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H. 家康の掛川城攻めと陣城 — 永禄末期の家康の攻城戦について考える ( No.42 )
日時: 2021年08月20日 01:57
名前: 西村 和夫 [ 返信 ]
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望月 保宏 氏のご報告です。

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( No.69 )
日時: 2021年08月24日 00:51
名前: 和田剛 [ 返信 ]
岡山県の和田です。ご無沙汰をしております。

ご報告、大変興味深く拝聴させていただきました。そこで一つ質問があります。

家康の本陣される外天王山砦が、他の付城である青田山砦や杉谷城などより小規模で、遮断性にも乏しいように見受けられるのはどうしてなのでしょう。

外天王山砦は攻略対象であった掛川城に近く、包囲戦が半年にも及んだのであれば交戦を想定した縄張りとなるのが自然なような気がします。

また、お時間のあるときにでもお答えいただければ幸甚です。


( No.79 )
日時: 2021年08月25日 00:42
名前: 望月 保宏 [ 返信 ]
和田様、こちらこそご無沙汰しております。ご質問ありがとうございます。

外天王山砦ですが、規模的には他の付城遺構とさほど変わらず「小規模」とまでは行かないように思います。掛川城に比較的近いのは、当時掛川城を囲んだ攻城軍が家康直属の軍のみではなく、小笠原氏や久野氏など家康の遠江侵攻に伴い従属してきた国衆も含めた「混成軍」であり、家康の力はいまださほど大きくなく、ある程度自ら接近戦を挑まなければならない状況だったからではないでしょうか。また、同砦の縄張りですが、後世(山内一豊時代)龍尾神社が建てられ改変を受けてしまい、かなりの遺構が破壊されている可能性があります。場合によっては、砦の範囲は現在の龍尾神社境内より多少広かったかも知れません。

すみません。関連する史資料があまりないため、多分に推論を含んだ回答になってしまいました。もし参考事例等ご教示いただければ幸甚です。


Re: H. 家康の掛川城攻めと陣城 — 永禄末期の家康の攻城戦について考える ( No.130 )
日時: 2021年08月28日 01:00
名前: 田嶌貴久美 [ 返信 ]
同じくご無沙汰しております中世城郭研究会の田嶌です。

2つ質問なのですが、外天王山を始めとして掛川城周辺の陣城は本当に城郭遺構でいいのかと疑問を感じるようなものが多いのですが、一番遠方にある杉谷は発掘前の縄張図を見ても明確な遺構が見て取れます。攻略対象に近い陣城ほど入念に作事するべき所を逆になっている感じですが、杉谷は薬研堀と箱堀の2種もありますし、先行した城郭を再度取り立てた可能性はないのでしょうか? 発掘で遺物など出ているようでしたら、その様相も教えて頂ければと思います。
また掛川古城ですが、少しネットで調べた限りですと外天王山・仁籐山・青田山等に比較すると余程城郭らしい遺構を持つようですが、この包囲戦において築城されたのか、そうでない場合は推測される築城時期と築城者を教えて頂ければと。以上宜しくお願い致します。


Re: H. 家康の掛川城攻めと陣城 — 永禄末期の家康の攻城戦について考える ( No.159 )
日時: 2021年08月29日 07:45
名前: 田崎茂 [ 返信 ]
望月様
ご報告ありがとうございました。
掛川城攻めの陣城群を中心に、また後半では、二俣城攻め、高天神城攻めの陣城群もご説明頂き、家康の攻城戦の際の陣城が織田の関与もあり、進歩していった経緯も理解出来ました。ありがとうございました。
ご質問です。
1.付城構築の技術ので信長・秀吉のどれだけの影響を受けたかはまだまだ今後の検討が必要とおっしゃっておられますが、高天神城の際の小笠山城の構造の中で、そのあたりが垣間見れるようなところがあれば、そこをご教示頂ければと思います。また馬伏塚、横須賀についても何か影響が見れるようであれば、そこも教えて頂ければと思います。
2.和田さんの報告に対し、伊藤さんがご質問されておられましたが、陣城間の連携について、例えば土塁状の通路のようなものが作られていたのか、など研究されているところがあれば、見通しでも結構ですのでお教え下さい。


Re: H. 家康の掛川城攻めと陣城 — 永禄末期の家康の攻城戦について考える ( No.173 )
日時: 2021年08月29日 13:53
名前: 望月 保宏 [ 返信 ]
> 田嶌貴久美 様

こちらこそ、ご無沙汰しております。ご質問ありがとうございます。

先ず最初のご質問についてですが、確かに、外天王山砦をはじめとする付城(陣城)遺構は、後世の改変が著しいものもあり、城郭遺構かどうか疑問が残るものもあります。ただ、今回の報告で挙げさせていただいたものは、踏査を行った際、土塁や堀、曲輪等の遺構も認められるので、城郭遺構と考えてよいのではないかと思います。
なお、杉谷城についてですが、掛川市教委の発掘調査報告書を見た限りでは、16世紀後半のものとされるかわらけと陶器がわずかに出土しているとのことですので、掛川市教委の見解に従い、掛川城攻めの陣城遺構と考えました。ただ、15世紀末の今川氏親、伊勢宗瑞の遠江攻めの際の陣城の遺構として築城された可能性もあるのかも知れません。

2点目の質問についてですが、掛川古城は掛川城に近接しており、掛川城攻めの際は家康方の付城ではなく、今川方の「出城」的な施設として使用されたのではないかと考えます。なお、同遺構はもともと先述した氏親の遠江攻めにより掛川周辺を占領後、朝比奈氏(泰煕)によって城郭が設けられたものと考えております。


Re: H. 家康の掛川城攻めと陣城 — 永禄末期の家康の攻城戦について考える ( No.176 )
日時: 2021年08月29日 16:55
名前: 望月 保宏 [ 返信 ]
> 田崎茂 様

2年間にわたり、色々とお世話になりました。結局オンラインという形での開催になりましたが、私にとっては大変勉強になった、実り多いセミナーだったと思います。

さて、ご質問の件ですが、1.の小笠山砦について、信長・秀吉の影響についてはなかなかわかりづらいものがあります。連続する横堀や堀切、馬出状の曲輪などはむしろ武田氏の影響を受けたのではないかとすら思われます。今後他地域の例も調べながら、検討してみたいと思います。

2.の陣城間の連携について、今のところ通路のような遺構等は発見されていません。山と山の間に通路のような土塁状遺構がある可能性もありますので、今後発掘調査等で発見されることもあるかも知れません。

以上、あまり回答になっていませんが、今後更に調査・勉強していこうと思いますので、これからもよろしくお願いいたします。色々ありがとうございました。


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