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J. 浜松城跡における近年の発掘調査成果について ( No.41 )
日時: 2021年08月20日 01:55
名前: 西村 和夫 [ 返信 ]
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川西 啓喜 氏のご報告です。

質問の期限: 8月 25 日(水)23:00 → 過ぎました
上記期限以降のご質問に対しては,基本的に回答いたしかねます.


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Re: J. 浜松城跡における近年の発掘調査成果について ( No.83 )
日時: 2021年08月25日 07:43
名前: 髙田徹 [ 返信 ]
川西様 はじめまして大阪の髙田(たかだ)と申します。先日、浜松城を久しぶりに訪れたばかりで、興味深く拝聴しました。お聞きしたい点が3点ございます。
1点目。作左曲輪は近世の城域と離れたところにあります。遺跡の範囲としては飛び地的にくくっているのでしょうか。あるいは大きくひとまとめにしているのでしょうか。呼称が「曲輪」というのは理解できるのですが、実態としては曲輪なのか出城なのか、はたまた屋敷地れべるなのか。見通しでもよいのでお聞かせください
2点目。「古城」引馬城の部分ですが、全体が大きな方形区画であり、その中に四つの方形館が集合したかのような景観であったと思います。ただそれは最終形態(近世)だと思います。引馬城時代も四つの方形館が集合した形になりそうなのか、あるいはそれは徳川期を含めた改修による結果なのか、これも見通しでよろしいので教えてください。近世段階にも古城の一角は古い姿を残したようで、埋められた堀はあるけれども街路の方位などに近世段階においても影響を与えているように思います。
3点目。本丸南側裾では堀が出ていました。その奥に石垣が新たに見つかり、私も先日整備された石垣を見せてもらってきました。大変見やすく、わかりやすい整備だと感じました。
堀尾氏によって石垣が構築される際、先行して存在した徳川期の縄張り(おそらく土の土塁・堀)をどのような形で改修していったと想定できるでしょうか。南側の堀に土塁が存在していたと仮定した場合、奥(北側)の石垣は堀を埋めて土塁を崩した上で石垣を積んでいるのか、あるいは残したままで後で土塁を崩しているのか、天守台のある本丸ではどうなのか。未発掘の部分も多いと思いますが、現時点での見込み、予測でよろしいので教えて頂けますと幸いです。なにとぞよろしくおねがいします。


Re: J. 浜松城跡における近年の発掘調査成果について ( No.89 )
日時: 2021年08月25日 17:27
名前: 伊藤俊治 [ 返信 ]
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和城研の伊藤と申します。一つ質問いたします。
最近「武田氏研究」の北垣先生の論文でも指摘されていましたが、『寛政重修諸家譜』の「倉橋宗三郎」の項や『岡崎領主古記』に、元亀元年に浜松城天守台が地震で崩れ(それで倉橋某が死亡す)るとの記述がありますが、発掘でそのような跡が見つかっていませんでしょうか。


Re: J. 浜松城跡における近年の発掘調査成果について ( No.93 )
日時: 2021年08月25日 20:40
名前: 木地谷 了一 [ 返信 ]
中世城郭研究会の木地谷と申します。貴重なお話ありがとうございました。
12次調査区第5、6トレンチで検出された石垣についてご発表では”ケイセキ”と聞こえましたがどのような石なのでしょうか?またそれはこの浜松城のある地山から産出されたものなのでしょうか?
浜松城では石垣にチャートを多用していますが、この”ケイセキ”も城内での使用事例はあるのでしょうか?


Re: J. 浜松城跡における近年の発掘調査成果について ( No.95 )
日時: 2021年08月25日 22:48
名前: 山口誠司 [ 返信 ]
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城郭談話会の山口誠司と申します。貴重なお話楽しく拝聴いたしました。ありがとうございました。
締め切り間際の質問にて恐れ入りますが、2点おうかがいしたいことがございます。

①27次調査で検出された北側の堀は引間城の段階に掘削され、江戸時代を通じて長期にわたり機能したとのことでしたが、その間に掘り直しが行われたような痕跡は見つかっているのでしょうか。
②7次調査4トレンチで検出された井戸からは軒丸・軒平瓦が出土していますが、これらと同笵関係が認められる資料は浜松城内での別の調査や周辺の遺跡の調査では見つかっているのでしょうか。


Re: J. 浜松城跡における近年の発掘調査成果について ( No.127 )
日時: 2021年08月27日 23:52
名前: 堀寛之 [ 返信 ]
城郭談話会の堀と申します。
ご発表ありがとうございました。興味深く拝聴いたしました。
浜松城の瓦について質問です。期限過ぎて申し訳ございません。
軒瓦等の出土状況について、もう少し詳しくご教示ください。建物等がありそうな量なのか、ごく少量なのか全体の分量について伺いたく存じます。
山口さんの②と重複しますが、浜松城の瓦当文様については、他の城郭・寺院と同笵もしくは、類似した製作技法をもつものはございますか。
よろしくお願いいたします。


Re: J. 浜松城跡における近年の発掘調査成果について ( No.133 )
日時: 2021年08月28日 13:33
名前: 福永素久 [ 返信 ]
北部九州中近世城郭研究会の福永といいます。
ご報告ありがとうございました。

あんまり報告の内容とは関係ないのですが、引馬城跡について、質問があります。
ご提示した絵図(pJ-2.図2)に城跡が表記されてあるということは、江戸時代の途中まで城跡(曲輪・堀・土塁それぞれの痕跡)が残ってていたことになりますが、いつ頃まで残っていたか分かりますか。
あったのなら、浜松城の曲輪の1つとして利用されたのでしょうか?


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