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川西様 はじめまして大阪の髙田(たかだ)と申します。先日、浜松城を久しぶりに訪れたばかりで、興味深く拝聴しました。お聞きしたい点が3点ございます。 1点目。作左曲輪は近世の城域と離れたところにあります。遺跡の範囲としては飛び地的にくくっているのでしょうか。あるいは大きくひとまとめにしているのでしょうか。呼称が「曲輪」というのは理解できるのですが、実態としては曲輪なのか出城なのか、はたまた屋敷地れべるなのか。見通しでもよいのでお聞かせください 2点目。「古城」引馬城の部分ですが、全体が大きな方形区画であり、その中に四つの方形館が集合したかのような景観であったと思います。ただそれは最終形態(近世)だと思います。引馬城時代も四つの方形館が集合した形になりそうなのか、あるいはそれは徳川期を含めた改修による結果なのか、これも見通しでよろしいので教えてください。近世段階にも古城の一角は古い姿を残したようで、埋められた堀はあるけれども街路の方位などに近世段階においても影響を与えているように思います。 3点目。本丸南側裾では堀が出ていました。その奥に石垣が新たに見つかり、私も先日整備された石垣を見せてもらってきました。大変見やすく、わかりやすい整備だと感じました。 堀尾氏によって石垣が構築される際、先行して存在した徳川期の縄張り(おそらく土の土塁・堀)をどのような形で改修していったと想定できるでしょうか。南側の堀に土塁が存在していたと仮定した場合、奥(北側)の石垣は堀を埋めて土塁を崩した上で石垣を積んでいるのか、あるいは残したままで後で土塁を崩しているのか、天守台のある本丸ではどうなのか。未発掘の部分も多いと思いますが、現時点での見込み、予測でよろしいので教えて頂けますと幸いです。なにとぞよろしくおねがいします。 |
城郭談話会の山口誠司と申します。貴重なお話楽しく拝聴いたしました。ありがとうございました。 締め切り間際の質問にて恐れ入りますが、2点おうかがいしたいことがございます。 ①27次調査で検出された北側の堀は引間城の段階に掘削され、江戸時代を通じて長期にわたり機能したとのことでしたが、その間に掘り直しが行われたような痕跡は見つかっているのでしょうか。 ②7次調査4トレンチで検出された井戸からは軒丸・軒平瓦が出土していますが、これらと同笵関係が認められる資料は浜松城内での別の調査や周辺の遺跡の調査では見つかっているのでしょうか。 |
城郭談話会の堀と申します。 ご発表ありがとうございました。興味深く拝聴いたしました。 浜松城の瓦について質問です。期限過ぎて申し訳ございません。 軒瓦等の出土状況について、もう少し詳しくご教示ください。建物等がありそうな量なのか、ごく少量なのか全体の分量について伺いたく存じます。 山口さんの②と重複しますが、浜松城の瓦当文様については、他の城郭・寺院と同笵もしくは、類似した製作技法をもつものはございますか。 よろしくお願いいたします。 |