる浦上宗景をその本拠、天神山城に追い込みます。この天神山城没落のきっかけとなったのが、宗景の被官、日笠頼房の拠る青山城の落城でした。 この青山城には20本を超える畝状空堀群が見られます。これは堀切から派生して、上部にある曲輪に直交するように設けられています。また、空堀群の頂部は横堀状に連接しています。加えて、一部の竪堀間は竪土塁状を呈しています。竪堀からはつづら折りとなる城道を経て城内へ入ることが可能であり、坂虎口が設けられています。こうした縄張りは備中国・高屋城や宮路山城など、毛利方の国衆が入った記録にある城の縄張りと似ています。 青山城はその後一切の記録に登場しません。また、発掘調査により戦国後期の建物とともに炭化した穀物が検出されています。この炭化穀物の出土は、落城した際に城が焼き払われたとする伝承を裏付けるものです。加えて、炭化穀物の出土した遺構面の上層には新しい遺構面が形成されていないとのことです。つまり、落城後に利用・改修された痕跡は見られず、畝状空堀群を伴う縄張りは、天正3年の天神山城落城時期に近いものである可能性が高いということです。 他にも、浦上氏傘下から宇喜多氏に寝返った、従って天正3年以降に明石行雄という武将が関わって築城した記録の残る備前国・白石城でも畝状空堀群が見られます。これは主郭の切岸下に放射状に設けられるもので、青山城のものとは趣が異なるようです。 同じく、編纂物ではありますが、『備前記』に尼子氏の攻略により落城した伝承の記載される備前国・周匝茶臼山城でも、畝状空堀群が見られます。これは尾根の端部に設けられた堀切から派生して放射状に設けられるものです。ただ、『備前軍記』などの記述によれば浦上氏の残党が籠もっていたところを天正6年に宇喜多勢の攻略により落城したともあり、その際の縄張りである可能性も否定できません。 報告中でも述べたとおり、天正10年2月に勃発した、八浜合戦時に宇喜多氏の陣城となった備前国の両児山城や、備中国における宇喜多方の橋頭堡であった鍛冶山城でも大規模な畝状空堀群が見られます。 両児山城は折りを伴う横堀と土塁とを組み合わせたものです。結果、竪堀に対し土塁越しに十字横矢をかけることが可能となっており、極めて機能的なものとなっています。 鍛冶山城は尾根端部に設けられた堀切から派生し放射状を呈するもの、連続堀切と並列に用いられるもの、上部の土塁(あるいは横堀か)と組み合わせて用いられるものなどが総合的に見られます。これらは岡山県下では最も発達した畝状空堀群だと考えます。 以上のように、畝状空堀群を備える城の築城主体は多様であったと考えます。岡山県下の畝状空堀群については現状、複雑な軍事的関係性がその背後に存在していると考えます。また、今回は美作国の畝状空堀群については触れませんでした。今後はこれらを含め、縄張り調査と併せてその分類、編年、築城主体の推定等を進めていくつもりです。 なんだか煮え切らない答えですいません。現状は広域的な分布傾向の把握ができたが、その詳細については今後の課題・・・というあたりでお許しください。 |
和田です。ご返事ありがとうございます >領主ごとの畝状空堀群採用に対する指向性は少なくともあったものと >私は見ていることから、質問させていただきました。 それについては大いに賛同いたします。それでは個別の反証例はあると言うことを含んだうえで、大きな枠組みで申し上げます。 備中国では、毛利氏と関わる城館で採用される場合が多いと思います。美作国西部も同様だと思います。ただ、毛利方の拠点となる城、例えば小早川隆景が入城した記録のある笠岡城、幸山・福山城、あるいは穂井田元清が選地して築かれた記録の残る茶臼山城ではその採用が見られません。美作国において毛利方の重要な城であった高田城もそうです。 それよりも高屋城や猿掛城、宮路山城や飯ノ山城など、毛利氏と他勢力(この場合は庄氏、藤井氏、宇喜多氏)との交戦地域にある城で採用が盛んだと言うことです。これは美作国の飯野山城、岩屋城、目崎城、医王山城(この場合は宇喜多氏)などでも同様の傾向だと言えます。 繰り返しになりますが戦国末期において毛利氏と対外勢力とのぶつかり合いの起こった地域=境目地域に、採用されることが多いていうことは明らかです。 ここで備中国について、岡寺様が提唱されている城館構成モデルに即して言えば、毛利方の本拠領域には畝状空堀群を持たない単純な構造の大型城郭(笠岡城・茶臼山城・幸山、福山城)が築かれる。そして中間領域には畝状空堀群を持ちつつも単純な縄張りの城(折敷山城・才崎城)が、そして境目領域に畝状空堀群を採用し、複雑な縄張りを持つ城(飯ノ山城、宮路山城、冠山城・・・そしてあるいは南山城)が築かれる、という入れ子状の構造を、ここでも見いだせるかもしれません。 こうした城郭館の関係性を検討していく基礎的な単位として、今回「城郭群」という概念を提唱させていただきました。まだ、手始めで具体的なお話をすることができないのは申し訳ありませんが、どうか長い目で見てやってください。 それでは引き続きお願いいたします。 |
> 伊藤俊治 様 和田です。ご質問がありがとうございます。 はい。見つかっております。まず、東阿曽の千引遺跡の発掘調査では、土塁が検出されています。土塁は下底5m、高さ2mほどのもので、尾根頂部を互いに連接させるように設けられています。断面観察によると、地山土が反転してみられるようで、かきあげ土塁であることは間違いありません。 報告書中では10箇所で土塁が検出されたと書かれていますが、残念ながらその正確な位置がわかりません。 下足守でも同様の遺構が見られるとのことですが、私が歩いた限りでは土塁というほど顕在的なものとは言えず、尾根頂部を削平して、連絡通路として利用したというあたりが実体に近いのではと考えています。 報告中でも述べた通り、秀吉は宮路山城、冠山城、すぐも塚城を攻略するにあたり、堀、柵、塀を築くことを固く命じています。土塁線上にはこれらが設けられていた可能性があります。 また、5月3日には、秀吉が毛利方の3城を攻略するにあたり、包囲用の縄を用いていたこと、この後に攻略を開始する備中高松城の包囲のため、新たに縄を納めてほしいと児島の年寄中に伝えています。こうしたことから、陣城間は縄によっても繋がれていた可能性が浮上します。 高松では、水攻めのための築堤こそが陣城間を繋ぐ塁線であった可能性があります。ただ、現状、この築堤は300m程度しかなかったことが有力視されています。その場合、遮断線を築くため、築堤のない部分は、塀や柵、逆茂木などを設置していた可能性があります。 ところで、備中高松城の戦いで用いられた陣城、包囲網には、三木城、鳥取城攻めで用いられた、長大な横堀ラインによる防御線が見られません。これは、埋没してわからなくなっている可能性があります。 また、全体的に見て防御施設に乏しいのは三木城、鳥取城攻めより、かなり短期間で戦いが収束したことも影響しているでしょう。 すでに高橋成計様により詳細な縄張り検討がなされていますが、天正8年に宇喜多、毛利氏間の戦いが繰り広げられた美作国・高城攻めや医王山城の戦いでも、土塁囲みを備える陣城が用いられました。ただ、これらには陣城間を繋ぐ塁線はみられません。 また、畑和良様の研究にて詳しく論じられておりますが、天正2、3年に起こった、天神山城の戦いにおいても、宇喜多氏は土塁囲みの小陣地を用いたとされています。ここでも陣城間を繋ぐ塁線は見られません。宇喜多氏が土塁囲みの小陣地を使う例は、今のところこれが一番古い例です。 ところが、天正12年に勃発した、毛利、宇喜多の最終戦争である岩屋城の戦いでは、備中高松城の戦いと同じく土類囲みの小陣地と土塁線を組み合わせた包囲網が形成されています。包囲網は比高500メートル、総延長は8kmに及ふ長大なものです。すでに髙田徹様の研究で詳しく論じられていますが、ここでは部分的に横堀が見られ、縦土塁、堀切なども駆使したより発達したものとなっています。 これらを時系列に整理すると、宇喜多氏は天正初頭にこの土塁囲みを備える陣城を用いた戦術を採用し始めた。秀吉との共闘となった天正10年の備中高松城の戦いでは、それらを繋ぐ塁線を用い始めた。そして塁線を強化して最も遮断性を強めたのが、天正12年の岩屋城の戦いだと言うことです。 今後はこれら陣城群を三木城攻め、鳥取城攻め、そして賤ヶ岳の戦いで用いられた陣城群と比較する必要があると思います。 県外についてはまた、情勢が落ち着いてきましたら、精査していきたいと思います。 ご質問ありがとうございました。引き続きよろしくご指導ください。 |