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F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.45 )
日時: 2021年08月20日 02:01
名前: 西村 和夫 [ 返信 ]
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佐藤 純一 氏のご報告です。

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( No.80 )
日時: 2021年08月25日 01:11
名前: 伊藤俊治 [ 返信 ]
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和城研の伊藤です。いくつか質問をしたいと思います。
(1)安宅氏居館跡出土の鉄砲玉ですが、これは「使用後」のものだと思って良いでしょうか。その場合、出土位置から考えて、川側から居館に撃ち込まれたものでしょうか。居館内に他に戦火にあった痕跡のような遺物や遺構の出土はありますか。
(2)八幡山城から備前焼や輸入陶磁器が出ていますが、定常的(籠城ではなく)な居住実態はあったのでしょうか。
(3)安宅氏居館跡からは津波被災跡のようなものは見つかっていませんか。
(4)湊跡のとこで触れられてた「土場」というのは木材集積場のことだと思いますが、「留場」というのも同じでしょうか。


Re: F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.92 )
日時: 2021年08月25日 19:01
名前: 佐藤純一 [ 返信 ]
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> 伊藤俊治 さんへ

伊藤様、ご質問ありがとうございます。白浜町教育委員会の佐藤です。

(1)
 鉄砲玉1は未使用の可能性もありますが、2・3は使用後と考えています。2は、板状のものに衝突したため、断面が半円形状となったと考えられます。
 敵勢力から発射されたとすれば、川側(西側)が一番想定しやすいです。報告の繰り返しになりますが、鉛同位体比分析ではそれぞれ産地が異なることがわかっており、1と2は日本産であり、3はタイ産とされています。タイ産材料による鉄砲玉は、織田・豊臣方勢力が所持していたと推測されていることから(藤澤明・平尾良光・三浦麻衣子2021「第6章第1節 龍松山白戸出土鉄砲玉資料の鉛同位体比分析研究」『山本氏関連城館群総合調査報告書』より)、2が安宅氏側から、3が的勢力(織田・豊臣方?)からの発射と想定することも可能かもしれません。このあたりはより慎重な検討が必要かと思いますので、結論づけることは難しいです。
 たとえば火災痕跡などのその他の戦火を想起させる遺構や遺物は確認されていません。

(2)
 遺物組成や出土量から、臨時的な籠城のみの想定は難しいと考えます。ただし、発掘調査では建物遺構がほとんど確認できていないこともあり、居住実態については判然としません。

(3)
 明確な津波痕跡は現時点では確認されていません。これは、日置川河口部の同立地の他の遺跡でも同様です。

(4)
 留場については、上流より流してきた木材を一時的に留めておく川の渕もしくは河川敷を指します。日置川中下流域では、上流より順に小房、大、向平、清水(安宅の小字)、大向と留場があり、そこから流してきた木材を最終的には日置浦のそれぞれの製材工場の土場に集積されたと考えられます。

以上、簡単ではありますが、回答させていただきます。

引き続き宜しくお願いします。


Re: F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.98 )
日時: 2021年08月26日 00:07
名前: 伊藤俊治 [ 返信 ]
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御回答ありがとうございます。
 お尋ねしたのは、(1)戦闘があったとすれば相手は誰で、何時のことなのか、(2)臨時的な用途でないとすると、安宅本城とどう使い分けていたのか、(3)水軍領主というイメージの割には海から離れて本拠があるのは、津波などの災害の影響があったのか、などと思ったためです。 また色々ご教示下さい。


Re: F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.100 )
日時: 2021年08月26日 19:27
名前: 佐藤純一 [ 返信 ]
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> 伊藤俊治 さんへ

伊藤様、ありがとうございます。あまり明確な回答になっておりませんが、追記させていただきます。

(1)
戦闘の時期は、鉄砲玉が出土した居館内部の区画溝が16世紀後半代に埋没したものですので、堆積状況からほぼ同時期を想定しても差し支えないと考えます。ただ、16世紀前半以降の熊野での戦さの状況は同時代史料からはよくわかりません。秀吉の紀州攻め時も日置川流域及び安宅氏の動向についてははっきりしていないのが現状です。

(2)
安宅氏居館跡と八幡山城跡の利用形態の差をどう評価するかは難しいですが、出土遺物から両者が併存していたのは間違いないといえます。八幡山城跡の出土遺物が15世紀後半から16世紀前半代と限定されることから、文献史料から読み取れる紀伊守護畠山氏の内訌にかかる戦乱との関係が想定されています。その場合も、居館跡は機能していたとみられることから、流通の拠点としては維持されていると考えることもできます。

(3)
中世期の湊は、海岸沿いだけでなく、河口より川を遡った地点に築かれることがあるようです。たとえば、和歌山県内の新宮津とも想定される新宮城下町遺跡も河口から約2km遡った地点になります。それに加え、安宅氏居館跡については、さらに上流の久木小山氏と密接に連携しているため、日置川上流と河口部とのハブとしての役割や利便性を踏まえた立地であるとの評価も考えられます。


Re: F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.109 )
日時: 2021年08月27日 02:13
名前: 飛井 [ 返信 ]
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飛井と申します。宜しくおねがいします。
実は以前の熊ののオンラインシンポジュウムも視聴していたのですが、今回はレジュメがあるので、各城の形態差を再確認することができて興味深かったです。

そこで質問なのですが、これらの形態差にはどのような原因があるとお考えでしょうか。

あまりしっかりと観ているわけではないのでいい加減な感想かもしれませんが、例えば八幡山城の竪土塁を含む土塁の使いかたは、周辺地域の諸城でも幾つか見かけたような気がします。このような土塁の配置・使用方法が地域性によるものだとするならば、要害山城や土井城であまり目立たないのはなぜなのでしょうか?

いい加減な質問で申し訳ないんですが、答えられる範囲でお応え頂ければ幸いです。


Re: F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.111 )
日時: 2021年08月27日 12:44
名前: 木島孝之 [ 返信 ]
 九州大学の木島と申します。
 八幡山城跡の現存遺構の実年代観について感想を述べさせていただきます。

 八幡山城の遺構年代については、関西では発掘調査時からずっと、15世記後半から16世紀前半と理解されてきているようですが、現存の姿については16世紀前半という理解で果たして大丈夫なのでしょうか。大いに疑問を感じております。藤澤氏瀬戸美濃編年案に囚われすぎているように思いますが。

 既に御存知かと思いますが、藤澤氏瀬戸美濃編年案については、大窯Ⅰ期・Ⅱ期・Ⅲ期と古相最終期の標準遺跡の実年代比定自体に根本的な誤りがあり(勝間田城・牧野城・沓掛城・安濃津湊・山科本願寺等の基幹的標準遺跡の実年代比定の危うさ。新府城・田向城など、明らかに16世紀末と考えられる城跡での瀬戸美濃Ⅰ期の出土状況等)、これに鑑みると、藤澤氏瀬戸美濃編年案を杓子定規に使い、無批判に乗っかるのは、極めて危険であるという指摘が、今や“「逆」杉山城問題”となっています。そもそも“杉山城問題”において杉山城を15世紀末の「杉山之陣」に比定した文書の分析自体が誤読(そこまででなくとも、誤った使い方)であり、更に、この文書の中の「杉山之陣」は、武蔵国の椙山ではなく、相模国と伊豆国の境目の箱根近くの「椙山」という場所を指している可能性が高いことも指摘されています。また、杉山城の発掘調査では、鉄砲玉の出土を表土からのものと一蹴していますが、元より遺構層が一層しかないのに、鉄砲玉を表土からの出土物として安易に処理して藤澤氏瀬戸美濃編年案Ⅰ期出土品との共伴関係の可能性を無理にでも否定しようとしている(何としても藤澤氏瀬戸美濃編年案を護持しようという意図が感じられます)ところが、却って疑念を抱かせます。そして“「逆」杉山城問題”の中でいわれていたとおり、捜して行けば16世紀末まで使用されていたと考えられる城跡で藤澤氏瀬戸美濃編年案大窯Ⅰ期や古相製品の出土事例が多くみつかるはずという指摘がありましたが、滝ノ城、津久井城、大胡城などをみれば、今後も益々、このような藤澤氏瀬戸美濃編年案の妥当性を疑わせる事例が増えてくるものと思います。そもそも藤澤氏瀬戸美濃編年案が提示される以前は、天正伊賀乱関係の城館の遺物の問題等から、藤澤氏瀬戸美濃編年案大窯Ⅰ期に相当する製品を、そんなに古く考えては危ないという、尤もと思われる見解が考古学研究者の中にもあったと思います。それが何故、基幹的標準遺跡の実年代が文献史料の誤読と間違った活用方法によって構築されている藤澤氏瀬戸美濃編年案を、そのまま多くの考古学研究者が何の疑念なく受け容れ、これ一本槍になってしまったのか甚だ不思議に思います。また、藤澤氏瀬戸美濃編年案を護持するためでしょうか、常滑や貿易陶磁との共判関係から藤澤氏瀬戸美濃編年案は大丈夫だという擁護論も一部にみられますが、そもそも常滑や貿易陶磁は心許ないから藤澤氏瀬戸美濃編年案を待望の年代定規として皆飛びついたという経緯がありますので、それに鑑みると、藤澤氏瀬戸美濃編年案が危なくなった途端に常滑や貿易陶磁を持ち出して擁護するという動向については、本末転倒で節操がないように思います。

 なお、“杉山城問題”及び“「逆」杉山城問題”については、中西義昌氏「縄張り研究の独自性と今後の展望 -いわゆる「杉山城問題」によせて-」(『城館史料学』10号,2018年)、同氏「縄張り研究の独自性と新しい城郭研究が目指すもの-シンポジウム「縄張・考古・文献―城郭研究の明日」を通して-」(『中世城郭研究』28号,2014年)、同氏「「椙山之陣以来」にある「椙山之陣」は何を指すのか? -竹井英文氏「その後の「杉山城問題」」における批判に応える-」(『史学論叢』44号,別府大学史学研究会,2014年)に詳しく書かれています。

 八幡山城跡については、一旦、藤澤氏瀬戸美濃編年案に囚われるのをやめて、鉄砲玉の出土や、他の安宅氏関係城郭跡の中での縄張りの卓抜性(無論、古式で単純な縄張りは、後々もずっと再生産され続けますが)に注目すれば、現存遺構は16世紀末期頃の姿と考えても何ら問題がないと思いますが。そうなると八幡山城も、新府城・田向城などと同じく、“「逆」杉山城問題”を示す有力な事例に様変わりすることになります。

 以上、長々と感想・私見を述べさせて頂きました。
 失礼致します。


 


Re: F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.112 )
日時: 2021年08月27日 13:25
名前: 木島孝之 [ 返信 ]
九州大学の木島です。
先ほどの感想・私見に言葉足らずのところがありましたので、追記させていただきます。

「八幡山城跡については、一旦、藤澤氏瀬戸美濃編年案に囚われるのをやめて、鉄砲玉の出土や」と書きましたところについて、「鉄砲玉の出土」は、安宅氏居館からの出土です。紛らわしい書き方をしてしまいました。申し訳ございません。修正させていただきます。

 安宅氏居館と八幡山城は位置関係からみて、セットの関係とみてよいと思います。よって、安宅氏居館からの鉄砲玉の出土は、八幡山城跡の最終遺構の年代観に大きく関係してくるのではないかということです。逆に言えば、安宅氏居館の鉄砲玉を16世紀末期頃のものとみてよいならば、八幡山城跡の最終的な姿を藤澤氏瀬戸美濃編年案に囚われる必要が益々以てなくなると思います。また、先ほどの感想・私見では書いておりませんが、全国の遺跡を見ておりますと、藤澤氏瀬戸美濃編年案だけでなく、備前の現行編年案についても再確認する必要はないのか(仮に、備前の編年案自体は疑わない立場を採った場合でも、その運用方法に問題はないのか)、疑問に思うところが多々あります。


Re: F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.121 )
日時: 2021年08月27日 22:08
名前: 佐藤純一 [ 返信 ]
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> 飛井 さんへ

飛井 様 ご質問ありがとうございます。また、以前の熊野水軍シンポジウムにもご参加いただき、ありがとうございました。レジュメの件、ご不便をお掛けして申し訳ございませんでした。

さて、各城郭ごとの形態差は、単純化すれば安宅氏城館跡内で担った役割に違いに起因すると考えています。本拠の詰めの八幡山城、田野井地域の拠点としての中山城、境目領域に位置する要害山城とそれぞれの特性に応じたものではないかと想定しております(もちろん時期差や地形、当初の築城主体といった要因を検討する必要がありますが)

また、土塁について言えば、各城郭で形態に異同があるものの、たとえば土塁内側を石積みで補強する技法については、八幡山城跡、中山城跡、土井城跡、要害山城跡で共通するものとなっています。もちろん、安宅氏城館跡のみというよりは、熊野(のなかでもとくに西部で顕著かと考えています)で広く用いられています。ただ、そのなかでも安宅氏城館跡で積極的に採用されている印象があります。

宜しくお願いします。


Re: F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.123 )
日時: 2021年08月27日 23:06
名前: 佐藤純一 [ 返信 ]
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> 木島孝之 さんへ

木島 様、八幡山城跡の実年代に関する丁寧なご提言ありがとうございます。参考にさせていただきます。

安宅氏城館跡の時期比定については、陶磁器類だけではなく消費スパンが短期間と想定される土製煮炊具の出土状況を検討しております。安宅氏城館跡のみならず、熊野の城館跡で出土例が増加傾向にある播磨型土鍋を主な検討素材として、熊野における編年を試みているところであります。播磨型土鍋は、祖形となる鉄製羽釜の痕跡器官となる突帯部の型式学的変遷が捉えやすい器種であることも対象とする理由です。

もちろん現行の播磨型土鍋の編年案の実年代観において、「藤澤氏瀬戸美濃編年」や備前焼が共伴資料とされる例がないわけではないので、間接的に影響を受けていることは否めませんし、生産地とされる兵庫津や堺環濠都市遺跡などとの比較検討や実年代観の幅といった課題は山積しています。

まずは安宅氏城館跡を含めた熊野における土器編年を確立していきたいと考えております。そうしたうえで改めて縄張研究や文献史学などの成果との突き合わせを行いたいと思います。

考え方を整理するよい契機となりましたので、重ねてご提言に感謝申し上げます。


Re: F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.125 )
日時: 2021年08月27日 23:40
名前: 田嶌貴久美 [ 返信 ]
中世城郭研究会の田嶌です。

故郷が神奈川県なので所謂「海城」や海賊との関係が疑われる城が多く、大変興味深く拝聴いたしました。3つほど質問なのですが、
1:場所が変われば品変わるで、神奈川県ですと北条湾を直下に見下ろす三崎城、同じく油壷湾を見下ろす荒井城、浦賀湾を見下ろす浦賀城と、関連する湊に極めて隣接する形で城郭が築かれています。神奈川以外の後北条氏の海城でも、伊豆下田城や静岡県沼津市の長浜城も共通する立地です。ご発表にあった城郭群の中では大向出城がその立地的にそれに近く、小規模城郭とのことですがどのような城なのか発掘成果などございましたら教えて頂ければと存じます。
2:安宅氏居館跡至近の湊伝承地は日置川を結構遡った場所にある印象ですが、軍船(いろいろありますが)の運用が可能なのでしょうか?
3:熊野で関東の海城のように、湾を見下ろす大規模城郭があれば教えて頂ければと。
以上です、何卒宜しくお願い致します。


Re: F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.139 )
日時: 2021年08月28日 17:50
名前: 佐藤純一 [ 返信 ]
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> 田嶌貴久美 さんへ

田嶌 様、ご質問ありがとうございます。

1.大向出城跡については、日置川河口部の岬の先端部に、二重の堀切を築いていますが、造成が非常に甘く曲輪部もはっきりしないような、いわゆる見張り場的な想定のみとなっております。
 熊野で海に近接して築かれる城郭は、古座川流域に位置する西向小山氏の小山城や高川原氏の古城山城が挙げられると思います。熊野の湊津と城郭については、和歌山城郭調査研究会の白石さんが神奈川大学日本常民文化研究所調査報告『熊野水軍小山家文書の総合的研究』で触れられています。後日、ホームページ上でみれるようになる予定です。ご参考までに。

2.日置川河口~安宅区間はわりと水深が深く(そこから上流は浅め)、ある程度対応可能でしょうが、船の大型化により、湊機能の中心がより河口の日置浦に移っていくと考えています。大永3年には、安宅氏の本願により日置浦(当時はそう呼ばれていないでしょうが)の出月宮の再興が果たされており、河口部付近の寺社整備に力を入れている様子が窺えます。中世から近世にかけて、日置川流域の代表的な湊が「安宅」「安宅平喜村」「日置浦」と漸次的に変化することと軌を一にする現象と捉えられます。

3.繰り返しになりますが、古座川流域の古城山城や三重県熊野市の鬼ヶ城などが比較的規模が大きいかと思います。一方安宅氏城館跡を含めた熊野西部でとくに顕著ですが、大規模な城郭はどちらかといえば河口からやや遡った立地となる傾向があります。ただし、河口付近から城郭が遠望できる位置にあることは示唆的であるとも考えています。このあたりは海と密接に関連しながらも、他の「海城」的な城郭との顕著な差異ではないかと愚考しますが、その背景まではなかなか掴めないのが現状です。

宜しくお願いします。


Re: F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.146 )
日時: 2021年08月28日 22:01
名前: 伊藤俊治 [ 返信 ]
[ 編集 ]
佐藤さん 田嶌さん 和城研の伊藤です。
 山内譲氏などがよく書かれていますが、東国と西国では「水軍」のありようが異なるようです。 西国の水軍は、生業として関銭の徴収を行うので、小回りの利く小型船の運用が中心で、「海賊」的ですが、東国の水軍は、大名権力などとの結びつきが強く、より「水軍」的というか軍事的な要素が強いといわれます。船も大きいのではないでしょうか。小田原陣の時に、下田城でないと船が入れないと北条方の梶原水軍がクレームを付けた文書があったように憶えています。多分中〜大型船が停泊できる水深のある「浦」が必要なのでしょう。
 これに対して、小早のような船は「浜」でも「河岸」でもいいわけです。こうした違いが「水軍領主の城」の違いにも出ているのでは、と思っています。特に熊野の水軍は川で内陸とつながっているので、東国の水軍とは様相が違うのでは。九鬼はまた少し違いますが。
 


Re: F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.166 )
日時: 2021年08月29日 10:19
名前: 佐藤純一 [ 返信 ]
[ 編集 ]
> 伊藤俊治 さんへ

伊藤様、ご教示ありがとうございます。

東と西の「水軍」の在り方から、その狭間・結節点にあたる熊野の独自の在り方について、さらに明確化していければと考えています。

今後ともご指導宜しくお願いします。


Re: F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.168 )
日時: 2021年08月29日 11:14
名前: 田崎茂 [ 返信 ]
佐藤様
ご報告どうもありがとうございました。
不勉強で、熊野水軍の城についてはほとんど知識がなく、現地に赴いたこともなかったので、大変勉強になりました。ありがとうございます。
質問というようより感想になってしまいますが、安宅氏が、文禄慶長の役に出陣し、熊川城にも関わったりしたというお話を伺い、毎年のように倭城を訪問し、巨大な登り石垣に驚いていた頃を思い出しました。
水軍として様々な場所に出向き、安宅氏なども他の海城なども多々見てきたことと思います。そのような他氏の城に影響されたりしたものなどはないのでしょうか。
また熊野三山との関係も紹介されていましたが、近いと城郭も低調になるということであるのは、緊急の場合には三山の中に立て籠もるようなことが想定されるのでしょうか。
素人のあさはかな質問で申し訳ありません。宜しくお願いします。


Re: F. 史跡 安宅氏城館跡 — 熊野水軍の城館群 ( No.175 )
日時: 2021年08月29日 16:52
名前: 佐藤純一 [ 返信 ]
[ 編集 ]
> 田崎茂 さんへ

田崎 様、運営お疲れ様でした。私自身初めて全国城郭研究者セミナーに参加させていただきましたが、さらに初めてのオンライン開催で大変ご苦労のことだったと思います。ありがとうございました。

さて、ご質問いただきました他氏の影響についてですが、現状ではあまり比較できていません。文献史学的には、(熊野水軍全般的な流れではありますが)南北朝期あたりに広範囲な活動(瀬戸内や九州南部まで)がみられ、とくにいくつかの安宅氏の所領が確認できる対岸の阿波国との関係は今後検討課題かと考えています。

また、私自身も報告で熊野三山と一括してしまいますが、時期によっては本宮(大社)と新宮(速玉大社)が争う事例などもあり一概にいえませんが、三山に立てこもるまではいかなくても、その宗教的な権威を利用していたとも考えられます。
予察的ではありますが、天正期以降に堀内氏が熊野を席巻しだすと、そのような築城規制が取り払われ、必要性に応じて城が多く築かれているのかもしれません。

あらためまして、今回「史跡安宅氏城館跡」について報告させていただく機会をいただき、ありがとうございました。今後ともどうぞご指導宜しくお願いします。


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